塩荷可押所定事、
栗崎・五十子・仁手・今井・宮古島・金窪、かんな川境牓示ニ可取之候、然者、深谷御領分榛沢・沓かけ并あなし・十条きつて、しほ荷おさへ候事、かたく無用候、為其、重而申出者也、如件、
 猶以、半年者、忍領分ニて少も不可致狼藉候、以上、
辰[「翕邦把福」朱印]十二月朔日
長谷部備前守

→戦国遺文 後北条氏編2202「北条氏邦朱印状」(長谷川文書)

天正8年に比定。

 塩荷を押収すべき所の定め事。栗崎・五十子・仁手・今井・宮古島・金窪は、神流川の境を境界として取り上げますように。ということで、深谷のご領分の榛沢・沓掛、並びに『あなし』・十条を切って、塩荷を押収するのは絶対にないように。そのために重ねて指示するものである。なお半年は忍領分では少しの狼藉もないように。

於八王子城虜之女共六十余人、被差越候、則雖可被加御成敗候、国可成忘所候と被思召、何も被助遣候条、在ゝ江如元慥ニ送届、可被返付候、但小田原ニ籠城之者共妻子ハ、最前請取候城ゝ如並申付可被遣候、猶増田右衛門尉可申候也、
六月廿九日
[秀吉朱印]
羽柴越後宰相中将とのへ

→小田原市史 資料編I p935 878「豊臣秀吉朱印状」(米沢市教育委員会所蔵上杉家文書)

天正18年に比定。

 八王子城において捕虜にした女性たち60余人、お知らせいただきました。すぐに成敗を加えるべきところ、国が滅ぶところと思し召しになり、何れも助命するようにとのことですから、それぞれの居住地へ確実に送り届け、解放して下さい。但し、小田原に籠城している者の妻子は、その前に開城した者と同じように扱うよう指示がいくでしょう。更に増田長盛が申します。

敵働由候間、他所へ兵粮為無御印判、一駄も越ニ付者、見逢ニ足軽ニ被下候、其身事者、可被掛磔、小屋之義者、金尾・風夫・鉢形・西之入相定候、十五已前六十已後之男、悉書立可申上者也、仍如件、
辰[朱印「翕邦把福」]十月廿三日
 三山 奉
阿佐美郷 井上孫七郎殿

→戦国遺文 後北条氏編1102「北条氏邦朱印状」(井上文書)

1568(永禄11)年に比定。

 敵が出撃したとのことなので、ご印判がなく他所へと1駄でも送ったら、見つけ次第足軽に引き渡される。その身柄は、磔に掛けられるだろう。小屋のことは、金尾・風夫・鉢形・西之入に決められています。15歳以下、70歳以上の男性は、全員書き出して報告するように。

[懸紙ウワ書]「真田安房守とのへ」
去廿四日書状、今日廿九披見候、箕輪城之儀、羽賀信濃守追出、保科居残、城相渡ニ付て、羽柴孫四郎同前ニ請取之由尤候、小田原之儀被取籠、干殺被仰付故、隣国城ゝ命之儀御侘言申上候、被成御助候、城ハ兵粮鉄炮玉薬其外武具、悉城ニ相付渡し候、家財ハ少ゝ城主ニも被下候間、成其意、箕輪之儀も、玉薬其外武具兵粮以下、少も不相違様ニ、入念可請取置候、次在ゝ所ゝ土民百姓共還住之儀、被仰出候、其許堅可申触候、東国習ニ、女童部をとらへ売買仕族候者、後日成共被聞召付次第、可被加御成敗候、若捕之置輩在之者、早ゝ本在所へ可返置候、万端不可有由断候、猶以此節之儀候条、辛労仕、弥可抽粉骨儀肝要候、委曲石田治部少輔可申候也、
卯月廿九日
 [秀吉朱印]
真田安房守とのへ

→小田原市史 資料編I 828「豊臣秀吉朱印状」(長野市真田宝物館所蔵真田文書)

