去辰十二月九日、駿・甲之境錯乱之処、従其刻同心被官、過分相拘走廻候、殊巳二月朔日、穴山・葛山方為始、大宮城江雖成動、手負・死人仕出、還而失勝利引退候、同六月廿三日、信玄以大軍彼城江取懸、昼夜廿日余費、雖及種々行候、堅固相拘、結句人数討捕候、然処、自氏政可罷退之書札、三通参着之上、双方以扱出城候、将亦以自分及二ケ年、矢・鉄砲・玉薬、籠城内者、人数等扶持出之候、忠信之至也、只今進退就困窮、暇之儀申之間、無相違出上者、東西於何方、進退可相定、本意之時者、早々馳来、如先々可致奉公、本地・新地・代官所、并今度忠節分、以其次可出之者也、仍如件、
元亀二[未辛]年 十月廿六日
氏真(花押)
冨士蔵人殿
→戦国遺文 今川氏編2493「今川氏真判物」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)
去る辰年12月9日、駿河・甲斐の国境で紛争があったところ、その時から同心・被官を目いっぱい指揮して活躍しました。特に巳年2月1日に、穴山・葛山方を筆頭に大宮城へ攻撃してきたものの、負傷者・死者を出してかえって勝利を失って撤退させました。同年6月23日、武田晴信が大軍をもってあの城へ攻撃をかけ、昼夜20日余りを費やして様々な作戦を行ないましたが堅固に守り、結局敵を討ち取りました。そのようなところ、氏政より退去を指示する書状が3通到着し、双方停戦して城を出ました。さらにまた、自力で2年間、矢・鉄砲・火薬のほか、籠城している兵員の扶持も出しました。忠信の至りである。現在は進退に窮して暇乞いをしているので、相違なく(暇を)出す上は、東西どちらへでも進退を決めるように。(私が)本意を遂げたときは、早々に馳せ来たって、以前のように奉公するように。本知行・新知行・代官職と、今度の忠節分は、それに次いで出すであろう。