後北条氏がその最末期に分国総動員をかけた印判状は有名で「ひらひら武者めくように」という一節はよく引用される。では何故武者めかなければならないのだろうか。
同じく同氏の軍役規定では、宛所の給人が「馬上」であるように指示したものが殆どだが、何故騎馬なのかを考えてみた。
■利点
視界が広い
見映えがする
移動が早い(但し本人のみ)
■不利点
弓・石・鉄砲の的になる
飼料が必要
平時の維持費がかかる
移動力についてはほぼ無効だと思う。日本には平野が少ないし、指揮官だけがすぐ逃げられる条件が志気を高めるとも思えない。視界を活かした斥候・伝令ならば馬上は適すると考えられるが、指揮官がする役割だろうか。
何より、遠距離兵器の的になるのは不利だろう。戦闘の初期に指揮官を失う確率が高過ぎる。
他の文書では、兵卒にもなるべく派手で新品の兵装を徹底させている。槍の穂先がなければ箔を貼れと指示しているから、殺傷力は考慮されていない。
鉄砲足軽に紬を渡しているのも、コストのかかる鉄砲兵を目立たせようとしている気がする。
感状を見ても1~2人殺したと褒めているものが多いし、実際の合戦の9割以上は武装して威嚇し合うだけで終わりだったように見える。であれば、殺傷力より外観を重視する指示書も納得できる。
そしてこれは『武田氏研究』44号の『遠江・三河から見た武田氏』で山田邦明氏が語っている内容とも重なってくる。
<前略>それで結局起請文を交わして、「あなたは城主でいてもいいです。土地も全部安堵します。だから僕の家来になってくださいね」となる。これが百点満点の開城なんです。戦争もしない、誰も死なない。敵を家来にしてしまう。いわば吸収合併みたいなものです。
これは講演の内容をまとめたものだが、1次史料に基づいて判りやすく実相が説明されている。機会があればまた紹介していこうと思う。
軍役規定で給人に「馬上」を求めるのは身分だからですよ。
騎馬の移動力が馬上の武者が指揮官だからではありませんよ。武士の初めから戦う義務があるのは騎馬武者であって、歩兵は従者でしかないのですよ。それがいくら戦力になっても身分制度は乗り越えられなかったのです。それは江戸期の与力と同心をみればよくわかるはずです。 🙄
コメントありがとうございます。
ご意図が判らない部分がありましたので整理しますね。
01)後北条氏が着到で「馬上」と指示した者は指揮官ではなく戦闘員
02)馬上以外の人員は戦闘義務のない従者だが武装はしていた
03)01と02は近世の与力・同心を参考にすれば理解可能
ということでよいでしょうか。もう1点、02でいう従者は03の与力・同心を指すのでしょうか。
論点を確認してお話を進めたいと思います。