今度花澤有城中、正月四日ニ於小坂口討候間、御走回候、同十六日ニ於大手口鑓合、無比類御働候、氏真様於御本意者、御忠信之段急度御談合可申者也、仍如件、
午 二月五日
 大原肥前守 資良(花押影)
鱸木源六殿

→戦国遺文 今川氏編2441「大原資良判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎氏所蔵文書)

 この度花澤の城中にあり、1月4日に小坂口を討った際に、ご活躍しました。同月16日に大手口において槍を合わせ、比類なくお働きになりました。氏真様がご本意となりましたら、ご忠信の段は取り急ぎご報告するでしょう。

冨士上方之内屋敷分之事
一、大橋佐野兵庫助分 一、後藤大炊助分
一、大窪北原長貫事 一、大宮屋敷半分停止諸役事
一、水沼代官分、此内社役如年来相勤之、其外内徳分可所務事
 已上、
合参拾八貫六百七拾九文者、
[但此内七貫九百四十文余、今度以奉行人令検地之上、増分出来之間、令扶助之也]
右、就善三郎東西陣番、借銭借米過分引負、依進退困窮、伊賀娘伊勢千代エ、善三郎子千熊令契約、知行相渡之由、任善三郎証文之旨、永領掌畢、縦親類被官人雖令難渋、一向不可許容、若千熊伊勢千代令離別者、借銭借米過分爾令弁償、其上善三郎存生之間、加扶持之上者、知行等可為伊勢千代計、任善三郎証文、永可令取刷、但千熊為幼少之間、陣番以名代可相勤者也、仍而如件、
永禄十[丁卯]年八月五日
 上総介(花押)
井出伊賀守殿

→戦国遺文今川氏編2139「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵諸州古文書三下)

富士上方のうち屋敷分のこと。一、大橋佐野兵庫助分。一、後藤大炊助分。一、大窪北原長貫のこと。一、大宮屋敷の半分で諸役を停止していること。一、水沼代官分。このうち社役は年来のように勤め、そのほかの内徳分は所務するべきこと。以上。合わせて38貫679文。但しこのうち7貫940文余、この度奉行人が検地した上で増分ができたので、扶助させる。右は、善三郎の東西陣番について、過分な負債で赤字となり、家計が成り立たなくなったため、伊賀守の娘伊勢千代へ、善三郎の息子の千熊を婚約させ、知行を渡すとのこと、善三郎の証文の内容の通り、末永く掌握する。たとえ親類・被官人が反対したとしても、全く許容しない。もし千熊と伊勢千代が離別する場合は、過分な負債は弁償させるように。その上で善三郎が存命であれば扶持を加えるので、知行などは伊勢千代だけにするように。善三郎の証文の通り、末永く取り扱うように。但し千熊が幼少の間は名代として陣番を勤めるように。

今度上総行之砌、於殿太田源五郎越度刻、其方伯父賀藤源左衛門尉見届討死候、誠忠節不浅候、於氏政感悦候、然間一跡福可相続、然共只今為幼少間、福成人之上、相当之者妻一跡可相続条、其間者、源次郎可有手代者也、仍如件、
永禄十年[丁卯] 九月十日
 氏政(花押)
賀藤源左衛門尉息女
 福
賀藤源二郎殿

→小田原市史資料編692「北条氏政判物写」(武州文書十五)

 この度の上総国作戦の際、殿軍において太田源五郎が戦死した時に、あなたの伯父賀藤源左衛門尉が見届けて討ち死にしました。本当に忠節は浅からぬものです。氏政においては感悦しました。ということで一跡を福が相続するように。とはいえ現在は幼少なので、福が成人した上で、見合った者の妻として一跡を相続するよう。その間は源次郎が手代となるように。

