織田信長は美濃攻めを急がねばならなかった。それは一貫している。斎藤義龍が一色氏を名乗ることで、斎藤利政の婿としての後継者要素も、土岐頼芸を奉っての大義名分も失うからだ。まさかこの時点では1561(永禄4)年5月に義龍が急死するとは思ってもいなかっただろう。

それを見透かして今川義元は西三河領有化を進める。美濃を巡って武田晴信がすでに信長と交誼を結んだこともあり、義元としても信長をどうするか早く決める必要があった。完全に従属させることが第一だが、晴信が遠山氏に行なったような半従属のような形でも構わなかっただろう。また、西三河には刈谷・緒川に織田方の水野氏がいた。まずこの国衆を従えなければならない。

義元の文書分布を見ると、永禄元年4月頃から減り始め、同2年5月から不自然な程に発給数が減っている。また、義元の感状発行日数で考察したことを合わせて考えると、この頃から義元は西三河の前線にいたのだろう。永禄3年3月に一旦駿府に戻った形跡があり戦国遺文では3つ記録が残されているが、同月20日に関口氏純が「近日義元向尾州境目進発」と書いたのを最後に記録は途絶える。正式な家督継承はなかったと見えて、氏真の文書はまだ少ないため、この時期の今川分国は行政不在に近い状況になっていたようだ。

ここで視点を変えて、義元敗死の状況を考えてみる。氏真の「尾州於鳴海原一戦」という言葉から、義元は沓掛から鳴海への補給行程で相原郷付近で戦闘に及んだ。その段階で朝比奈親徳は銃撃にあって負傷し戦線を離脱する(川の柳に隠れたという伝承あり。扇川か?)。その後、同じ氏真書状にある「父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死」という記述があるので、義元は松井宗信に援護されながら退却を開始した。太原崇孚香語にある「礼部於尾之田楽窪、一戦而自吻矣」から、義元たちは鴻仏目辺りを渡って二村山を目指しつつ、麓の田楽窪で全滅したと導き出せる。

なぜ義元が二村山を降りて鳴海原にいたのだろうか。最も有力な考えは、義元自らが沓掛・鳴海間の補給を指揮していたということだ。毎月19日に行なわれていた鳴海から大高への補給はこの日も行なわれていたのは、大高城周辺でも合戦があったことからはっきりしている。であれば、沓掛から鳴海、鳴海から大高への補給が同じ日に行なわれていた可能性が高い。大高への補給で空いた倉庫にそのまま沓掛から補給できる。

このことは、鳴海城にいた岡部元信がなぜ眼前の鳴海原へ救援に動かなかったかの理由付けにもなる。丸内古道を通って大高に向かう補給部隊を出してしまった鳴海城では、沓掛からの補給部隊が来るまで身動きがとれない。

この同時補給は挑発の一環でもあるだろうが、隙を見せ過ぎな面が大きい。このような用兵を少なくとも半年以上、律儀に毎月19日に行なっていたのだとすれば、織田方としては作戦が立て易かっただろう。

この時、5月19日だけ偶然義元がいたという考えも可能だが、信長が美濃との国境を空ける危険を冒してまでの強襲をかけたのだから、やはり織田方の狙いは、二村山を降りて鳴海城に入るまでの義元の身柄にあったのだと思う。であれば、4月19日の時に義元は姿を見せていたのだろう。ここまで来ると挑発というより油断としかいいようがない。

そもそも今川方のちくはぐさは前年10月19日から現われている(検証a46)。補給部隊警護の奥平監物は、後方の菅沼久助が襲撃されて慌てて引き返している。敵の攻撃を誘う挑発行為であるならば、もっと警戒して然るべきではないだろうか。挑発はあくまで手段であり、目的は敵兵力を引き付けることにあるのだが、この頃すでに挑発している自覚がなくなり毎月19日の補給自体が目的化してしまっていた兆候が出ている。

また、幸か不幸かちょうどこの頃は旱魃が続いていた(甲斐の記録で「此年六月前ハ日ヨリ同六月十三日ヨリ雨降始」とある)。結果、濃尾国境の河川は水位が下がっていたと思われ、美濃からの侵攻が容易になっていた。このことがさらに今川方の油断を誘ったのではないか。

それを裏付けるように、5月19日の大きな戦果にも関わらず、織田方はその後作戦を継続していない(大高・沓掛は自落、鳴海は自主開城)。なるべく一瞬で片をつけて美濃に備えたかったと判る。傍若無人な挑発を繰り返す今川方を放置するのも限界に来ており、水野氏からの救援要請もあって叩いておくことにしたのだろう。もし義元を討てなかったとしても、「いつでも全兵力を南下できる」という威嚇は成功する。信長が濃尾国境をがら空きにするという発想は義元にはなかった。この点が敗因の1つだと考えている。挑発の結果、相手が危険を冒してでも反撃してくるというシナリオを考えていなかったのだと。

