<

blockquote>

拙者父子一人可令上洛旨、御両使御演説之条ゝ、具得心仕候、然者老父氏政可致上洛由申候、年内者雖可為無調候、涯分令支度、極月上旬、爰元可致発足候、委細直ニ可申述候、可然様頼入候、恐々謹言、

六月五日

 氏直(花押)

妙音院

一鴎軒

→小田原市史1945「北条氏直書状」(岡本文書)

天正17年に比定。

 拙者の父子から1人が上洛せよとのこと、ご両使のお話は一つ一つ詳しく心得ました。ということで老父氏政が上洛するとのことを申します。年内は調整が難しいのですが、最大限に支度を急いで、12月上旬にこちらを出発します。詳しくは直接申し上げるでしょう。そのように頼み入ります。

沼田可渡由有之而、自京都冨田・津田、沼田へ可為参着由候、依之安房守半途へ打出為陣取、自是為請取手、左衛門佐指遣候、 一其方人衆之内、馬・人以下被撰立、能衆弐百余人、自身安房守可為同途、歩者者、何もひやくゑ、馬上者、或袖ほそ・かわはかま・たうふくの類、武具ニてハ有間敷候、 一弓・鉄炮なとハ、調次第如何ニも奇麗ニ尤候、火急之儀候間、不成儀をハならぬ一理迄ニ候、恐々謹言、

追而日限者、来廿五、六之儀ニ可有之候、以上、

七月廿日
 氏直(花押)
安中左近大夫殿

→小田原市史1953「北条氏直書状」(市谷八幡神社文書)

天正17年に比定。

 沼田が引き渡されるということがあり、京都より冨田・津田が沼田へ行くそうです。よって安房守が途中まで出て行って陣を構えます。こちらからの受け取り手として左衛門佐を派遣します。一、あなたの部隊から馬・人を選んで、精鋭200余人を編成、あなた自身は安房守に同道して下さい。歩兵は全て白衣、騎馬兵は袖細か皮袴・道服の類で、甲冑を着けてはいけません。一、弓・鉄砲などは揃い次第ですが美麗にするのが望ましいです。火急の用件なので、「できない」ことは認められません。

山角紀伊守所へ之御状披見、并津隼・冨左文見届候、尤以使樽以下被遣可然候、彼両所へ可被仰届案書、自御陰居可被進由候間、不能具候、恐々謹言、
七月廿四日
 氏直(花押)
美濃守殿

→小田原市史1954「北条氏直書状写」(大竹文書)

天正17年に比定。

 山角紀伊守へのご書状を拝見し、一緒に津田隼人正・冨田左近将監の書状も見届けました。使いを出して樽以下のものを送るのがもっともなことでしょう。あの両所へ案書をお届けになられるように。ご隠居よりお申し出になるでしょうから、詳しくは申しません。

雖無指儀候、商人左近士上洛候間、及一翰候、抑其以来海陸共ニ不合期候条、無音、誠背本意候、勇健ニ御入候哉、旦夕御床敷候、就中関東表之事、逐日氏直令静謐候、路次在自由、今一度遂会面度念望迄候、随而雖不珍候、八丈嶋[黄白]一合、進之候、猶期後音之時候、恐々謹言、
十月七日
 氏政(花押)
一謳軒

→小田原市史1624「北条氏政書状」(福山市・承天寺所蔵)

『兼見卿記』天正12年11月22日条「自相州北条氏直、去年遣祓、其返事在之、八丈嶋五端到来了、左近士罷下、即使者右近允ヲ遣了」とあることから、天正12年に比定。

 さしたる用事はありませんが、商人の左近士が上洛するので一筆に及びます。そもそもあれ以来は海陸ともに都合がつきませんでしたのでご無沙汰し、本当に不本意でした。お元気でしょうか。朝夕にお懐かしく思っています。とりわけ関東方面のことは、日増しに氏直が鎮圧しております。交通も自由になりました。また一度お会いしたいと願っています。そして珍しくもありませんが八丈織の黄白を1揃いお贈りします。さらに後での便りを期しましょう。

八十一難経伝受之事、
無謾軽医経
無道聴塗説
無■他嘲■
右、盟■不可有■違者也、
天正六年孟夏吉日
 氏政(花押)

一謳軒

→小田原市史1278「北条氏政判物」(広島市・広島大学文学部所蔵猪熊文書)

出陣以後是非不申届候、手前取乱儀者雖勿論候、背本意候、又兎角不承候、恨入候、然而今度之動、越国表迄、如思召候之条、定可為大慶候、将又鷹証本草之抜書ニ候、遣之候、委細ニ仮名・点被付可給候、次任珍事、鮭三尺遣之候、賞味可為祝着候、恐々謹言、
九月十五日
 氏照(花押)
一謳軒