安倍西河内棟別免許之事
村又村 坂本 長津又 柿嶋
池谷 大淵 横澤 大澤
腰越 内匠村 平瀬 落合
萓間
 以上
右、今度就三州急用、分国中免許之棟別一返雖取之、任天沢寺殿印判之旨、不準自余之条所令免除也、縦重免除之棟別諸役等、他之在所者雖相破、於彼在々所々者、別而令奉公之間、永不可有相違者也、仍如件、
永禄六[癸亥]年五月廿六日
 上総介(花押影)
朝倉六郎右衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編1918「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

 安部西河内の棟別免除のこと。村又村・坂本・長津又・柿嶋・池谷・大淵・横沢・大沢・腰越・内匠村・平瀬・落合・萱間。以上。右はこの度、三河国急用について分国中で免除した棟別を解除し取り立てることとなった。とはいえ、天沢寺殿の印判の趣旨の通り、他とは異なるので免除とする。たとえ再び、免除の棟別・諸役などが他の在所で破棄されたとしても、あの各所においては、格別に奉公しているので、末永く相違はないものとする。

服部中宛行本知行分之事
 合百弐拾貫文
 此内 百貫文者遠州刑部村 弐拾貫文者参州岡村
右、年来戦忠明鏡之上、今度境目就調略、若於討死者、宛行知行分、息子つう丸ニ可申付、彼者幼少之間者、安孫刑部右衛門以異見、知行分所務もの也、
天正五[丁丑]年四月廿三日
 家康公御判
服部中殿

→静岡県史資料8 1056「徳川家康判物写」(記録御用所本古文書一○内閣文庫所蔵)

 服部中に宛行なう本知行のこと。合計で120貫文。このうち、100貫文は遠江国刑部村。20貫文は三河国岡村。右は、年来の戦忠が明確である上、この度国境の調略でもし討ち死にした場合に、宛行なう知行は息子の『つう丸』に与える。あの者が幼少の間は、安孫刑部右衛門が後見し、知行の経営を行なうものとする。

宛行知行之事
右、白須賀郷并長屋郷田畠・野山・船綱等、不准自余相除之、彼郷中見出聞出之田地等、一円勝重可為計、然者去ル戌年高天神籠城之時節、凌敵地及数ヶ度令通用、不顧身命忠節、為其賞彼知行出置候、永不可有相違、守此旨弥可抽忠功者也、仍如件、
天正五[丁丑]四月廿三日
 家康御書判
勾坂牛之助殿

→静岡県史資料編8 1055「徳川家康判物写」(浅羽本系図四十七)

 知行宛行ないのこと。右、白須賀郷並びに長屋郷の田畑・野山・船網などは、他とは異なり免税とし、その郷中で見たり聞いたりした田や土地など、一円を勝重だけのものとするように。それは去る戌年に高天神に籠城した折に、敵地を数回にわたり通って、命を顧みずに行なった忠節によりその褒美として知行として出すものである。末永く相違のないように。このことを守り、忠功にぬきんでるように。


朱しない・差物、停分国之諸勢、其方一人可被用之候者也、仍如件、
元亀三年[壬申] 九月拾三日
 信玄 判
左馬助殿

→戦国遺文武田氏編1950「武田信玄判物写」(内閣文庫所蔵「古今消息集」一)

 定め。朱のしない・指物は分国の諸勢でこれを止め、あなた1人がこれを用いられますようにする。

 於井伊谷所々買得地之事
一上都田只尾半名 一下都田十郎兵衛半分[永地也]
一赤佐次郎左衛門尉名五分一 一九郎右衛門尉名
一祝田十郎名 一同又三郎名三ケ一分
一右近左近名 一左近七半分
一禰宜敷銭地 一瀬戸平右衛門尉名
 已上
右条々、如前々領掌不可有相違、并千寿院・同重力ニ借預候任一筆、可有催促之、若於有難渋者、公方人以可有其沙汰者也、仍如件、
永禄拾弐[己已]年 八月三日
 家康
瀬戸方久