もう1つの敗因は、本来攻守同盟を結ぶべきだった義龍と連携していなかったことだ。信長と晴信が友好関係にあるため、彼らの共通の敵へ具体的な連絡をとることを義元は躊躇した。だからこそ、毎月19日という隠微なメッセージを義龍に送り続けたのかも知れない。しかしそれは甘い考えだったのだろう。後で何と言われようと、義龍と連携を取って信長を追い込み、しかる後に晴信と共に義龍を攻めればよかったのだ。

1545(天文14)年に晴信は、北条氏康攻めに固執する義元を宥めている(武田晴信書状写)。松井山城守宛だが、実質義元宛といっていい。また、文中で「有偏執之族者」と書いているのは暗に義元の頑なさを示唆しているようにも見える。刻々と変わりゆく状況に柔軟に対応する能力と、変節漢と言われようと笑っていられる厚顔さが義元には足らなかったのかも知れない。それはまた、正当な後継者ではなく内戦によって今川家当主となった負い目が影響しているようにも思える。

六角義賢の条書写で最も気になるのは、斎藤義龍と京都(将軍・幕府政所・関白)との親密さをなじっている部分だ。

斎治言上儀、不可被成御許容旨、 公方様江再三申上、又伊勢守与斎治所縁之時、京都江荷物以下当国押とらせ、対勢州数年不返候、并近衛殿江彼娘可被召置由、内々此方江御届之時、以外御比興、沙汰之限之由、申入■■被打置儀候

義賢は何故このような妨害を行なっているのだろうか。その理由には、この条書で多数触れられている土岐頼芸の問題があった。天文末年から美濃を巡る最大の関心事はここにあった。

1551(天文20)年と思われる年に、近衛稙家は今川義元に、『土岐美濃守入国之儀』を成功させるために織田信秀と和睦するよう依頼している。元々美濃守護だった土岐美濃守頼芸は斎藤氏によって国外に追い出されていたが、彼を復帰させようと足利義輝が画策。この時に間を取り持ったのは家督相続前後の六角義賢であった。

近衛稙家、織田信秀との和睦継続を今川義元に求める

その9年後にも、土岐頼芸を擁した六角義賢はもとより、朝倉・織田にとってもこの事案は継続案件として扱われているのは条書写でよく判る。しかし、何とこの和睦を主導した義輝・近衛前久(稙家の息子)は、頼芸を追い出した斎藤義龍と交誼を結んでいた。別史料になるが、更に『一色』の名前を与えようとしていた。義賢が不満に思ったのも無理はない。

そして、実はこの前年、織田信長は短時間上洛している。その要因の一つに、頼芸帰国交渉についての義輝の真意を質す目的があったのではないか。

各種日記における、『永禄2年の織田信長上洛』の記述

同じ陣営の六角義賢の協力もあって行きはスムーズだったが、国許が慌しくなり5日程で帰国している。上洛を察知した義龍の後方撹乱によるものだろう。信長が義輝と面談できたかは定かではない。

頼芸帰国は、信長にとって美濃侵攻の強力な大義名分であり、この案件がある限りは今川義元の西進を抑制できる一石二鳥の旗印でもあった。無理な上洛をしてでも維持したかったのかも知れない。

信長はこの6年後にも似たような状況を利用しようとしている。

美濃国の氏家直元ら、甲斐国の某に織田信長の美濃出兵失敗を伝える

横死した義輝の後継者である義昭からの檄に応じて、斎藤龍興と共同で上洛作戦を行なうことになった。しかし、尾張からの上洛経路を整備させた挙句に作戦から離脱を宣言し、美濃への侵攻を行なったという。

この例を敷衍すると、頼芸入国の裏でも、それに乗じて美濃侵攻を虎視眈々と狙っていたものと思われる。ところがその名分は瓦解。あまつさえ、将軍の後ろ盾を得て守護家格の一色氏となった義龍が、守護代格の織田氏を圧倒する可能性すら出てきたとすれば、信長はかなり焦っただろう(上記書状の斎藤氏家臣の苗字は、何れも一色氏のものに改名されている)。

一方、西三河の統制強化を行なっている矢先の今川義元は、この綻びを聞きつけて尾張への圧力を強めていったのではないだろうか。

六角承禎(義賢)による興味深い条書から、以下の状況が判る。

斎藤義龍は京都(将軍・政所・関白)と強い繋がりを持っており、朝倉義景とも婚姻関係を持っていた。しかし、土岐頼芸の美濃復帰を巡るやり取りで朝倉義景との関係が微妙になっていた。また、織田信長・遠山景任とも敵対していた。

