急度染一筆候、仍今度至駿州雖敵動候、其谷無事満足候、光明之番申付候間、定可被移候歟、弥谷中堅固備任入候、就中子息小四郎此度長篠於法元、最前越川則合鑓、別而粉骨誠感悦ニ候、其上無何事被退之儀、勝頼大慶不過之候、猶玄蕃頭江尻在番候之間、用所等可被相談候、恐々謹言、

六月七日

 勝頼 判

天野宮内右衛門殿

→戦国遺文 今川氏編2569「武田勝頼書状写」(浜松市天竜区春野町・天野家文書)

天正3年に比定。

取り急ぎお伝えします。この度駿河国に敵が侵入したのですが、その谷が無事で満足です。光明の守備を申し付けましたので、きっと移られたのでしょうか。谷を堅固に備えるよう、ますますお願いします。とりわけ息子の小四郎は、この度長篠の法元において、前線で川を越えて槍を合わせ、格別の粉骨をし本当に感じ入りました。その上で何事もなく退かれましたこと、勝頼の喜びはこれに過ぎるものはありません。なお、玄蕃頭が江尻に当番でおりますので、用向きがあれば相談して下さい。

一書之趣永々敷候へ共、東国辺之体、其方へ不相聞由候条、大形有姿申展候、

別紙之趣、今披閲候、京都之体先書申旧候、公儀真木嶋江御移候、御逗留不実之由申候キ、無相違於時宜者不可有其隠之条、不能重説候、仍江州北郡之浅井、近年対信長構不儀候、即時可退治之処、天下之儀取紛送日候、殊越前之朝倉義景城裏ニ有て令荷担之条、何かと此節至而遅々候、余無際限候間、去月十日及行彼大嵩乗執候刻、為後詰義景江越境目迄出張備陣候、幸之儀と相覚、同十三日夜中切懸遂一戦、於手前朝倉同名親類を初、随一之者共三千余、討捕切捨不知数候、然間越前へ令乱入、府中ニ立馬候、一乗之谷押寄之処、朝倉退散候条、谷中不残一宇放火候、左候処、彼国之傍ニ義景楯籠之由候間、遣人数取巻義景腹を切セ候、首京都江差上候、残党共太略召出一国平均之条、開陣候、郡代残置、同廿六日至江北打帰候、則廿七日夜中ニ浅井構へ取縣、翌日廿八責崩、浅井親子首を切候、是又洛中洛外之者、為見物上遣候、近年之儀、彼等以所行、甲州之武田、越前之朝倉類為敵候、公儀御造意茂此故候、一方不成遺恨深重之処、悉以討果之条、大慶過賢慮候、如此之間、加賀・能登信長為分国申付候、越後之上杉輝虎多年知音之間、無別条候、北国之儀皆以任下知候、甲州之信玄病死候、其跡之体、難相続候、駿州之今川、数年信玄ニ被追出候而、北条を相頼、豆州ニ蟄居、此節此方江被走入之条、難黙止令許容候、駿州出張之儀馳走候、本意不可有幾程候、近日可為上洛之条、南方辺之事、可承合候、於拙子者、可御心易候、以日乗承候趣、得其心候、彼口上ニ可有之候、猶追々可申述候、恐々謹言、

元亀四 九月七日

 信長

毛利右馬頭殿

小早川左衛門佐殿

  進上候、

→戦国遺文 今川氏編2538「織田信長書状写」(東京大学史料編纂所架蔵乃美文書正写)

