四百六拾六俵 借米本利之辻 但丑年迄
此返弁
弐百十八俵 丑九月より十一月を切而返弁、五十四貫五百文之分、
弐百十八俵 寅年同断、
卅俵 卯年九月
已上四百六十六俵
一、諸人之借米、丑年迄本利合四百余俵也、諸人之借銭・借米、自御大途是非之綺、更雖有間敷子細候、与大郎父善右衛門先年駿州乱之刻、大聖院殿為御使、火急之砌、抛身命駿州へ罷越、剰遠州迄、御前之致御供候、其忠功更ニ不浅候、然ニ今与大郎借銭ニ進退打捨所不敏之間、如此返弁被仰出事、
一、知行之内五拾余貫、丑・寅両年着到赦免畢、是を以借米可済払事、
一、残五拾余貫を以、此員数ニ相当之軍役勤之、自卯年秋如前ゝ軍役本役ニ可走廻事、
右定処、蔵本へも一ゝ為見御印判可申断候、定而各可聞届候、仍如件、
[丁丑]三月十九日[虎朱印]
山角上野守 奉之
西原与大郎殿
→戦国遺文 後北条氏編 1896「北条家朱印状写」(大竹文書)
天正5年に比定。
466俵 借米の元本・利息合計(但し丑年まで)。この返済。218俵 丑年9月より11月を目処に返済、54貫500文の分である。218俵 寅年も同様である。30俵 卯年9月。以上466俵。一、諸人の借米は、丑年までの元利合計400余俵である。諸人の借銭・借米は、御大途より超法規措置をするのはあるまじき事だが、与大郎父の善右衛門は先年駿河国で乱があった際、大聖院殿(氏康)の使者を勤め、緊急時ということで身命を投げ打って駿河国に赴いた。更には遠江国まで御前のお供をしました。その忠功は浅くありません。ということで現在与大郎が借銭で進退を失い不憫なので、このように返済するよう仰せになりました事。一、知行のうち50余貫文、丑・寅両年の着到は免除する。これを使って借米を返済する事。一、残る50余貫文をもって、この員数に相当する軍役を勤め、卯年の秋より以前のように軍役・本役に活躍する事。
右に定めるところ、蔵本へも逐一御印判を見せて証明して下さい。きっと聞き届けるでしょう。