また六角義賢は縁戚の畠山義綱との関係で朝倉義景と敵対しつつも和睦を模索しており、「六角と組んで朝倉とは断交する」という斎藤義龍の発言を信用していなかった。

  1. 六角義賢と六角義弼の親子は以前に仲違いしており、六角義弼は佐和山にいた。
  2. 六角義弼が佐和山から城に戻る際に、六角義賢に服従することを誓約していた。
  3. 斎藤義龍との婚姻は六角義弼が主導で行なっており、六角義賢は反対していた。
  4. 土岐家と六角家は複数の婚姻関係にあり、土岐頼芸は数年前から六角氏の元に滞在している。
  5. 斎藤義龍は将軍の足利義輝と政所の伊勢貞孝、関白の近衛前久(この年9月19日に越後下向『諸家伝』)と親しかったが、六角義賢は常々妨害と諫言をしていた。
  6. 朝倉義景との婚姻は継続協議中だが、以前は能登の畠山義綱との関係で失敗していた。
  7. 斎藤義龍は朝倉義景と婚姻関係があったが、六角氏との同盟を重視して破棄すると申し出ていた。
  8. 朝倉義景は揖斐五郎を擁して美濃侵攻を企図し、土岐頼芸を介して織田信長と協議しているとの噂を義賢が入手している。
  9. 斎藤義龍は、越前の朝倉義景、尾張の織田信長、東美濃の遠山景任と紛争状態にあり、六角氏に何かあっても援軍を遅れないと義賢は考えていた。

ちなみに、『戦国史研究54号』の「斎藤義龍の一色改姓について」(木下聡・著)によると永禄期から斎藤義龍は一色義龍に改名しており、主要な家臣も一色氏家臣と同じ苗字に変えていたという。

安東日向守 → 伊賀伊賀守 守就
桑原三河守 → 氏家常陸介 直元
竹越新介  → 成吉摂津守 尚光
日根野備中守 → 延永備中守 弘就

将軍である足利義輝は土岐頼芸を擁護しつつも、土岐氏と並ぶ家格の一色氏の名を斎藤義龍に与えたものと考えられる。両天秤外交かも知れない。

『歴史研究 第592号』の「特別研究 沓掛城の新発見」にて太田輝夫氏が、沓掛城の比定地を考察している。要旨は以下の通り。

■現在城跡公園になっている遺構は蓬左文庫の『沓掛村古城絵図』と規模・縄張りが合致しない。発掘物も決定的なものは出ていない。

■公園の西にある聖応寺周辺に空堀・土塁などがあって、絵図とも条件が合いそう。

■鳴海・大高方面が眺望できる聖応寺側遺構の方が比定地として有利ではないか。

詳しくは直接文面をご確認いただきたい。

私も太田氏の推測は妥当だと考えている。直接訪れると判りやすいが、戦国期の城郭として現在の城跡公園は「比定地としておかしい」という印象が強い。手頃な丘陵地に囲まれている窪地で、川や崖がある訳でもない。

恐らく、城跡公園の沓掛城は天文年間以前の古態で居館ベースではないか。その後、より戦闘を意識した聖応寺側遺構に移ったと。

ただ私は永禄3年限定で、もう1つの沓掛城の存在を考えている。位置は二村山である。今川方から見れば、鎌倉道を鳴海まで確実に掌握する必要があり、それには聖応寺遺構ですら東に寄り過ぎているといえる。二村山はこの近辺の最高地点であるし、西に向かってそそり立つ地形から見ても要害といえる。

上の図で、峠地蔵から西に坂を下った辺りに茶色で分類される草地があるが、ここは曲輪状の地形である。ここのさらに西に笹(黄色エリア)が位置するが、この境目は土塁と空堀の組み合わせになっているのだ。

セイタカアワダチソウなどが茂る平地部分

セイタカアワダチソウなどが茂る平地部分

曲輪側から見た城門的地形。土塁を分断している。

曲輪側から見た城門的地形。土塁を分断している。

北に延びる土塁面

北に延びる土塁面

土塁を左右に置いた城門的地形

土塁を左右に置いた城門的地形

南へ延びる土塁面

南へ延びる土塁面

この曲輪の中央を鎌倉道が抜けているが、貯水池のあるピークと展望台のある峰に挟まれており、かなり防御力は高い。

展望台からの下り道。

展望台からの下り道。

展望台からの連絡通路はかなりの急坂。ここを攻め上るのは至難だろう。

2回目の行程は名鉄前後駅から始めた。まず合戦の死者を埋葬したという伝承が残る戦人塚。多少の木立があるものの、全方向に見通しが利く。特に二村山とは悪天候でも狼煙で通信可能だと思われる。

