一昨日者遂面上候、仍御前御煩、一昨日朝より豊前療治被申候、彼薬相当、自昨日熱気散候、殊夜中今朝者、すきと能候、然ニ産之脈証自今朝出来、腰腹心も其分ニ候、無力御入候時分窮屈ニ候、雖然、今度之煩能時分得減気、不思議仕合候、祈祷今日結願候、又誕生平安之祈念可申付候、箱根正恵坊学者之由候、其分候之哉、然者、明日巳刻以前被下候様、今夜中使を可被指上候、自此方者無案内候間、其方へ申候、恐々謹言、

七月朔日

氏康 拝

(礼紙ウハ書)「(切封墨引)幻菴 参
     太清軒」

→神奈川県史 資料編3「北条氏康書状写」(相州文書所収足柄下郡蓮上院文書)

 一昨日お会いしました。御前のご病気は一昨日朝より豊前が療治していると申され、薬が適合して、昨日から熱が下がっています。特に夜中から今朝は、すっきりとよくなっています。ということでお産の脈証が今朝より出てきて、腹と腰の芯も同じく快復しています力なくお入りの時は大変でした。とはいえ、今度の病気はよい時分に元気を得て、不思議な巡り合わせです。
 祈祷は今日結願です。また誕生・平安の祈念を指示するでしょう。箱根正恵坊が学者だとのことで、適任でしょうか。であれば、明日巳刻(10時)以前に下されるよう、今夜じゅうに使いを上らせますように。こちらからは無案内なので、あなたに申します。

黄梅院・養珠院住持職之事、哲首座・運首座無異儀候、仏法被相稼次第、速可申合候、将又、南陽院事者、各別之儀候間、右衛門佐ニ被仰合肝要候、恐々謹言、

正月十四日

氏政(花押)

黄梅院

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状」(早雲寺文書)

 黄梅院・養珠院の住持職のこと、哲首座・運首座は異議ありません。仏法の業績次第で、速やかに申し合わせて下さい。また、南陽院のことは、格別のことですから、右衛門佐に仰せ合わせられることが肝要です。

黄梅院住持職并寺領之事、奉任候、急度可有御入院候、仍状如件、

天正三年[乙亥]

七月十日

氏政(花押)

養珠院

  衣鉢禅師

→神奈川県史 資料編3「北条氏政判物」(早雲寺文書)

 黄梅院の住持職と寺の知行のこと、お任せいたします。取り急ぎ御入院なさって下さい。

(懸紙ウハ書)「(墨引)大藤式部少輔殿 奥州(墨引)」

注進状只今至午刻到来、披見候、仍興国寺表へ遣人衆、敵陣之於往復、敵数多打取、頸六到来、寔時分柄與云、感悦之至候、則小田原へ披露申候、定可被成御書候、猶以手前堅固之備、可走廻事肝要候、恐々謹言、

霜月廿八日

氏照(花押)

大藤式部少輔殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏照書状」(大藤文書)

1581(天正9)年に比定。

 注進状が現在午刻(12時)に到来し、拝見しました。興国寺方面へ派遣した部隊が、敵陣の往復において敵を多数討ち取り、首級6が到着した。時節柄といい、本当に感悦の至りです。すぐに小田原へ披露します。きっと感状をいただけるでしょう。さらに手元を堅固に備え、活躍することが肝要です。

昨日者入来、遥ゝ有之而遂会面、満足ニ候、殊昨夜草を被出、敵十余人被討捕族生捕、奥州へ被差越候、心地好仕合ニ候、今日小田原江罷帰之間、委細ニ可申上候、猶関山口上ニ申候、以上、

霜月廿八日

氏邦(花押)

(折紙ウハ書)「大藤式部丞殿参 安房守」

→神奈川県史 資料編3「北条氏邦書状」(大藤文書)

