義元袖判
たゝしうつたりちやうけいしかたむまのとしよりのそうふん、弐拾俵の事ハ、水のミの弥七郎に、わか身そんしやうの内ハ出し候、のちゝゝの事ハゐんはんのことく一ゑんにしよむあるへし、かしく、
[印文「帰」]天文十八年[つちのととり]十一月廿三日
 しゆけい
とくくわんしそうゑい長老

→戦国遺文 今川氏編918「寿桂尼朱印状写」(駿河志料巻七十五徳願寺文書)

 但し、内谷村長慶寺方は、午年よりの増分20俵のことは、水呑の弥七郎に、私が存命の間は渡しています。後々のことは印判のように一円に所務するように。

向後可抽忠信之旨申候之間、所望之地可被下置候、弥戦功肝要候之者也、仍如件、
永禄十三年[庚午]
 土屋右衛門尉奉之
■月三日 朱印
朝倉弥六郎殿

→戦国遺文 今川氏編2439「武田家朱印状写」(国立国文学研究資料館所蔵紀伊国和歌山本居家旧蔵紀伊続風土記編纂史料所収藩中古文書四)

 今後は忠信にぬきんでるようにとの旨、申していますので、所望の土地を下し置かれるでしょう。ますますの戦功が大切であることです。

今度籠城之内、其方ニ随遂之貴賤、此間不可有相違之条、弥加悃切可為同心之旨、被仰出者也、仍而如件、
永禄十三年正月五日
 土屋右衛門尉奉之
岡部次郎右衛門殿

→戦国遺文 今川氏編2437「武田家朱印状写」(国立国会図書館所蔵落合保執筆岸和田藩志稿)

 この度籠城したうちで、あなたに従ってこれを遂げ、貴賎のこの間で相違があってはなりませんので、いよいよ懇切にして同心を行なうようにする旨、仰せ出されているものです。

一、先年織田信長へ御使可遣候時分、惣国へ分銭懸り候、我ゝ手前へも黄金三枚あたり候、則家中ヘ可申付候へ共、手まへの以失墜大途へ納候、諸人之手前勿論知行役ニかけ候事、
一、先年土肥之御普請かゝり候、我ゝ手前を以可致ほとを被申付候、永楽百余貫・兵粮五百つ■仕候、其上何共不成候間、家中へ申付、少之所為出候、其外宮之前御門番匠手ま人具へかけ候て、永楽七十六貫文入目候キ、其内卅五貫文、我ゝ手前より出前候、是も自分を以致候、其上至唯今もあなたこなたの破損内ゝ御印判参候へ共、手まへの分銭を以今日まて致候間、当年も破損普請■はや永楽拾五貫文仕候、先日参苻之時分、すなはかり五千駄、大栄寺之まへへ付候、是も家中之者ハ知るましく候事、
一、此度京都御一所ニ成、家康以御取持美濃守上洛候、其分銭弐万貫入由候、此方手前へも、定而三百貫も四百貫も可懸候、如何共可致様無之候間、知行役・扶持役之随分限可為出候、其上十ケ年以来請郷へ、号扶持銭棟別赦免候、当年加様之方迄も、前ゝ之役半分可為致候、左候へ者、永楽銭五拾銭可出候事、
一、此さし引候ヘ者、我人為指失墜ニも無之候間、六月廿七八両日ニ、此分銭調、於御番所黒沢・八木・石井・奥、此者へ可渡候事、
右条ゝ、自分同心見分可有其調、黄金・出物・わた此三様を以、可為調次第者也、仍如件、
子[印文未詳]
秩父孫二郎殿
六月七日
同心■中

→小田原市史 中世I 715「北条氏邦朱印状写」(武州文書十八)

