態以一札令申候、於今度働之上、当方一味茂呂方江如前ゝ入魂之由候、肝要至極候、弥以茂呂方可被相談事専要候、涯分可見次申覚語ニ候、猶使者可申候、次為祝儀、太刀一腰進候、恐ゝ謹言、

四月十日

 氏康(花押)

[宛名欠]

→小田原市史285「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)

1552(天文21)年に比定。

 折り入って書状で申し上げます。この度の作戦において、当方に一味すると茂呂方へ以前のように親しく申してきたとのこと、肝要の至りです。ますます茂呂方と相談なさることが専ら大切です。精一杯ご支援する覚悟です。更に使者が申します。ついで祝儀として太刀1腰を進呈します。

至于当口出陣、定而可為御満足候、今日者河鰭ニ取陣、佐野・新田領可放火候、然者御同名蔵人方十騎計ニて、茂弾手へ可被差越候、彼口案内者之由候間、諸事可相談候、将又新田覚ニ候間、一勢可遣候由、茂弾被申候、大谷藤大郎遣候、猶沢弥十郎可申候、恐ゝ謹言、

九月十一日

 氏康(花押)

[宛名欠]

→戦国遺文 後北条氏編422「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)

戦国遺文では1552(天文21)年、下山氏の後北条年表では同22年に比定。

 この方面に出陣し、きっとご満足のことでしょう。今日は『河鰭』(かわばた?)に陣を取り、佐野・新田領に放火するでしょう。ということでご同姓蔵人方の10騎ばかりを茂呂弾正へ派遣なさるでしょう。あの方面への案内者であるとのことですから、諸事相談するでしょう。または、新田が覚悟しているので、一部隊を遣わすようにと茂呂弾正が申されたので、大谷藤大郎を派遣しました。更に沢弥十郎が申すでしょう。

向佐貫敵動候処、不移時日被懸付、於宿城被走廻由候、肝要候、城内同心大切候、万事茂周被相談、堅固之備尤候、猶岩本可申越候、恐ゝ謹言、

卯月廿二日

 氏康(花押)

[宛名欠]

→戦国遺文後北条氏編412「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)

戦国遺文では1552(天文21)年、下山氏の後北条年表では同22年に比定。また、戦国遺文では『佐貫』を上総国天羽郡としているが、佐貫庄は上野国館林周辺が正しいと思われる。また、茂呂氏を『茂周』としているが、茂呂因幡守が確認されるため、『周』ではなく『因』の誤読と思われる。

 佐貫に向かって敵が出動しましたところ、時間をおかずに駆けつけて、宿城で活躍なさったとのこと。肝要です。城内で心を同じにすることが大切です。万事は茂呂因幡守にご相談なさり、堅固の備えをなすことがもっともです。さらに岩本が申し越すでしょう。

両君御間儀、御無為奉歎候処、結句逐日増進様候、顕実・憲房間事、是又色ゝ様ゝ雖令教訓候、為事不成、剰鉢形三日不被相拘落居、言説不及候、只今極一身様候、万耄昧迄候、簡要憲房ニ被仰合候者、可為御本意候、此旨可令得尊意給候、恐惶敬白、

六月十九日

 建芳(花押)

→神奈川県史 資料編36502「建芳書状」(堀内文書)

1512(永正9)年に比定。

 両君のご関係のこと。絶縁状態をお嘆きいたしていたところ、結局日を追ってお悪くなっているようです。顕実と憲房の間のこともまた、色々様々に教え諭していたのですが、融和はならず、それどころか、鉢形は3日も持たずに落居。言葉になりません。今の私では手に余ります。全て老いぼれてしまいました。憲房を肝要に仰せ合わせになるならば、私の本意となりましょう。このこと、尊意を得られますように。

先度令啓候、伊東九郎方被并為茂馬、小田原・七沢以来度ゝ合戦、被致粉骨候、自御屋形様被成御感候者、猶以忝可存候、恐ゝ謹言、

長亨二年五月十六日

 大膳亮為茂

謹上 平子平左衛門尉殿

→神奈川県史 資料編36380「大膳亮為茂書状案」(伊東文書)

 先にお伝えしましたように、伊東九郎方で為茂と馬を並べられ、小田原・七沢以来度々合戦し、粉骨なさいました。御屋形様よりご感悦とのお言葉ですから、さらにありがたく思われますように。

其地新田近所候処、搆要害夙夜致辛労之由、聞召候、誠以神妙候、已顕実向両庄、可成行之段、被申上候、其間事堅固相拘候者、猶以可感思召候也、

六月十三日

 (政氏花押影)

冨岡玄蕃亮殿

→戦国遺文 古河公方編1967「足利政氏御内書写」(内閣文庫所蔵冨岡家古文書)

1528(享禄元)年に比定。

 その地は新田の近所ですから、要害を構え一日中ご心労のこと聞きました。本当に神妙です。既に顕実が両庄へ向かい作戦を講じるだろうと報告がありました。その間堅固に守備するならば、さらに感じ入るでしょう。