1581(天正9)年に比定。

 昨日はご来訪いただき、はるばるの面会を遂げられて満足です。特に昨夜、草を出されて、敵10余人を討ち取り・生け捕りになさって氏照へ送ったことは、心地よいことでした。今日は小田原へ帰りますので、詳細を申し上げましょう。さらに関山が口上で述べます。

壬生へ加勢衆

廿挺 鉄炮

卅人 弓鑓

 合五十人水海衆

右、佐竹向壬生・鹿沼、動火急ニ相催由、注進候、依之手先之衆先加勢遣候条、記右人数、能物主指添、自小山大石信濃寺注進次第、不移時日、小山へ被相移、小山衆同断ニ壬生へ移、走廻候様、可被申付旨、水海衆へ可被御届候、猶依注進、自分可令出馬間、無油断可有支度旨、能ゝ可有演説候、仍如件、

[虎朱印]七月十八日

陸奥守殿

→神奈川県史 資料編3「北条家朱印状写」(下総旧事三)

1584(天正12)年に比定。

 壬生へ加勢する部隊。鉄砲が20挺。弓と槍が30人。合わせて50人の水海衆。右は、佐竹氏が壬生・鹿沼に向けて火急の動きがあったとのこと報告ありました。これにより前線の衆がまず加勢として派遣されるということで、右記の人数に有能な物主(責任者)を添えて、小山の大石信濃守へ報告し次第、時を移さず小山へ移動。小山衆は同じく壬生へ移り、活躍するよう指示する旨を水海衆へお届けなさって下さい。さらに報告により、自らも出馬されるでしょうから、油断なく準備されるべき旨、よくよくご説明下さい。

於幸嶋、飯沼足軽取候模様、彼足軽疾召寄候得共、煩故不及尋、今朝召出尋候、横曽根之市江罷越者ニ候之間、敵地通達曲事之由存、取由申候、然者兼日自幸嶋下妻通用往覆可押段、我ゝ不申付処、如此致候条、細ゝ不及糾明儀、早ゝ可返旨、申付候、今朝爰元帰候、定而可引散由申候間、来晦日ニ切可渡由、申付候、渡手別紙ニ書立、根岸致判進候、其分御心得候而、可被仰付候、恐々謹言、

五月廿日

氏政(花押)

陸奥守殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状写」(下野古文書集)

 幸嶋で、飯沼の足軽を拘留しました状況で、その足軽を早く呼び寄せようとしましたが、病気だったので尋ねられませんでした。今朝召喚して尋ねました。横曽根の市へ行こうとしていたので、敵地を通るのは不届きなことと思い拘留したと申しています。ということで、かねて幸嶋から下妻の通行を規制するように私が指示していなかったところ、このようにしてしまいました。こまごまと糾明せず早々に帰すよう指示しています。今朝こちらは帰りました。きっと引き散らかるとを申していますから、今度の月末までと期限を切って渡すように指示しています。渡す者は別紙に書きました。根岸が判をして進めます。そのことをご承知おきいただき、ご指示下さい。

廿七日之状、廿八日辰刻披見、何も得心申候、東口之一ヶ条をハ奥州へ申候、堅固ニ可申付候、

一長浜之城之儀者、今朝も其方以書状、表へ申候、如何ニも尤與之儀候間、幸彼地大川其許ニ可為籠城候、様子申付可遣候、

一下田之城ニ梶原可有之所、寺曲輪ニ無之而者、舟之乗おり成間敷由申候、又清水上野ハ年来在地之意趣申候、菟角城主任存分外無之候間、梶原をハ東浦へ先廻、過半小田原之川へ引上而置、用所次第可乗出候、又三浦油つほニも可為掛候、如書面、西国海賊東へ廻候ハゝ、掛所自由ニ有間敷候間、指儀有間敷候、猶書中心得申候、恐々謹言、

二月廿八日

氏政(花押)

美濃守殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状写」(大川文書)