天正18年に比定。

 去る24日の書状を今日29日に拝見しました。箕輪城のこと、垪和信濃守又八郎を追放して保科正直が居残って城を渡したことについて、前田利長が同前に受け取ったとのこと、もっともなことです。小田原は取りこめられて干殺しにすると仰せになった故に、隣国の城々の助命嘆願を申し上げました。お助けになられます。城にある兵糧・鉄砲・玉薬その他の武器、全てのその城に付けたまま渡します。家財は少しなら城主へも下されるので、その意図により、箕輪のことも、玉薬その他の武器・兵糧以下は、少しの相違もないように、念を入れて受け取りますように。次に、村々の百姓たちを原住所に戻すことを仰せ出しになっています。あなたは強く言って回るように。東国の習性として女性・子供を捕らえて売買する者がいたら、後日であっても聞き次第にご処罰が加えられるでしょう。もし捕らえ置かれている輩がいたら、早々に原住所へ帰しておくように。何についても油断があってはなりません。更に、この時のことですから、辛くてもますます粉骨にぬきんでることが大切です。詳細は石田治部少輔三成が申すでしょう。

其面之儀、利家相越、具申通、被聞召候、此中無由断由、尤被思召候、仍国ゝ地下人百姓等、小田原町中之外、悉還住事被仰付候条、可成其意候、然処人を商買仕候由候、言悟道断無是非次第候、云売者、云買者、共以罪科不軽候、所詮買置たる輩、早ゝ本在所へ可返付候、於自今以後、堅被停止之間、下ゝ厳重ニ可申付候也、
卯月廿七日
 [秀吉朱印]
羽柴越後宰相中将 とのへ

→小田原市史 資料編I 825「豊臣秀吉朱印状」(米沢市教育委員会所蔵上杉家文書)

天正18年に比定。

 その方面のこと、前田利家から報告があり、詳しい内容をお聞きになりました。この状況でも油断ないとのこと、ごもっともとの思し召しです。さて、国々の地下人・百姓らは、小田原町中以外へは、全て原住所に戻されるということですから、その意を成すようにして下さい。そうしたところ、人を売買したとのこと、言語道断で是非もない次第です。売った者といい、買った者といい、共に罪は軽くありません。結局のところ、買い置いている輩を、早々に本在所へ帰して下さい。これ以後は強く停止するので、下々へ厳重に指示するように。

[印文「帰」]するかの国さわたのかうのうち、にしふん五とうせんゑもんあいかゝゆるてんはくやしきの事
右、きたかわ殿御とき、けんちあつて御さためのことく、百六十三くわん六百文ねんくいけさういなくなつしよせしめ、ひやくしやうしきとして、あいかゝへへし、もしよこあいよりかのかゝへのふんのそむやからありといふとも、さういあるましきものなり、仍如件、
享禄二[己丑]
十二月七日
五とうせんゑもんとの

→戦国遺文 今川氏編465「寿桂尼朱印状」(沼津市西沢田・後藤文書)

 駿河国沢田郷のうち、西分で五藤せん衛門が保持する天白屋敷のこと。右は、北川殿の頃に検地があってお定めになった通り、163貫600文の年貢以下相違なく納所させて、百姓職として保持するように。もし横合いよりその保持に背く輩がいたとしても、相違があってはならない。

(今川義元花押)
[印文「帰」]するかのくにしたの郡うつたりの郷のうち、ちやうけいしかた[田はたけ 山屋しき]本そう共ニ一所之事
右、ほたいのために、新きしんとして、なかくまゐらせ候うへハ、ちきに取務あるへく候、かしく、
[印文「帰」]天文十八年[つちのとのとり]十一月廿三日
 しゆけい
とくくわんしそうゑい長老

→戦国遺文 今川氏編917「寿桂尼朱印状」(静岡市駿河区向敷地・徳願寺文書)

 駿河の国志田郡内谷郷のうち、長慶寺方の田畑・山・屋敷の本分・増分ともに一所のこと。右は、菩提のために新たな寄進として末永く進呈しまますので、直接管理していただきますように。

