新田へ鉄砲衆合力候、五挺可然放者可被申付候、明後可遣候、島津左衛門自馬廻遣候間、従者可同心旨可被申付候、掟従是委以書出可申付候、万端遣念可被申付候、仍如件、
五月十九日[虎印]
常陸守殿
→戦国遺文 後北条氏編 1911「北条家朱印状写」(小田原編年録附録四)
天正5年に比定。
新田へ鉄砲衆が援軍で行きます。5挺の適格者を申し付けて明後日に送って下さい。島津左衛門が馬廻から派遣されますから、従者は同心する旨を申し付けて下さい。掟はこの者から詳しく書出にして申し付けます。万端に念を入れて申し付けて下さい。
最近、西股総生氏の『戦国の軍隊』という本を読んだのですが、当時の軍隊が兵種別の編成を実現していたか否かがメインテーマの一つになっていて、なかなか面白い内容でした。論の全てが納得できるわけではないものの、一読の価値はあると思うのでお勧めしておきます。東国諸勢力の軍勢がモデルケースとして使われている場合が多いので、北条氏に興味を持っていればとりわけ読み応えがありますよ。
それで、今回の書状のように、軍勢の中から鉄砲衆だけを割いて派遣するというような例を見ると、やはりある程度までは兵種別の編成がおこなわれていたのかなあ、と思います。何某を援軍に送る、ではなく鉄砲衆何名を、ですからね。彼らが派遣先で手柄を立てた場合、恩賞は誰が与えることになるのか、とかそういう部分も気になります。
いつもコメントありがとうございます。
西股氏の著書は書店で見かけてはいました。少々めくったところご指摘のような内容だったので食指が少し動いたのですが……史料の引用注記が薄いような気がして購入には至りませんでした。また改めて見てみようと思います(以前ご紹介いただいた『北条氏邦と武蔵藤田氏』も未読だったりしてお恥ずかしいところです)。
兵科別編成の存否については、そもそも戦国大名が兵装自体を管理できていたか怪しいような気がしています。鉄炮手だけ集めているのは、単純に「鉄炮が足りないから足しておこう」という意向だったのかと。
この辺はまた考えていきたいと思いますので、お気づきの点などありましたらお聞かせ下さい。