1590(天正18)年に比定。

 27日の書状、28日辰刻(10時)に拝見。どれも心得ました。東口の1箇条は氏照へ伝えて堅固に指示しました。
 一、長浜の城のことは、今朝もあなたの書状で前線に伝えました。「いかにももっとも」とのことなので、幸いあの地は大川とあなたが籠城をなすでしょう。状況の指示を遣わします。
 一、下田の城に梶原がいるべきところ、寺曲輪にいなくては、舟の乗り降りができないとのことを伝えました。また、清水康英は年来赴任しているとの趣旨を伝えました。とにかく城主の指揮に任せるほかはないので、梶原を東浦へまず回し、残りは小田原の川へ引き上げておき、用所次第で乗り出しましょう。また、三浦の油壺にも停泊して下さい。書面の通り、西国の海賊(水軍)が東へ廻船しますから、自由に停泊させてはなりません。さらに書中で心得を申しています。

廿日之状、今廿一辰刻到来、一 矢普請之儀者、先段氏直用所ニ而是へ被尋候時、諸人聞前にて、拙者申出候、氏直同意候キ、此度之矢普請者、御曲輪之内ニ候へ共、既大構出来よりして者、曲輪之内之者すましき與云儀、有間敷候、先氏政矢普請を一人可出與申定候、是を以すミ申候、目くらにても、舞ゝにても、猿楽にても、すへき迄ニ候、時による物にて候、況前ゝ之御印判少も入間敷候、此上者、別ニ云事有間敷候、いやなら者、当方を罷しさるへきにてすミ候、此分有御心得、其元可被仰付候、猶難渋之者をハ被搦、此方へ可有御越候、若搦儀いかゝと思召候者、押立可有御越候、如此申候上、我侭をいわせて可置なら者、清水代大屋善左衛門可切頸候、我ゝ如此之儀申述儀、不似合候へ共、陰遁も時分ニよる物にて候、御分別肝要候、恐々謹言、
 追而、此外之義をハ別通ニ申候、
正月廿一日
氏政(花押)
美濃守殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状」(堀江伴一郎氏所蔵文書)

1590(天正18)年に比定。

 20日の書状、現在21日の辰刻(10時)に到着。一、矢普請のことは、先に氏直の用所にてこれをお尋ねの際、諸人が聞く前で拙者が申し出て、氏直が同意しました。なので、この度の矢普請は曲輪内ではありますが、既に大構えが出来たことからといって、曲輪の内側はしないでおこうなどとは、あるまじきことです。先に氏政が矢普請を1人出すべきと申し定めました。これで済んだことです。盲人でも舞々でも猿楽でもいいので、すればよいことです。状況によるものです。言うまでもなく、前々の御印判は少しも要りません。この上は、別に言うこともありません。いやならば、当方を罷免すれば済むことです。このことを心得て、あなたのほうで指示なさって下さい。さらに、抵抗する者を捕縛してこちらへ送って下さい。もし捕縛がどうかと思われるなら、押し立ててお越し下さい。このように言った上でわがままを言わせておくならば、清水の代理である大屋善左衛門を斬首すべきでしょう。私がこのように申し述べることは越権ではありますが、隠居も時節によるものです。ご分別が肝要です。

(懸紙ウワ書)「(墨引)大藤与七殿 自小田原(墨引)」

於其元走廻儀ニ候間、先段如申付、濃州如下知、可抽粉骨候、城籠之時者、足軽衆も、毎度相当之普請、古今致来候間、同心被官共ニも能ゝ申付、自身鍬を取、侍・凡下共ニ可致之事、不及沙汰候、為心得申遣候、又菱喰遣候、謹言、

正月十四日

氏政(花押)

大藤与七殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状」(大藤文書)

1590(天正18)年に比定。

あなたが活躍していることなので、先に指示し氏規の下知にあるように、ぬきんでた努力をなすべきです。籠城時は足軽衆であってもいつもそれなりの普請をしたのは昔からのことですから、同心・被官たちにもよくよく指示して、自分でも鍬を取って侍・凡下ともに従事すること。わざわざ決めるまでもありません。心得として指示するものです。またヒシクイを送ります。