戦人塚は東西に延びる峰で最も見晴らしのよいピークにある。

戦人塚は東西に延びる峰で最も見晴らしのよいピークにある。

もしかしたら、緒川から大高への出撃を監視していた今川方の拠点だったかも知れない。その後丘陵を一旦降りてひたすら歩き、沓掛城跡公園を目指す。

沓掛城跡は公園になっている。堀も土塁も小さく周囲の丘陵から見下ろせる立地。

沓掛城跡は公園になっている。堀も土塁も小さく周囲の丘陵から見下ろせる立地。

この規模の小ささには驚いた。構造物も小ぶりだし、何より「城内からは何も見えず、城外からは城内が見える」という占地が謎だ。はっきり言ってここが今川方拠点とは思えなかった。

二村山展望台より鳴海方面を望見。

二村山展望台より鳴海方面を望見。

沓掛城跡公園から坂を上って二村山へ。豊明神社や曲輪上の平地などが位置し、沓掛側からは緩やかな上り坂になっている。その後、峠の頂上から北側に峰が続き、その西側は崖になっている。北峰に展望台があり、鳴海城・大高城へ眺望が開ける。

西から二村山に向かうと、まず土塁らしき構造物に囲まれた平場が出てくる。これは西から見た入口付近。

西から二村山に向かうと、まず土塁らしき構造物に囲まれた平場が出てくる。これは西から見た入口付近。

今度は西からのアプローチを実体験する。まず通過するのが曲輪状の地形。上の写真で判るように、道の両側に土塁がある。

二村山の鎌倉道は、西からアプローチすると急な上り坂になっている。

二村山の鎌倉道。西の曲輪状地形の背面は急な上り坂になっている。

そこを抜けると、峰に取り付く山道となる。東から来るより急勾配。

今川義元の死亡比定地である田楽窪。画像右は濁り池、左側には大きな病院がある。

今川義元の死亡比定地である田楽窪。画像右は濁り池、左側には大きな病院がある。

二村山から更に西に行くと、田楽窪になる。当時の鎌倉道が濁り池の北・南どちらを通っていたかは諸説あるようだが、現在の道路は南側を抜けていた。写真の向こう側にある森は丘になっている部分で、この辺りが窪地となっていることを示す。妙に気味の悪い空間だった。

相原郷諏訪神社の背後にある大形山には、公園がある。最高点は藪の中だったので状況は不明。

相原郷諏訪神社の背後にある大形山には、公園がある。最高点は藪の中だったので状況は不明。

田楽窪から鎌倉山・尾崎山の辺りを抜けて鴻仏目の渡しを通り、相原郷へ。諏訪神社の背後にある大形山に行ってみた。公園の奥に山道が続いていたが、藪がきつくて進入を断念。何か構造物があったかも知れないが、その西の緑高校敷地の方が標高が高く、相原郷から鳴海への鎌倉道監視であればそちらの方が適しているように思った。

成海神社境内の西端。切り立った断崖になっている。

成海神社境内の西端。切り立った断崖になっている。

緑高校から鎌倉道を見下ろすように西へ行き、殆ど丘陵の態を残していない作山を右手に見つつ成海神社へ。規模は鳴海八幡より大きい。西側は崖になっており、鎌倉の下の道を監視するには絶好の位置。

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成海神社西側の光明寺。1556(弘治2)年創建という。

神社から西へ坂を下り、一般に『丹下砦』跡と言われる光明寺に行く。門前の石碑には1556(弘治2)年創建とあり、これは大高の春江院と同じ。何かの関係があるのだろうか。位置としては成海神社から見下ろされる形なので、砦というよりは関所だったのではと想像した。

扇川左岸から見た瑞泉寺。元は諏訪山にあり、瑞松寺と称していたという。

扇川左岸から見た瑞泉寺。元は諏訪山にあり、瑞松寺と称していたという。

そのまま旧東海道を南下して鳴海本陣を経て、前回行けなかった瑞泉寺へ行く。川を前にして小高い位置にあり、城郭構造を髣髴とさせる。

瑞泉寺山門から扇川・手越川の合流点を見る。距離は100メートルもない。

瑞泉寺山門から扇川・手越川の合流点を見る。距離は100メートルもない。

扇川と手越川の合流点は瑞泉寺の目前で、その向こう側と伝わる『中島砦』とは距離が殆どない上、眺め下ろす形になる。この場所は、大高に向かう丸内古道、扇川・手越側、緒川道が一点に集約されるポイントで、ここを織田方に制圧されていた場合、鳴海城が堅固に維持できるとは思えない。

これまでずっと古文書で実態を追ってきたが、鳴海原を実際に歩いてみる機会が2度あったので、その際の感想を書き残しておこうと思う。

鳴海駅から北に向かうと、ぐっと坂が急になった途中に鳴海城関連の案内板が見える。円龍寺は、旧名『善照寺』といい、元々はこの丘陵の東端に位置していた寺院。鳴海城と根小屋城が分かれて表記されているのが少し不思議だった。

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案内図をアップにしてみると、それぞれの位置関係が判る。近世の東海道は、鳴海城のある丘陵を迂回して北方に向かっている。