書面が長々しくなってしまいますが、東国近辺の様子はあなたへ届いていないようなので、あらましを申し述べます。

別紙のことはただいま拝見しました。京都の様子は先の書状から変わりました。将軍は真木嶋へお移りになり、ご逗留は不実であると申しました。相違のない時宜においては隠しだてもできませんので、重ねては申しません。よって、近江国北郡の浅井は、近年信長に対して身構えて不義をしています。即時退治しようとしたところ、天下のことに取り紛れて日を送っていました。特に越前の朝倉義景が裏で荷担していましたので、何かとこの頃に至って遅々としていました。あまりに際限がないので、去る月の10日に攻撃してあの大嵩を乗っ取ったら、後詰として義景が近江・越前の国境に陣を張ってきました。これを幸いに思い、同月13日夜中に切ってかかって一戦を遂げ、『手前』(眼前?)において朝倉一族親類を初めとして、精鋭の者ども3,000人余りを討ち取り、数え切れないほど切って捨てました。それに乗じて越前へ乱入させ、越前府中に本陣を構えました。一乗の谷へ押し寄せたところ、朝倉は退散しましたので、谷中一軒残らず放火しました。そのようなところ、あの国の外れに義景が立てこもったと聞いたので、部隊を送り包囲して義景を切腹させ、首級を京都へ差し上げました。残党たちをおおかた出仕させ一国を制圧しましたので陣を解きました。郡代を残し置き、同月26日に近江北郡へ帰還、すぐに27日夜中に浅井の拠点へ取り掛かり、翌28日に攻め崩して浅井親子の首を切りました。これもまた洛中・洛外の者、見物のため上り遣わしました。近年のこと、彼等の所行をもって、甲斐国の武田、越前国の朝倉の類が敵となりました。将軍のご謀反もこのせいです。遺恨が尋常ではなく深く重かったところ、ことごとく討ち果たせましたので大慶であることご推察下さい。このようであったので、加賀・能登は信長の分国として申し付けられました。越後の上杉輝虎は多年交流がありますから、別状はありません。北国のことは全て支配を任せられました。甲斐国の信玄が病死してその跡継ぎは相続が難しく、駿河国の今川は数年前に信玄によって追放され北条を頼って伊豆国に蟄居。最近こちらへ駆け込んできたので、黙しがたく許しました。駿河国への攻撃に奔走します。本意を遂げるのにそれほどかからないでしょう。南方付近の事、お聞きしたいと思います。私にはご安心されますように。朝山日乗が承ったことは承知しました。あの者の口上にもあるでしょう。さらに追々申し述べます。

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其方本屋敷并義元隠居屋敷被下置候、自今已後私宅等被相構、可有居住之由、被 仰出候者也、仍如件、

元亀四[癸酉] 十一月廿日[竜朱印]

 跡部大炊助奉之

岡部丹後守殿

→戦国遺文 今川氏編2547「武田家朱印状」(藤技市郷土博物館所蔵岡部文書)

定め書き。あなたの屋敷と今川義元の隠居屋敷をお与えになります。これ以後は私宅などを構えて居住するようにとのことです。

用山様・同天澤寺様、二親之御いはひ田として、島崎二反、同三谷門前、さき切おこし反銭、共に相副申、令寄進所、依如件、

永禄三年庚申霜月十七日

四宮図書之助 輝明(花押影)

圓成寺江参

→戦国遺文 今川氏編2721「四宮輝明判物写」(圓成寺記所収文書)

用山様(今川氏輝)・同じく天沢寺様(今川義元)、この二親の位牌田として、島崎で2反、同じく三谷門前で切り開いた段銭、共にそえて寄進所とさせていただきます。

去辰十二月九日、駿・甲之境錯乱之処、従其刻同心被官、過分相拘走廻候、殊巳二月朔日、穴山・葛山方為始、大宮城江雖成動、手負・死人仕出、還而失勝利引退候、同六月廿三日、信玄以大軍彼城江取懸、昼夜廿日余費、雖及種々行候、堅固相拘、結句人数討捕候、然処、自氏政可罷退之書札、三通参着之上、双方以扱出城候、将亦以自分及二ケ年、矢・鉄砲・玉薬、籠城内者、人数等扶持出之候、忠信之至也、只今進退就困窮、暇之儀申之間、無相違出上者、東西於何方、進退可相定、本意之時者、早々馳来、如先々可致奉公、本地・新地・代官所、并今度忠節分、以其次可出之者也、仍如件、