天正16年に比定。

 一、先年織田信長へご使者を派遣した時分、惣国へ負担金が課されました。私たちの元へも黄金3枚が課せられました。すぐに家中へ指示しようと思いましたが、私の手持ちで大途へ納めました。他の家では勿論、知行役として課されました。一、先年土肥のご普請にかかった際、私たちに『ほと』をするよう指示が来ました。永楽銭100余貫文・兵糧500ずつです。その上どうにもならなかったので、家中へ指示し、少しだけ出させました。そのほか、宮の前ご門の番匠の手間賃として永楽銭76貫文入金しました。そのうちの35貫文は私たちの負担で拠出しました。これも私の手持ちで済ませました。その上、現在に至ってもあちらこちらの破損などで内々のご印判が来ていますけれども、私の分銭で今日までの間は払っています。ですから当年も破損普請は早くも永楽銭15貫文にもなります。先日小田原に行った時、砂秤5,000駄を大栄寺の前へ付けました。これも家中の者は知らないことでしょう。一、この度京都とご一所になり、家康のお取り持ちをもって美濃守が上洛します。その分銭2万貫文が必要だということです。こちらの分担としてきっと300貫文も400貫文も懸けられるでしょう。どうやっても捻出するようにとのことですから、知行役・扶持役から相当量を拠出しなければなりません。この10年来『請郷』へ、扶持銭として棟別を免除しました。今年はこのような郷でも、前々と役を半分にします。そうやって、永楽銭50貫文を出せるだろうこと。一、この差し引きではありますが、私たちは指したる損失にもなりませんので、6月27、28の両日にこの分銭を調達して、ご番所の黒沢・八木・石井・奥に渡して下さい。右の条々は、あなた自身と同心で調査して調え、黄金・出物・木綿の3種類で調達なさるように。

 尚ゝ、馳走通富田懇申聞候、
今度者、美濃守為名代差下候処ニ、別而馳走候由、誠被入念、返給候へく候、近日三介殿可有御上洛候間、其時可申候、尚此両人可被申候、謹言、
正月甘八日
 秀吉(朱印)
飯田半兵衛尉殿

→埼玉県史6-1453「豊臣秀吉朱印状」(根岸文書)

埼玉県史では美濃守を北条氏規と比定して天正17年とするが、美濃守は羽柴秀長も名乗っており、その場合は天正13年だろう。

 この度は美濃守を名代として派遣したところ、格別に奔走していただいたとのこと、本当に念を入れられまして、お返しいただけますように。近日三介(信雄)殿がご上洛なさるでしょうから、その時に申すでしょう。さらにこの両人が申しましょう。

 さらにさらに、奔走の様子は富田が詳しく聞かせてくれました。


今度長篠籠城之砌、励無類之戦功、頸一被討捕条、神妙被思食候、殊去月於井伊谷、別而忠信之由御悦喜候、然而三州御本意之上、於西三河之内、必須相当之地一所可被宛行之趣、被仰出者也、仍如件、
元亀四[発酉] 十一月廿三日
 山県三郎兵衛尉 奉之
伊藤忠右衛門殿

→戦国遺文 武田氏編2220「武田家朱印状写」(山梨県誌本「機山公展出陳古文書写」)

 定め。この度長篠の籠城の際、無類の戦功に励み、首級1つ討ち取りましたので、神妙だとの思し召しです。特に去る月井伊谷において、格別の忠信をされたとのことでご喜悦です。ということで三河国でご本意を遂げた上は、西三河のうち適切なる地を必ず1箇所宛て行なわれるだろうとの趣旨、仰せ出されました。

[端裏書]「七月五日北条氏直所へ之御朱印之写」

当城立籠候人数、大将之事ハ不及申、下ゝ迄ほしころしニさせらるへきと被思食候処、其方一人罷出、是非腹を仕候ハん間、所勢被作助候ハゝ可忝旨申候由、羽柴下総・黒田勘解由両人懇致言上候、其方申様神妙なる躰、被感思候間、御法度ニて無之候ハゝ、命之儀被成御救度被思食候へ共、御法度之儀候間、無是非候、但親候氏政并奥陸守・大道寺・松田四人諸行ニて表裏之段、聞食被届候条、両四人ニ腹をきらせ、其方儀ハ被助置度被思食候間、是非両四人ニ可被相究事可然候、今日之罷出儀ハ、感入思召候条、外聞之儀ハ天下へ御請乞候間、心安存候へく候、為其如此被仰出候、