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下の図は以前私が検討した、永禄頃の鳴海城。三方向に崖が張り出しているなか、唯一なだらかな稜線となっているのが北面である。

1961年空撮写真を元に鳴海城付近を図示

1961年空撮写真を元に鳴海城付近を図示

では現代の地形から上記は確定できるのか、実際に歩いて調べてみた。

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↑鳴海城・根小屋城の間にある道路から、北方の成海神社方面を見る。道路の向こう側に小さく見える森林が成海神社。現在の地形は比較的なだらかに伸びており、もし北方からの攻撃を想定するなら堀切や土塁は必須だったと考えられる。

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↑東にある善照寺砦跡に向かう途中、鳴海城のある西方向を撮影。10メートル程度の高低差があり、建物のなかった当時は城内を見通せただろう。ここから鳴海小学校ぐらいが最高所で、少し下って善照寺砦が現われる。つまり、善照寺砦と鳴海城は丘陵の両端にあって互いに見えない位置関係にあるということだ。

いわゆる『善照寺砦』は現在『砦公園』になっている。東側以外は急斜面で帯曲輪状の段もある。

いわゆる『善照寺砦』は現在『砦公園』になっている。東側以外は急斜面で帯曲輪状の段もある。

砦公園を出て更に東の相原郷を目指す。雨が激しくなってきたなか、ゆるやかに下っていくルートだ。鳴海側の方が若干ではあるが標高が高いように感じた。

相原郷の諏訪神社。階段の前を横切っているのは鎌倉道。

相原郷の諏訪神社。階段の前を横切っているのは鎌倉道。

相原郷は諏訪神社で折り返す。神社の裏には大形山と呼ばれる丘陵がある。ここまでは国道沿いに移動したが、ここからは鎌倉道を通ることとした。

浄蓮寺は今川旧臣が創建した伝承を持つ。本堂を西側から撮影した。画像の左、本道の裏にあるのが鎌倉道。

浄蓮寺は今川旧臣が創建した伝承を持つ。本堂を西側から撮影した。画像の左、本道の裏にあるのが鎌倉道。

浄蓮寺を抜ける辺りは曲がっているが、比較的直進が多い。但し、鳴海に向かって右手が小高い丘になっていて、そこから側面を衝かれると厳しいだろうと感じた。丘の上には現在名古屋市立緑高校が建っている。大形山との連携次第だろうが、鎌倉道を移動中の部隊に攻撃をかけるには適した地点だ。

鳴海八幡。微高地にあるようで、周囲の前之輪地域は洪水に強いという。知多半島入口の要衝。

鳴海八幡。微高地にあるようで、周囲の前之輪地域は洪水に強いという。知多半島入口の要衝。

鳴海駅に一旦戻り、そこから南下して鳴海八幡へ。ひたすら平坦な地域が続くが、そのぶん東の丘陵地帯が目立つように感じられる。

大高城本曲輪の南東から撮影。画面左手に壇状曲輪があって神社が鎮座している。

大高城本曲輪の南東から撮影。画面左手に壇状曲輪があって神社が鎮座している。

更に進んで大高城。縄張りの構造はシンプルだが、本曲輪に相当する部分がかなり大きい。説明板によると史跡としての指定面積は40,613平方メートル。沓掛城址公園が約10,000平方メートル、鳴海城は非掲示だったので推定だが広く見積もっても12,000平方メートル程度。かなりアンバランスな印象がある。

周囲の春江院、津島社を巡ったが、大高城は東側の丘陵地からだと見下ろせることが判った。

感状で「返」という表現を用いているのは今川氏の特徴である。アップした史料から抽出すると4例が見つかった。

「味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利」義元→岡部元信 1552(天文21)年
「尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、自身相返敵追籠」義元→奥平定勝 1559(永禄2)年
「敵慕之処、宗信数度相返条」「味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦」氏真→松井八郎 1561(永禄4)年
「敵慕之処一人馳返」氏真→稲垣重宗 1562(永禄5)年

基本的に、味方の劣勢が前提にある。これを見て退却中なのに引き返したり、追撃してきた敵に反撃したりという内容だ。この中で2番目の奥平監物宛については、菅沼久助宛の別の感状が内容を補足している。

どちらも10月23日の日付を持つこの感状だが、ほぼ同文である。

菅沼久助宛

去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、為自身無比類相働、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠功之状、仍如件、

奥平監物宛

去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、自身相返敵追籠、無比類動、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠切之様、仍如件、

異なるのは活躍の内容。「為自身無比類相働=自ら比類なく働き」久助に対して「自身相返敵追籠=自ら引き返して敵を追い込めた」という監物がいる。

可能性として考えられるのは、監物が先に進んでいた。あるタイミングで久助が攻撃され部隊長が戦闘に加わる程の激戦となった。それを見た監物は引き返して援助し、敵をどこかへ追い込めた。といったところだと思う。

