急度令啓達候、抑拙者就下着仕候、以号玉龍坊衆験被申候、仍去春者為使罷上候処、種ゝ御指南、因茲始中終過分之条ゝ、余身候、一代之面目、更難尽筆紙存候、殊更当方へ御深重之御筋目、佐久間殿・二位法印以御両使具被仰出候、帰国則委細為申聞候、大小共ニ披喜悦之眉候、猶以直状被申候由、可得御意候、恐惶謹言、
四月六日
 笠原 越前守康明判
謹上 左近将監殿 人ゝ御中

→小田原市史 資料編I 480「笠原康明書状写」(水戸市彰考館所蔵古簡雑纂六)

天正8年に比定。

 取り急ぎ申し上げます。そもそも私が下着したことについて、玉龍坊という修験をもって申されました。さて、去る春に使者として上洛したところ、色々とご指導をいただき、これによって最初から最後まで過分に扱っていただき身に余ることでした。私一代の面目を施したことは筆舌に尽くし難く思っています。殊更にこちらへの深く重く筋目を果たしていただき、佐久間殿・武井夕庵の両使者が詳しく仰せ出されました。帰国してすぐに詳細を申し聞かせました。大小ともに喜悦の眉とされています。更に直接の書状で申し上げるだろうとのこと。御意を得られますように。

雖以直書可申入候、両三度不預御返答候、不審之処ニ、書礼慮外之由、於其国御存分之由承及候、更一両年以来相違之儀無之候、但自然御存分有之者、可認置候、○[不可有略儀候、]諸事相紛処、不可過御計量旨被成取、進退之義、弥御馳走其方任置候、委細当口之模様大石可為口説候、恐々謹言、
[永禄十年ノ状也、]九月三日
 氏真
山吉孫次郎殿

→戦国遺文 今川氏編「今川氏真書状写」(歴代古案一)

 直接の書状で申し入れましたが、3度にわたって受け取れないとのご返答でした。不審に思っていたところ、書札礼に配慮がなかったとのこと。その国においてお考えのことを承りました。さらに、一両年以来相違がありませんでしたが、万一お考えがあるならば、認め置きましょう。(略儀があるべきではありません)諸事に紛れているところですが、ご検討が過ぎるということはない旨をお取り成しいただき、進退のことは、ますますの奔走をあなたにお任せします。詳細とこちら方面の状況は大石がご説明するでしょう。

親候義元以来之被任筋目、態御使僧、祝着候、殊ニ向後別而可被仰合由、勿論ニ候、猶朝比奈備中守・三浦次郎左衛門尉可申候、恐々謹言、
十二月廿一日
 源氏真
謹上 上杉殿

→戦国遺文 今川氏編2158「今川氏真書状写」(上杉家文書)

永禄10年に比定。

 親である義元以来の筋目によって、折り入ってご使僧をお送りいただき祝着です。特に、今後は格別に協議しようとのこと、言うまでもありません。更に朝比奈泰朝・三浦氏満が申すでしょう。

濃州上洛依遅延、重而其方差越候、一刻も早く被上候様可申事肝要候、此方逗留中上洛候ヘ者、仕合可然候間、其通能ゝ可申、若於相延者、先可帰国候、委細日限待入候也、
七月十四日
 御書判
朝比奈弥太郎とのへ

→小田原市史 中世I 716「徳川家康書状写」(書上古文書六)

天正16年に比定。

 美濃守(氏規)の上洛が遅延し、重ねてあなたを送ってきました。一刻も早く上洛することが大切です。こちらへ逗留中に上洛してくれれば都合が良いので、その通りによくよく申すように。もし延期されるならば、先に帰国するでしょう。詳しい日限をお待ちしています。

薬院へ以使申入候、御心得御取成可給候、又薬院御女中かたへ終不申入候、是者こなたへ少御好も候、此度申入候間、是又能ゝ御取成頼入候、委者鈴七ニ申含候条、不能具候、恐ゝ謹言、
七月四日
 氏規判
「  自大坂
    北美入道
浄泉斎 御宿所」

→戦国遺文 後北条氏編4346「北条氏規書状写」(古簡雑纂六)