元亀二[未辛]年 十月廿六日

 氏真(花押)

冨士蔵人殿

→戦国遺文 今川氏編2493「今川氏真判物」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)

去る辰年12月9日、駿河・甲斐の国境で紛争があったところ、その時から同心・被官を目いっぱい指揮して活躍しました。特に巳年2月1日に、穴山・葛山方を筆頭に大宮城へ攻撃してきたものの、負傷者・死者を出してかえって勝利を失って撤退させました。同年6月23日、武田晴信が大軍をもってあの城へ攻撃をかけ、昼夜20日余りを費やして様々な作戦を行ないましたが堅固に守り、結局敵を討ち取りました。そのようなところ、氏政より退去を指示する書状が3通到着し、双方停戦して城を出ました。さらにまた、自力で2年間、矢・鉄砲・火薬のほか、籠城している兵員の扶持も出しました。忠信の至りである。現在は進退に窮して暇乞いをしているので、相違なく(暇を)出す上は、東西どちらへでも進退を決めるように。(私が)本意を遂げたときは、早々に馳せ来たって、以前のように奉公するように。本知行・新知行・代官職と、今度の忠節分は、それに次いで出すであろう。

於高天神甲斐方人数寄来所、各加勢無比類故、敵無相違追出、令感候、弥忠節候ハゝ、敢如在有間鋪者也、

元亀二年三月廿九日

 家康書判

小笠原民部少輔殿

同 右馬佐殿

同 左衛門佐殿

富士宮若丸殿

  但軍代

長野信濃殿

富田新九郎殿

→戦国遺文 今川氏編2481「徳川家康感状写」(唐津・小笠原家文書)

高天神において武田方の部隊が攻め寄せたところ、それぞれ加勢して比類がなかった故に、敵を相違なく追い出し、感じ入りました。ますます忠節を行なうならば、あえて疎かにすることはありません。

此度西原小屋へ敵取詰候処ニ、彼地ニ籠走廻候、無比類候、弥於相稼者、御本城様へ申上、可引立者也、仍状如件、

永禄十三[午庚] 五月廿二日

 氏忠(花押)

西原源太殿

→戦国遺文 今川氏編2455「北条氏忠感状」(沼津市三枚橋町旧住・西原文書)

この度西原小屋へ敵が攻め寄せたところに、あの地で籠城し活躍しました。比類がありません。ますます功績をあげるならば、御本城様へ申し上げて引き立てるものである。

小鹿民部少輔方於河野庄合力拾五貫文之内、五貫文被売渡、民部少輔方任証文之旨、永不可有相違、陣番役等之儀者、如年来民部少輔方可被勤之、他国人買跡之間、諸役不可有之者也、仍如件、

[年号見江不申候]

十一月九日

 氏真判

法寿寺

→戦国遺文 今川氏編2793「今川氏真判物写」(可睡斎所蔵僧録司文書二)

 小鹿民部少輔方の河野庄での合力15貫文のうち、5貫文を売却された。民部少輔方の証文の内容に、末永く相違があってはならない。陣番役などのことは、年来どおり民部少輔へ勤めるように。他国の人が買い取っている間は、諸役は不要である。

「[包紙]鈴木主水助殿」

去四月廿七日、於三澤敵相動刻、合鑓走廻、其上同去十七日於大宮■壱ツ討捕事、太神妙也、弥可抽軍功状、仍如件、

永禄十三年 五月廿二日

 氏真(花押影)

鈴木主水助殿

→戦国遺文 今川氏編2454「今川氏真感状写」(静嘉堂文庫所蔵古文書タ)

去る4月27日三澤において敵が攻撃したとき、槍を合わせ活躍し、その上同月17日に大宮において首級1つを討ち取ったこと、とても神妙である。ますます軍功にぬきんでるように。