「又御自筆之御はしかき」

尚ゝ是非四人可然候、

→小田原市史 史料編 原始・古代・中世I 885「豊臣秀吉朱印状写」(小早川家文書『椋梨家什書六』)

天正18年に比定。

 当城へ立て籠もった者たちは、大将は言うに及ばず、下の階級まで干し殺しにすべきだと思し召しのところ、あなたが1人で出てきて、是非腹を切らせてほしいので諸勢は助けてもらえるならありがたいと申し出た旨、羽柴下総・黒田勘解由の両人が丁寧に言上しました。あなたの神妙な態度に感銘されましたので、ご法度にはありませんが命はお助けになりたいとの思し召しです。しかしご法度がありますので変えられません。ただし、親であります氏政と、陸奥守・大道寺・松田の4人は行動に裏表があったことを聞き及ばれています。この4人に腹を切らせ、あなたのことは助けたいとの思し召しですから、ぜひ4人に覚悟を決めさせ実行して下さい。今日(城を)出てきたことは感じ入っておられますから、外聞のことは天下へ(許しを)請うていただけますから、ご安心いただけますように。このように仰せいただいております。
 (ご自筆の端書)なおなお、是非4人をしかるべく。

岡本知行吉岡郷、於自今以後、如何様ニもはやすへし、為其[無?]虎之印判、かり染にも剪候者、可為曲事、押而剪者有之者、可申上者也、依如件、

天正四年[丙子]七月三日

 海保奉之

岡本越前守殿

→小田原市史 史料編1225「北条家虎朱印状写」(安得虎子十)

 岡本が知行する吉岡郷では今より以後、どのようにしてでも植林するように。虎の印判がなければ、かりそめにも伐採することは違反とするだろう。無理に伐採する者があれば報告するように。

吉田城中取替兵粮之事

  合参百俵者、

右、此内二百俵者、鵜殿休庵・大原弥左衛門、相残百俵者、隠岐越前守立合相調、城中入候間忠節至也、然者此返弁之番者、於望之地可申付者也、仍如件、

永禄八[乙丑]年 二月三日

牧野右馬之允殿

同名山城守殿

野瀬丹波守殿

岩瀬和泉守殿

真木越中守殿

同 善兵衛殿

→戦国遺文 今川氏編2027「今川氏真朱印状写」(国立公文書館所蔵牛窪記)

 吉田城中で取り替えた兵糧のこと。都合300俵。右は、この内200俵は鵜殿休庵・大原弥左衛門、残る100俵は隠岐越前守が立ち会って調達し、城中へ搬入したのは忠節の至りである。ということで、この返済の番は、希望する所領を申し付けるだろう。

[朱印]定

一 九八郎子仙千代休息之時者、道絞娘同親類質物三人以上四人可置之、雖然仙千代牛久保江帰城之時者、親類質物弐人宛にて可為番替事

一 日近之近辺償、可為力量次第事

一 長九郎子長菊可拘置之事

右条々、所令領掌、仍如件、

永禄四年 六月十一日

奥平監物殿

→戦国遺文 今川氏編1704「今川氏真朱印状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

一、九八郎の子である仙千代が休息する時は、道絞の娘か親類から人質3人以上4人を置くように。とはいえ仙千代が牛久保ヘ帰城の時は、親類の人質2人で番替すべきこと。一、日近の近辺での補償は実力次第になすべきこと。一、長九郎の子である長菊は確保しておくこと。右の条項了解させていただきました。