其方相抱なくるミの城へ、今度北条境目者共令手遣、物主討果、彼用害北条方江法之之旨候、此比氏政可致出仕由、最前依御請申、縦雖有表裏、其段不被相搆、先被差越御上使、沼田城被渡遣、其外知行以下被相究之処、右動無是非次第候、此上北条於出仕申も、彼なくるミへ取懸討果候者共於不令成敗者、北条赦免之儀、不可在之候、得其意、境目諸城共、来春迄人数入置、堅固可申付候、自然其面人数入候者、小笠原・河中嶋江も申遣候、注進候て召寄彼徒党等、可懸留置候、誠対天下、抜公事表裏仕、重ゝ不相届動於在之者、何之所成共、境目者共一騎懸ニ被仰付、自身被出御馬、悪逆人等可被為刎首儀、案之中被思召候間、心易可存知候、右之境目、又ハ家中者共ニ此書中相見、可成競候、北条一札之旨於相違者、其方儀、本知事不及申、新知等可被仰付候、委曲浅野弾正少弼・石田治部少輔可申候也、
十一月廿一日[秀吉朱印]
真田安房守とのへ

→小田原市史 中世I 732「豊臣秀吉朱印状」(長野市真田宝物館所蔵・真田文書)

天正17年に比定。

 あなたが保持する名胡桃の城へ、この度北条の境目の者が出てきて物主を討ち果たした。あの要害は北条方へ乗っ取られたということです。この頃に氏政が出仕するだろうとのことを以前から申し出ていたので、たとえ裏切りがあったとしてもそのことは構わないと、先にご上使を沼田城に派遣し、その他知行以下を細かく調べたところです。それが右の働きをして是非もない次第です。この上で北条が出仕しても、あの名胡桃を攻撃して討ち果たした者たちを成敗しないことには、北条を赦免することはありません。その意図を得て、境目の諸城へ来春まで部隊を入れて置き、堅固に申し付けるでしょう。万が一そちら方面に部隊を配置するなら、小笠原・川中島へも指示します。報告して、あなたの郎党を召し寄せて留め置いて下さい。本当に天下に対し、不正と裏切りをしでかし、重ね重ね不届きな働きがありました。ですから、どの場所であっても境目の者たちは一騎懸けを命じられ、自身お馬を出され、悪逆人らの首をはねようとのこと。案の中のお考えなので、ご安心下さい。右の境目、または家中の者たちにこの書面を見せて、競わせて下さい。北条が書面において違うなら、あなたのことは、本知行は言うに及ばず、新知行などもお出しになるでしょう。詳しくは浅野弾正少弼・石田治部少輔が申します。

出銭之書出
壱貫八百四十八文
右、御隠居様就御上洛、出銭被仰付候、来晦日を切而可調、此日限相違付而者、可為越度、永楽・黄金・麻、此三様之内成次第可調、仍如件、
丑 十月十四日[朱印「楼欝」]
高瀬紀伊守殿

→小田原市史 中世I 729「北条氏忠朱印状」(神奈川県立公文書館所蔵・山崎文書)

天正17年に比定。

 出銭の書き出し。1貫840文。右は、ご隠居様のご上洛について、出銭を指示されました。来る晦日までに調達するように。この日限に相違があったら落ち度とするだろう。永楽銭・黄金・麻、この3種類のうちできるだけ調達するように。

[懸紙ウワ書]「真田伊豆守殿」
今度関東八州出羽陸奥面ゝ分領、為可被立堺目等、津田隼人正・冨田左近将監、為御上使被差下候、為案内者可同道、然者従其地沼田迄、伝馬六十疋・人足弐百人申付、上下共可送付、路次宿以下馳走肝要候也、
七月十日[秀吉朱印]
真田源三郎とのへ

→小田原市史 中世I 725「豊臣秀吉朱印状」(長野市真田宝物館所蔵・真田文書)

天正17年に比定。

 この度関東八州・出羽・陸奥の面々の分国に境界などを立てられるべく、津田隼人正・冨田左近将監がご上使として派遣されました。案内者として同道して下さい。ということでその地より沼田まで、伝馬60疋・人足200人を申し付けます。上下ともに送りつけるよう、道中・宿泊以下で奔走することが大切です。