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織田信長、毛利輝元と小早川隆景に、浅井・朝倉・武田・今川氏の動向を伝える

一書之趣永々敷候へ共、東国辺之体、其方へ不相聞由候条、大形有姿申展候、

別紙之趣、今披閲候、京都之体先書申旧候、公儀真木嶋江御移候、御逗留不実之由申候キ、無相違於時宜者不可有其隠之条、不能重説候、仍江州北郡之浅井、近年対信長構不儀候、即時可退治之処、天下之儀取紛送日候、殊越前之朝倉義景城裏ニ有て令荷担之条、何かと此節至而遅々候、余無際限候間、去月十日及行彼大嵩乗執候刻、為後詰義景江越境目迄出張備陣候、幸之儀と相覚、同十三日夜中切懸遂一戦、於手前朝倉同名親類を初、随一之者共三千余、討捕切捨不知数候、然間越前へ令乱入、府中ニ立馬候、一乗之谷押寄之処、朝倉退散候条、谷中不残一宇放火候、左候処、彼国之傍ニ義景楯籠之由候間、遣人数取巻義景腹を切セ候、首京都江差上候、残党共太略召出一国平均之条、開陣候、郡代残置、同廿六日至江北打帰候、則廿七日夜中ニ浅井構へ取縣、翌日廿八責崩、浅井親子首を切候、是又洛中洛外之者、為見物上遣候、近年之儀、彼等以所行、甲州之武田、越前之朝倉類為敵候、公儀御造意茂此故候、一方不成遺恨深重之処、悉以討果之条、大慶過賢慮候、如此之間、加賀・能登信長為分国申付候、越後之上杉輝虎多年知音之間、無別条候、北国之儀皆以任下知候、甲州之信玄病死候、其跡之体、難相続候、駿州之今川、数年信玄ニ被追出候而、北条を相頼、豆州ニ蟄居、此節此方江被走入之条、難黙止令許容候、駿州出張之儀馳走候、本意不可有幾程候、近日可為上洛之条、南方辺之事、可承合候、於拙子者、可御心易候、以日乗承候趣、得其心候、彼口上ニ可有之候、猶追々可申述候、恐々謹言、

元亀四 九月七日

 信長

毛利右馬頭殿

小早川左衛門佐殿

  進上候、

→戦国遺文 今川氏編2538「織田信長書状写」(東京大学史料編纂所架蔵乃美文書正写)

書面が長々しくなってしまいますが、東国近辺の様子はあなたへ届いていないようなので、あらましを申し述べます。

別紙のことはただいま拝見しました。京都の様子は先の書状から変わりました。将軍は真木嶋へお移りになり、ご逗留は不実であると申しました。相違のない時宜においては隠しだてもできませんので、重ねては申しません。よって、近江国北郡の浅井は、近年信長に対して身構えて不義をしています。即時退治しようとしたところ、天下のことに取り紛れて日を送っていました。特に越前の朝倉義景が裏で荷担していましたので、何かとこの頃に至って遅々としていました。あまりに際限がないので、去る月の10日に攻撃してあの大嵩を乗っ取ったら、後詰として義景が近江・越前の国境に陣を張ってきました。これを幸いに思い、同月13日夜中に切ってかかって一戦を遂げ、『手前』(眼前?)において朝倉一族親類を初めとして、精鋭の者ども3,000人余りを討ち取り、数え切れないほど切って捨てました。それに乗じて越前へ乱入させ、越前府中に本陣を構えました。一乗の谷へ押し寄せたところ、朝倉は退散しましたので、谷中一軒残らず放火しました。そのようなところ、あの国の外れに義景が立てこもったと聞いたので、部隊を送り包囲して義景を切腹させ、首級を京都へ差し上げました。残党たちをおおかた出仕させ一国を制圧しましたので陣を解きました。郡代を残し置き、同月26日に近江北郡へ帰還、すぐに27日夜中に浅井の拠点へ取り掛かり、翌28日に攻め崩して浅井親子の首を切りました。これもまた洛中・洛外の者、見物のため上り遣わしました。近年のこと、彼等の所行をもって、甲斐国の武田、越前国の朝倉の類が敵となりました。将軍のご謀反もこのせいです。遺恨が尋常ではなく深く重かったところ、ことごとく討ち果たせましたので大慶であることご推察下さい。このようであったので、加賀・能登は信長の分国として申し付けられました。越後の上杉輝虎は多年交流がありますから、別状はありません。北国のことは全て支配を任せられました。甲斐国の信玄が病死してその跡継ぎは相続が難しく、駿河国の今川は数年前に信玄によって追放され北条を頼って伊豆国に蟄居。最近こちらへ駆け込んできたので、黙しがたく許しました。駿河国への攻撃に奔走します。本意を遂げるのにそれほどかからないでしょう。南方付近の事、お聞きしたいと思います。私にはご安心されますように。朝山日乗が承ったことは承知しました。あの者の口上にもあるでしょう。さらに追々申し述べます。

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