自堀内之文箱等給候、毎事懇之条、難謝候、向後弥対堀内無等閑候者、本懐満足候、仍徳恵首座帰路ニ委曲被申越候、喜悦候、国中速静謐、目出大慶候、猶以無油断様、意見肝要候、疵未思様候哉、被印判候、無心元候、定漸ゝ可為自由候歟、将又於相州同名左衛門入道被立陣城対陣、既に四日差寄処、右衛門尉其外打出、遂一戦、得勝利、為始伊勢弥次郎家者、数多討捕、験到来本意候、如斯之上、大森式部少輔・刑部大輔・三浦等、太田六郎右衛門尉、上田名字中、並伊勢新九郎入道弟弥次郎要害自落、西郡一変、至于東郡進陣、上田右衛門尉要害実田進陣処、治部少輔打越候、有行之旨、左衛門入道入馬之由、注進到来之間、彼国へ可進発義定候、当地事公方様被立御旗候間、為御警固、庁鼻和三郎・同蔵人大夫、上州一揆等差置候、巨細重可申送候、恐ゝ謹言、

七月廿四日

 顕定(花押)

長尾信濃守殿

→神奈川県史 資料編36406「上杉顕定書状」(宇津江氏所蔵文書)

1496(明応5)年に比定。

 堀内より文箱をいただきました。毎回のご親切に感謝の言葉もありません。今後はますます堀内に対して等閑になさらないならば、本懐・満足です。徳恵首座が帰ってきて詳細は伝えてくれました。喜ばしいことです。国中が速やかに静謐となり、めでたく大慶であります。さらに油断なさらないように、意見することが大切です。傷はまだ思うようにならないのでしょうか。印判を押されていますね。心もとないことです。きっとすぐに思うようになるでしょう。そしてまた、相模国において同姓左衛門入道が陣に対して陣城を立てられて、既に4日差し寄せたところ、右衛門尉そのほかが出撃して一戦を遂げ、勝利を得、伊勢弥次郎の家の者を初めとして、多数討ち取りました。首級が到着して本意です。このようになった上で、大森式部少輔・刑部大輔・三浦など、太田六郎右衛門尉・上田氏一族・並びに伊勢新九郎入道の弟である弥次郎の要害が自落して西郡が一変。東郡に陣を進め、上田右衛門尉の要害である実田に陣を進めたところ、治部少輔がやってきました。手立てがあり、左衛門入道が馬を入れたとの報告が来たため、あの国へ進発することが決まりました。この地のこと、公方様が御旗を立てられますので、御警護のため、庁鼻和三郎・同じく蔵人大夫、上野国一揆などを留置しました。詳細は重ねて申し送るでしょう。

去十五日簡札一昨日到着、具披閲、抑旧冬招越越州衆進発、然間、武相両州敵城、或自落、或攻落候之故、速静謐、依之懇切承候、快悦之至候、仍治部少輔朝良令隠遁、名代事彼家老者歎候間、言上之処、可被相任之段、被成御書候、如斯之上、号当所須賀谷地へ移候、爰元事、先以可御心安候、余者期後信候、恐ゝ謹言、

四月廿三日

 藤原顕定(花押)

謹上 佐竹右京大夫殿

→神奈川県史 資料編36451「上杉顕定書状写」(佐竹文書)

1505(永正2)年に比定。

 去る15日のお手紙が一昨日到着し、詳しく拝見しました。そもそも前の冬に召集した越後国衆が進発し、だからこそ、武蔵・相模両国の敵城は、あるいは自落、あるいは攻め落としまして、速やかに鎮圧しました。このご親切を得られましたことは、喜ばしい限りです。さて、治部少輔朝良は隠遁させました。家督のことで家老が嘆いていたので言上したところ、任せていただけるとの御書を頂戴しました。このようになった上は、こちらで須賀谷と呼んでいる地へ移送します。こちらのことは、まずはご安心下さい。その他は後のご連絡を期すことといたします。

就武州上戸難儀、各差遣候処、向相州相動候由、注進到来、数日陣労察之候、謹言、

十二月六日

 房能(花押)

発智六郎右衛門尉殿

→神奈川県史 資料編36448「上杉房能感状」(発智文書)

1504(永正元)年に比定。

 武蔵国上戸の難儀で各々を派遣したところ、相模国に向かって動きがあるとの報告が来ました。数日にわたる陣労をお察しします。

先刻如啓候治部少輔并今川五郎・伊勢新九郎入道対陣、於軍者、可御心安候、既 公方様御発向之上者、不移時日、自身出陣候様、武田五郎方へ被届可然旨、遅々不可有曲候、巨細長尾右衛門尉可申述候、恐ゝ謹言、

九月廿五日

 顕定(花押)

大森式部大輔殿

→神奈川県史 資料編36439「上杉顕定書状写」(相州文書所収足柄上郡利右衛門所蔵文書)

1504(永正元)年に比定。

 先刻ご連絡しましたように、治部少輔と今川五郎・伊勢新九郎入道との対陣、戦闘についてはご安心下さい。既に公方様がご出発なさった上は、時期をずらさず、本人が出陣するように、武田五郎方へ然るべく届けられる旨、遅くなってはつまりません。詳細は長尾右衛門尉が申し上げます。