 薬院へ使者を送って申し入れました。お心得をお取り成しいただけますでしょうか。また、薬院の奥様にはついに申し入れませんでした。これはこちらへ少しの誼もありました。この度申し入れましたので、これまた、よくよくお取り成しを頼み込んでいます。詳しくは『鈴七』に申し含めていますので、詳しくは申しません。

於京都、来初春、関東立之陣触有之由告来候、兼覚之前ニ候、弥閣万事、一途ニ可遂防戦支度、火急ニ可有之事、専一候、猶様子可追而可申候、恐々謹言、
十二月廿四日
 氏直(花押)
長尾左衛門殿

→戦国遺文後北条氏編3585「北条氏直書状写」(石北文書)

天正17年に比定。

 京都において、来る初春に関東へ出撃するとの陣触れがあったそうです。兼ねてから覚悟していたことです。ますます万事をさしおいて、一途に防戦の支度をして下さい。緊急のこととするよう、専らになさって下さい。なお、状況は追ってお知らせします。

貴札之趣、氏直父子具為申聞候、委細直被申達候、有御得心、可然様御取成所仰候、可得御意候、恐々謹言、
極月九日
 北条美濃守 氏規(花押)
駿府 貴報人々御中

→戦国遺文後北条氏編3571「北条氏規書状写」(古証文五)

天正17年に比定。

 お手紙の内容を氏直父子に詳しく申し聞かせました。詳細は直接申し渡しました。お心得あり、しかるべきようにお取り成しをと仰せのところです。御意を得ますように。

今度御内書被成下候、忝奉存候、寔生前大事不可過之候、随而御馬一疋[青毛]、致進上候、併御内義之条如此候、御取成可為本望候、恐惶謹言、
十二月廿日
 織田三介 信長
大館左衛門佐殿 人々御中

→織田信長文書の研究52「大館左衛門佐宛書状写」(古簡雑纂十一)

永禄7年に比定。

 この度御内書を下されました。かたじけなく存じます。本当に生前の大事としてこれに過ぎるものはありません。従いまして御馬1匹(青毛)を進上いたします。そして内々の事柄はこのようになります。お取り成しいただければ本望です。

山角紀伊守所へ之御状披見、并津隼・冨左文見届候、尤以使樽以下被遣可然候、彼両所へ可被仰届案書、自御陰居可被進由候間、不能具候、恐々謹言、
七月廿四日
 氏直(花押)
美濃守殿

→小田原市史1954「北条氏直書状写」(大竹文書)

天正17年に比定。

 山角紀伊守へのご書状を拝見し、一緒に津田隼人正・冨田左近将監の書状も見届けました。使いを出して樽以下のものを送るのがもっともなことでしょう。あの両所へ案書をお届けになられるように。ご隠居よりお申し出になるでしょうから、詳しくは申しません。

以幸便染一筆候、仍敵于今長篠在陣之由候条、自去廿三日至今日、打続人数立遣候、小笠原掃部大夫并自当府、先日今福・城・横田等差立候キ、又今日も武藤喜兵衛尉・山県善右衛門尉出陣候間、万端有談合堅固之儀肝要候、勝頼も上信之人衆引付、三日之内ニ可打着候、家康長篠切所を差越在陣之間、天所ニ候、此時不能可討留事案内候、歓喜不可過挾量候、如何様ニも勝頼着陣之間、家康留置度候、恐々謹言、
七月晦日
 勝頼 判
道絞
奥平美作守殿

→戦国遺文 武田氏編2143「武田勝頼書状写」(東京大学総合図書館所蔵「松平奥平家古文書写」)

天正1年に比定。

 時宜を得た便があったので一筆申し上げます。さて敵が現在長篠に在陣しているとのことで、去る23日より今日に至るまで、連続して部隊を派遣しました。小笠原掃部大夫、そして当府より先日は今福・城・横田らを送り出しました。また今日も、武藤喜兵衛尉・山県善右衛門尉が出陣しましたから、全て相談して堅固にすることが大切です。勝頼も上野国・信濃国の部隊を招集して、3日のうちに到着するでしょう。家康が長篠の難所を越えて在陣しているので、天の好機です。この時でなければ討ち取ることはできないでしょう、歓喜は過ぎることはないでしょう。勝頼が着陣するまでの間、どのようにしても家康を留め置くように。