→戦国遺文 後北条氏編2020「北条氏照書状」(尊経閣文庫所蔵文書)

花押形により天正6年に比定。

 出陣以後の是非をお届けしていませんでした。こちらが取り乱したのは勿論ですが、本意ではありません。また、あれこれご連絡もありませんでした。恨み入ります。そして今度の作戦では、越後国方面まで思い通りになさいますので、きっと喜ばしいことになりましょう。そしてまた、鷹証本草の抜書きをお送りします。詳しく振り仮名や返り点をおつけいただけますでしょうか。次に、珍しいことなので鮭3尺をお送りします。ご賞味いただければ幸いです。

[印文「如律令」]年来免許棟別四間事
右、今度惣国免許棟別為一返之儀申付之処、無異儀所令沙汰也、然者雖有先印判、火電時令焼失云々、雖残書戴于免許帳之旨奉行申状明鏡之間、重而所成■■■[印判也]、自今以後年来押立人足・竹木見伐以下一円■除訖、永不可有相違者也、仍如件、
永禄六[癸亥] 八月廿一日
土岐次郎助

→戦国遺文 今川氏編1928「今川家朱印状」(静岡市葵区紺屋町・駿府博物館所蔵文書)

 年来免除している棟別4間のこと。右はこの度国全体で、免除していた棟別を解除することが指示されており、異議なく処理するものである。ということで先の印判があったとはいえ、落雷で消失したとかいう。所載が残るとはいえ、免許状の趣旨について奉行が言っていることが明確であるため、再び印判を発行する。これ以後は年来押し立てている人足・竹木の伐採以下を包括して免除する。末永く相違があってはならない。

安倍西河内棟別免許之事
村又村 坂本 長津又 柿嶋
池谷 大淵 横澤 大澤
腰越 内匠村 平瀬 落合
萓間
 以上
右、今度就三州急用、分国中免許之棟別一返雖取之、任天沢寺殿印判之旨、不準自余之条所令免除也、縦重免除之棟別諸役等、他之在所者雖相破、於彼在々所々者、別而令奉公之間、永不可有相違者也、仍如件、
永禄六[癸亥]年五月廿六日
 上総介(花押影)
朝倉六郎右衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編1918「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

 安部西河内の棟別免除のこと。村又村・坂本・長津又・柿嶋・池谷・大淵・横沢・大沢・腰越・内匠村・平瀬・落合・萱間。以上。右はこの度、三河国急用について分国中で免除した棟別を解除し取り立てることとなった。とはいえ、天沢寺殿の印判の趣旨の通り、他とは異なるので免除とする。たとえ再び、免除の棟別・諸役などが他の在所で破棄されたとしても、あの各所においては、格別に奉公しているので、末永く相違はないものとする。

御免棟別何茂一返被仰付候、然者其方御手前其外役人寺方何も被指置、惣次ニ候へ共、重而三浦備後守方御承にて、何茂可相破之由候処、備後守方ヘ子細被仰分、其上同心河口方を以、古槇平三郎方へ被仰届断相済候間、向後惣国相破候共、如先御判之不可有別条候、可有御心安候、恐々謹言、
亥 四月十日
 朝比奈丹波守 親徳(花押)
高松 神主殿 参

→戦国遺文 今川氏編1909「朝比奈親徳書状」(御前崎市門屋・中山文書)

永禄6年に比定。

 免除なさった棟別を、どれも解除するよう仰せになりました。ということであなたの手持ちのほか、役人・寺方の何れも差し押さえました。一律でということですが、重ねて三浦備後守で請け負ってもらいました。例外なく解除とのことだったところ、備後守に事情を仰せになり、その上で同心の河口から古槇平三郎へ仰せ届けられ、許諾されました。今後は国単位で破棄となっても、先のご判形の通り別状があってはなりません。ご安心いただけますよう。

[印文「如律令」]棟別之事
右、今度就三州急用免許之棟別、一返悉雖取之、両人事者依勤陣参、不準地下人之間、永免除畢、向後免許棟別雖相破之、両人儀者不可有相違者也、仍如件、
永禄六[癸亥]
杉山小太郎殿
望月四郎右衛門殿

→戦国遺文 今川氏編1908「今川氏真朱印状」(杉山文書)

 棟別のこと。右はこの度、三河国急用について免許した棟別を、解除して全て取り立てることとなったが、両人のことは陣参を勤めたことにより、地下人に準じないので、末永く免除する。今後棟別の免許が破棄されるとしても、両人のことは相違があってはならないものとする。