急度染一筆候、仍今度至駿州雖敵動候、其谷無事満足候、光明之番申付候間、定可被移候歟、弥谷中堅固備任入候、就中子息小四郎此度長篠於法元、最前越川則合鑓、別而粉骨誠感悦ニ候、其上無何事被退之儀、勝頼大慶不過之候、猶玄蕃頭江尻在番候之間、用所等可被相談候、恐々謹言、
六月七日
勝頼 判
天野宮内右衛門殿
→戦国遺文 今川氏編2569「武田勝頼書状写」(浜松市天竜区春野町・天野家文書)
天正3年に比定。
取り急ぎお伝えします。この度駿河国に敵が侵入したのですが、その谷が無事で満足です。光明の守備を申し付けましたので、きっと移られたのでしょうか。谷を堅固に備えるよう、ますますお願いします。とりわけ息子の小四郎は、この度長篠の法元において、前線で川を越えて槍を合わせ、格別の粉骨をし本当に感じ入りました。その上で何事もなく退かれましたこと、勝頼の喜びはこれに過ぎるものはありません。なお、玄蕃頭が江尻に当番でおりますので、用向きがあれば相談して下さい。
書状写
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定
其方本屋敷并義元隠居屋敷被下置候、自今已後私宅等被相構、可有居住之由、被 仰出候者也、仍如件、
元亀四[癸酉] 十一月廿日[竜朱印]
跡部大炊助奉之
岡部丹後守殿
→戦国遺文 今川氏編2547「武田家朱印状」(藤技市郷土博物館所蔵岡部文書)
定め書き。あなたの屋敷と今川義元の隠居屋敷をお与えになります。これ以後は私宅などを構えて居住するようにとのことです。
朱印状
用山様・同天澤寺様、二親之御いはひ田として、島崎二反、同三谷門前、さき切おこし反銭、共に相副申、令寄進所、依如件、
永禄三年庚申霜月十七日
四宮図書之助 輝明(花押影)
圓成寺江参
→戦国遺文 今川氏編2721「四宮輝明判物写」(圓成寺記所収文書)
用山様(今川氏輝)・同じく天沢寺様(今川義元)、この二親の位牌田として、島崎で2反、同じく三谷門前で切り開いた段銭、共にそえて寄進所とさせていただきます。
判物写
去辰十二月九日、駿・甲之境錯乱之処、従其刻同心被官、過分相拘走廻候、殊巳二月朔日、穴山・葛山方為始、大宮城江雖成動、手負・死人仕出、還而失勝利引退候、同六月廿三日、信玄以大軍彼城江取懸、昼夜廿日余費、雖及種々行候、堅固相拘、結句人数討捕候、然処、自氏政可罷退之書札、三通参着之上、双方以扱出城候、将亦以自分及二ケ年、矢・鉄砲・玉薬、籠城内者、人数等扶持出之候、忠信之至也、只今進退就困窮、暇之儀申之間、無相違出上者、東西於何方、進退可相定、本意之時者、早々馳来、如先々可致奉公、本地・新地・代官所、并今度忠節分、以其次可出之者也、仍如件、
元亀二[未辛]年 十月廿六日
氏真(花押)
冨士蔵人殿
→戦国遺文 今川氏編2493「今川氏真判物」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)
去る辰年12月9日、駿河・甲斐の国境で紛争があったところ、その時から同心・被官を目いっぱい指揮して活躍しました。特に巳年2月1日に、穴山・葛山方を筆頭に大宮城へ攻撃してきたものの、負傷者・死者を出してかえって勝利を失って撤退させました。同年6月23日、武田晴信が大軍をもってあの城へ攻撃をかけ、昼夜20日余りを費やして様々な作戦を行ないましたが堅固に守り、結局敵を討ち取りました。そのようなところ、氏政より退去を指示する書状が3通到着し、双方停戦して城を出ました。さらにまた、自力で2年間、矢・鉄砲・火薬のほか、籠城している兵員の扶持も出しました。忠信の至りである。現在は進退に窮して暇乞いをしているので、相違なく(暇を)出す上は、東西どちらへでも進退を決めるように。(私が)本意を遂げたときは、早々に馳せ来たって、以前のように奉公するように。本知行・新知行・代官職と、今度の忠節分は、それに次いで出すであろう。
判物
於高天神甲斐方人数寄来所、各加勢無比類故、敵無相違追出、令感候、弥忠節候ハゝ、敢如在有間鋪者也、
元亀二年三月廿九日
家康書判
小笠原民部少輔殿
同 右馬佐殿
同 左衛門佐殿
富士宮若丸殿
但軍代
長野信濃殿
富田新九郎殿
→戦国遺文 今川氏編2481「徳川家康感状写」(唐津・小笠原家文書)
高天神において武田方の部隊が攻め寄せたところ、それぞれ加勢して比類がなかった故に、敵を相違なく追い出し、感じ入りました。ますます忠節を行なうならば、あえて疎かにすることはありません。
感状写
此度西原小屋へ敵取詰候処ニ、彼地ニ籠走廻候、無比類候、弥於相稼者、御本城様へ申上、可引立者也、仍状如件、
永禄十三[午庚] 五月廿二日
氏忠(花押)
西原源太殿
→戦国遺文 今川氏編2455「北条氏忠感状」(沼津市三枚橋町旧住・西原文書)
この度西原小屋へ敵が攻め寄せたところに、あの地で籠城し活躍しました。比類がありません。ますます功績をあげるならば、御本城様へ申し上げて引き立てるものである。
感状
小鹿民部少輔方於河野庄合力拾五貫文之内、五貫文被売渡、民部少輔方任証文之旨、永不可有相違、陣番役等之儀者、如年来民部少輔方可被勤之、他国人買跡之間、諸役不可有之者也、仍如件、
[年号見江不申候]
十一月九日
氏真判
法寿寺
→戦国遺文 今川氏編2793「今川氏真判物写」(可睡斎所蔵僧録司文書二)
小鹿民部少輔方の河野庄での合力15貫文のうち、5貫文を売却された。民部少輔方の証文の内容に、末永く相違があってはならない。陣番役などのことは、年来どおり民部少輔へ勤めるように。他国の人が買い取っている間は、諸役は不要である。
判物写
「[包紙]鈴木主水助殿」
去四月廿七日、於三澤敵相動刻、合鑓走廻、其上同去十七日於大宮■壱ツ討捕事、太神妙也、弥可抽軍功状、仍如件、
永禄十三年 五月廿二日
氏真(花押影)
鈴木主水助殿
→戦国遺文 今川氏編2454「今川氏真感状写」(静嘉堂文庫所蔵古文書タ)
去る4月27日三澤において敵が攻撃したとき、槍を合わせ活躍し、その上同月17日に大宮において首級1つを討ち取ったこと、とても神妙である。ますます軍功にぬきんでるように。
感状写