2人は大高城へ兵員と食料を搬入するために行動している。食料は荷物でしかないが、兵員はそのまま護衛部隊になる。自分の同心・被官を伴っていることから考えても、監物・久助はそのまま大高城に入ったと考えられる(但し、翌年5月19日に菅沼久助は武節城方面にいたことが判明している)。

義元の文言に「尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻」という抽象化がなされていることから、この時に食料を携えて大高城へ入ったのは久助・監物の他にも複数存在したような印象も受ける。「為先勢遣之処=前衛部隊としたところ」とあるので、この2人の後に物資・交代兵員が続いたのだろう。

また、この戦闘は昼間行なわれた可能性が非常に高い。夜間戦闘は評価が高いようで、感状では明言される例が非常に多い。であるから、逆にこの戦闘が夜間戦であった可能性はとても低いといっていい。

この補給ルートは、大高に最も近い鳴海城から行なわれたと考えてよいだろう。鳴海城は今川義元敗死後も堅持された防御力を誇るので、ここまでは安全に運び、潮の干満や悪天候にも左右されないという丸内古道を使えば鳴海城南端の瑞泉寺から約2.6km。

鳴海城の南側から伸びる古道で、2000年の洪水でも被害を受けなかったという。

鳴海城の南側から伸びる古道で、2000年の洪水でも被害を受けなかったという。

この今川補給部隊を攻撃するとなると、最も近いのは星崎城となる。星崎城は1590(天正18)年に吉川方が駐屯した史料があり、周囲を海に囲まれていたことが判る。その先の喚続神社までは戦国期陸地だったと考えられる。この近辺は大規模な塩田もあって、経済的にも今川方に奪われる訳には行かなかったのだろう(織田信長による接収史料)。加えて、星崎・笠寺まで進出されれば熱田は目の前である。星崎には織田方が多数詰めていたであろうし、その一部が眼前の補給部隊を急襲したとしてもおかしくはない(正午前後であれば干潮であって地続きとなる)。

 

旧暦の19日に今川方は3回攻撃を仕掛けている。9月19日、10月19日、そして5月19日は少なくとも確定しているが、それ以外にも永禄2年5月頃から1年にわたり毎月19日に攻撃していた可能性も高いように見える。

では、なぜ19日なのか。

この頃の暦は太陰太陽暦で月齢と日付が近しい関係を持っている。9月・10月・5月それぞれ19日の月齢は18.5/18.0/17.9で殆ど同じだ。

月齢が近いということは潮位も似ている。朝の満潮は5時44分~6時19分に222~235センチ、昼に干潮があり11時43分~12時41分に10~97センチ、夜の満潮が17時14分~19時40分に228~241センチ。但し、それぞの前後である18日と20日もほぼ変わらないのと、月齢3.0前後の日付であっても潮位のサイクルはほぼ同じだ(この場合は月齢が大きく異なるが)。

このように考えると、毎月19日に攻撃を掛けるというのは織田方にとって有利な要素しかないことに気づく。

  1. 攻撃日を自由に決められるという攻撃側の最大利点を自ら放棄してくれている
  2. 11~12時に干潮となり、移動中の補給部隊を攻撃し易い
  3. 朝と夜に満月に近い月齢で満潮となるため、補給前後の鳴海・大高を夜間でも攻め易い

ここまで来ると、今川義元が「毎月19日に補給作戦を行なう」と決めたのは、織田方に有利な条件で敢えて隙を見せることにあり、それは挑発を目的とするとしか言いようがない。また、「3月19日」に過去行なわれた小豆坂合戦と同じ日取りを用いることで両家の因縁を想起させた可能性も考えられる。

データ

●大高への出陣日

月日 月齢 日出・日入 干満
11月28日 18.5 0638-1642 0619時235cm/1153時97cm/1731時228cm
12月27日 18 0659-1647 0618時222cm/1143時103cm/1714時214cm
6月22日 17.9 0438-1910 0015時116cm/0544時231cm/1241時10cm/1940時241cm

●11月28日(旧暦9月19日)の前後との比較

月日 月齢 日出・日入 干満
11月27日 17.5 0637-1642 0540時227cm/1119時94cm/1704時226cm/2335時14cm
11月28日 18.5 0638-1642 0619時235cm/1153時97cm/1731時228cm
11月29日 19.5 0639-1642 0010時8cm/0658時238cm/1227時102cm/1759時228cm

●月齢が裏になる日取りとの比較

月日 月齢 日出・日入 干満
11月28日 18.5 0638-1642 0619時235cm/1153時97cm/1731時228cm
12月12日 3 0650-1641 0627時233cm/1150時100cm/1720時226cm