→戦国遺文 今川氏編2416「徳川家康判物写」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 井伊谷において買得した土地のこと。一、上都田の只尾半名。一、下都田の十郎兵衛半分(これは永地)。一、赤佐次郎左衛門尉名の5分の1。一、九郎右衛門尉名。一、祝田十郎名。一、同又三郎名3分の1。一、右近左近名。一、左近七半分。一、禰宜の敷銭地。一、瀬戸平右衛門尉名。以上。右の項目は、以前からのように領掌し相違があってはならない。並びに、千寿院と同じく重力に借し預けました書類の通りに、催促するように。もし異議を唱える者がいたら、公方人が裁許するだろう。

今度就遠州入、最前両三人以忠節井伊谷筋令案内、可引出之由、感悦至也、其上彼忠節付而出置知行事
一井伊谷跡職、新地・本地一円出置事[但、是ハ五百貫文之事]
一二俣左衛門跡職一円之事 一高園曽子方之事
一高梨 一気賀之郷 一かんま之郷
一まんこく橋つめ共 一山田 一川合
一かやは 一国領 一野辺 一かんさう
一あんま之郷 一人見之郷并新橋・小沢渡
右、彼書立之分、何も為不入無相違永為私領出置所也、并於此地田原参百貫文可出置也、井伊谷領之外、此書立之内、以弐千貫文、任望候地可出置也、若従甲州如何様之被申事候共、以起請文申定上者、進退かけ候而申理、無相違可出置也、其上縦何方へ成共、何様忠節以先判形出置共、於此上者相違有間敷者也、委細者菅沼新八郎方可申者也、仍如件、
十二月十二日
 家康
菅沼二郎衛門殿
近藤石見守殿
鈴木三郎太夫殿

→戦国遺文 今川氏編2201「徳川家康判物写」(鈴木重信氏所蔵文書)

永禄11年に比定。

 この度遠江国へ入るに当たり、最前に3人が忠節をもって井伊谷方面を案内し引き出そうとのこと。感悦の至りである。その上で忠節について拠出する知行のこと。

 一、井伊谷跡職、新知行・本知行の一円を拠出すること(但しこれは500貫文である)。一、二俣左衛門跡職一円のこと。一、高園曽子方のこと。一、高梨。一、気賀の郷。一、かんまの郷。一、まんこく橋つめ共。一、山田。一、川合。一、かやは。一、国領。一、野辺。一、かんさう。一、あんまの郷。一、人見の郷と新橋・小沢渡。

 右は、あの書き立ての分で、どれも不入として末永く相違なく私領として拠出するものである。並びに、この地において田原300貫文を拠出するだろう。井伊谷領のほか、この書き立てのうち、2,000貫文で望みの知行を拠出しよう。もし甲斐武田家より何か申し立ててきても、起請文をもって決めた上は、進退をかけて説明し、相違なく拠出するだろう。その上、たとえどこにどのような忠節をして先に判形を出したとしても、このようになったうえは、相違があってはならない。詳しくは菅沼新八郎から連絡するだろう。

今度宇津山東筋肝要之儀候間、就引付候、御知行之儀御堪忍祝着候、先少当座之為替代三百貫吉良河島、三百貫作手領、弐百貫小法師知行、百貫井谷領渡置申候、其上東筋相替儀候ハゝ、相違分可進候、貴所御忠節之儀候間、神八幡・富士・白山弥向後如在申間敷候、猶委細者左衛門尉行意可申入候、仍如件、
六月五日
 松蔵 家康判
西佐 参

→戦国遺文 今川氏編1994「松平家康判物写」(東京大学史料編纂所架蔵三川古文書)

永禄7年に比定。

 この度宇津山東方面が争点となったので、『引付』についてご知行で忍従していただき幸いです。まずは少しの当座の替地として300貫文を吉良河島、300貫文を作手領、200貫文を小法師知行、100貫文を井伊谷領からお渡しします。その上で、東方面で知行替えがあったなら、相応の分を進上します。あなたはご忠節を示していますので、神八幡・富士・白山にかけて、今後はぞんざいに扱うことはありません。詳しくは酒井忠次が手立てや真意を申し入れるでしょう。