鳴海から沓掛にかけては鎌倉道が直通していたが、近世になると鳴海から有松を経て知立に抜けるようになる。では、1560(永禄3)年にはどうなっていたのか。

又鳴海の里を行ば、藍原宿を過て、田楽が窪と云野を過て、沓かけを下て一里計東に川有。是まで尾張也。

→豊明市史 資料編1 9「名所方角抄」宗祇

飯尾宗祇の著と伝わるこの書物から、1460(長禄4)年~1500(明応9)年くらいの年代と推測される。鳴海から相原を経由、田楽窪という平地を過ぎてから沓掛を下って約1里東に川があり、ここまでが尾張だと書かれている。

「室町時代の後半になると、二村山に変わって田楽ケ窪の地名が登場し、それも物騒で旅人に恐れられていた所として記されている」

「この新しい経路への移行は天正2年から行なわれた尾張国内の道路整備が契機であったものと考えられる」

同書432ページ

室町前半までは二村山の峠越えの様子が多々見られるが、室町後期、つまり『名所方角抄』辺りでは二村山を南に迂回していたようにも考えられる。田楽窪は「野」であったというので平地であっても耕作地ではない。強盗事件が多数発生していたようである。後世から考えると山道を行った方が犯罪率が高まりそうだが、どうやら逆らしいのが面白い。

上の引用で「この新しい経路」とあるのは、近世東海道を指す。1574(天正2)年に交通網がリセットされ、それに伴って二村山・田楽窪ルートが縮小されたのだろう。家忠日記で確認すると、少し下った天正10年に記述が見つかった。

十三日[己亥]雨降、岡崎迄越候、城へ出候、

十四日[庚子]鳴海迄越候、

→愛知県史資料編11 1521「家忠日記」天正10年6月

本能寺の変の後に、徳川家康が上京するために鳴海城に入った。この時には降雨の中岡崎を出発して、翌日鳴海に到着している。経路は特に触れていない。ついで翌年は三河が大洪水に見舞われる。

(天正)十一[癸未]大洪水、此ノ年二・三度降、人皆ナ死ス、

→愛知県史資料編12 145「王稔合集記 龍渓院文書」

廿日[庚子]大雨降、五十年已来大水ニ候、御祝言も延候、

廿一日[辛丑]白すか迄帰候、雨降、御陳来十二日迄延候、

廿二日[壬寅]雨降、ふかうそヘかへり候、中島・永良堤入之口皆々切候、三川中堤所々きれ候、

廿三日[癸卯]雨降、申酉間ニ地震候、大水出候、廿日之水よりひろ高く候、

→愛知県史資料編12 144「家忠日記」天正11年7月

家忠日記で祝言といっているのは、家康次女良正院殿が北条氏直に嫁すことを指す。ちょうど嫁入りで出発する折りに、大洪水になってしまったようだ。20日の予定が翌日になり、止まないようなので12日まで大きく延期となった。22日に家忠が自宅の深溝へ帰ったところ、三河全域の堤防が決壊したという。続いて23日夕刻に地震があって更なる洪水につながった。この大水害が三河側の街道位置も変えた可能性があるため、念のため引用する。

八日[乙酉]雨降、岡崎迄出陣候ヘハ、路次迄可被越之由御意にて、矢作越候、

九日[丙戍]あの迄着陣候、

十日[丁亥]酒左同心にて鳴海迄着陣候、

十一日[戊子]

十二日[己丑]山崎迄着陣候、伊賀・大和御味方ニまいり候由候、

十三日[庚寅]津島迄着陣候、

→愛知県史資料編12 292「家忠日記」天正12年3月

羽柴方と対戦中だった際の叙述。岡崎から一気に鳴海まで行った天正10年と異なり、阿野で1泊している。翌日の鳴海で酒井忠次と合流しているので阿野駐屯は時間調整だったのだろう。豊明市阿野は現在でも一里塚が残っている。この段階でほぼ近世東海道が出来上がっていたのだろう。

七日[庚戌]若君様御上洛候、岡崎越候、今度之御上洛ハ、関白様尾州信雄御むすめ子御養子被成、若君様と御祝言被仰合候、

八日[辛亥]岡崎ニ御逗留候、

九日[壬子]かりや水三左より初くちら被越候、若君様ミやまて御越送ニおさき市場迄まいり候、ふかうそ帰候、

→愛知県史資料編12 1593「家忠日記」天正18年1月

若干蛇足だが、徳川秀忠が人質として上洛する際の様子をみる。1月9日に岡崎から熱田まで見送りに出た家忠は、「おさき市場」までで折り返している。これを安城市の尾崎市場ではないかと愛知県史は想定しているが、少し手前過ぎるような感じも受ける。

憶測ではあるが、名古屋市緑区の尾崎山にあった市場かも知れない。この北側には扇川があり古来からの渡河地点である鴻仏目があり、すぐ東を鎌倉道が通っているので市場が立つ条件は整っている。であるならば、天正18年段階では条件によって鎌倉道が使われていた証左になる。引き続き注意して史料を見ていこうと思う。

以上をまとめると、1574(天正2)年~1584(天正12)年の間で岡崎~鳴海は大きく南下して組み換えられている。その要因について『なごやの鎌倉街道をさがず』(風媒社・2012年)で池田誠一氏は「江戸時代の東海道は、名古屋付近では鎌倉街道とは別の経路が選択されています。名古屋南部の鎌倉街道のルートを決めていたのは知立の北の逢妻川の干潟と鳴海潟だったと考えられています」と述べている。この2つの干潟が陸地化する過程で、より近距離となる近世東海道に道が移ったということだ。逆にいうと、逢妻川・境川・扇川・天白川の状況によっては鎌倉道でなければ通れないこともあった。それが戦国末から近世初頭のルートだと考えればよいと思う。

義元の敗死は「田楽窪」であり、それに伴って自落したのは沓掛城。そして沓掛城で重要な文書を焼失した被官がいたことなどから、永禄3年に義元が死んだ背景には鎌倉道があったと考えられる。潟の陸地化も進んではいるがインフラの未整備で鎌倉道が選ばれていたと、現時点では考えておこうと思う。とはいえ南下のショートカットは徐々に現われてきて、天白川の渡河地点は下の道(笠寺~丹下)が選ばれ、二村山ではなく田楽窪を迂回していたということだろう。

今川・織田の両軍勢がどのように移動したかは、当時の主要道路によって推測可能なので、とりまとめてみた。個別に立論する必要はあると思うが、まず前提となる地図を示してみよう。

mini-map

実線が今川方、破線が織田方の移動経路となる。

まず、今川義元が西進したのは岡崎から知立の北を経て沓掛に抜け、そこから鳴海に行く経路で問題ないと判断する。これは1574(天正2)年に尾張国で道路変更が行なわれるまでの主要路(鎌倉道)に沿っており、軍隊を動かすのに最適であるためだ。

そしてもう1つの重要な経路として大高から緒川に抜ける師崎道を示したい。織田方が主に用いたと考えている道路だ。

今川方は天文末年に尾張東部への侵攻を完了し、岩崎(現・日進市)と鳴海(現・名古屋市)の領有を完遂している。その一方で緒川と刈谷は確保できず、1556(弘治2)年には吉良(西尾市)にまで侵入されている(織田上総介荒河江相動之処)。師崎道を利用する織田方は、吉良にまで影響を行使できた。

そこで今川方は、大高を織田方から奪って師崎道を封鎖したと思われる(永禄の初め頃に大高の水野氏(十郎左衛門)を調略したと想定)。ここ押さえれば、緒川・刈谷の水野氏が孤立するためである。対して織田・水野方は大高城の奪還を指向し、この流れで大高城が焦点となってくるというのが私の仮説だ。

地図中に菱形で示したのは関連する古戦場の比定地である。三河に奥深く入り込んだ緒川・刈谷を巡って織田方と争っていることが判るだろう。

また、従来の説では大高への補給は沓掛から行なっていたとしているが、鳴海からの方が合理的だと判断した。移動距離が短いし師崎道封鎖に連携できるからだ。一次史料と日付を考慮しつつ、次回詳しく説明する。

余談だが、この仮説では取り上げない「織田方が鳴海・大高を攻めるための付け城」群は、実は今川方が築いた遺構ではないかと考えると、従来説では疑問だった以下の諸点が解消する。

  1. 中島砦は川の合流点にあり西からの水運監視に向いている。しかし東方向は地続きで、今川方援軍の攻撃を防げない。
  2. 丹下砦は鎌倉道のうち下道の渡河点を確保できる位置にある。だが、標高は成海神社・鳴海城より低い。戦術価値よりは、星崎・笠寺から渡ってくる物資・人員を臨検する関所の方が機能を発揮するように見受けられる。
  3. 善照寺砦は間に高地を挟んでしまい鳴海城が見えないことから、攻撃用の城ではないと断言できる。遺構から考えて明らかに北東の鎌倉道への出撃・防御を意図しており、地獄沢(現在の新海池)から南下してこの砦の北東を抜ける物流の監視、もしくは東から来る部隊への攻撃(または援護)を企図しているように見える。この砦と瑞泉寺については例外的に仮説内に取り込む予定だ。
  4. 鷲津・丸根の砦は大高城から離れ過ぎている上、河口に近い川を挟んでいるために潮の干満や天候で攻撃機会が制約されてしまう。標高としても大高城を見下ろせる訳ではない。むしろ、川に沿って延びる師崎道を大高城と連携して監視する機能の方が高いのではないか。
  5. 戦人塚も地形から考えて、鎌倉道最高点の二村山の死角を補って師崎道方面を監視する方が機能が高い。ここは砦跡という伝承はないが、戦死者が多数出た点から憶測してみた。