廿七日之状、廿八日辰刻披見、何も得心申候、東口之一ヶ条をハ奥州へ申候、堅固ニ可申付候、
一長浜之城之儀者、今朝も其方以書状、表へ申候、如何ニも尤與之儀候間、幸彼地大川其許ニ可為籠城候、様子申付可遣候、
一下田之城ニ梶原可有之所、寺曲輪ニ無之而者、舟之乗おり成間敷由申候、又清水上野ハ年来在地之意趣申候、菟角城主任存分外無之候間、梶原をハ東浦へ先廻、過半小田原之川へ引上而置、用所次第可乗出候、又三浦油つほニも可為掛候、如書面、西国海賊東へ廻候ハゝ、掛所自由ニ有間敷候間、指儀有間敷候、猶書中心得申候、恐々謹言、
二月廿八日
氏政(花押)
美濃守殿
→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状写」(大川文書)
1590(天正18)年に比定。
27日の書状、28日辰刻(10時)に拝見。どれも心得ました。東口の1箇条は氏照へ伝えて堅固に指示しました。
一、長浜の城のことは、今朝もあなたの書状で前線に伝えました。「いかにももっとも」とのことなので、幸いあの地は大川とあなたが籠城をなすでしょう。状況の指示を遣わします。
一、下田の城に梶原がいるべきところ、寺曲輪にいなくては、舟の乗り降りができないとのことを伝えました。また、清水康英は年来赴任しているとの趣旨を伝えました。とにかく城主の指揮に任せるほかはないので、梶原を東浦へまず回し、残りは小田原の川へ引き上げておき、用所次第で乗り出しましょう。また、三浦の油壺にも停泊して下さい。書面の通り、西国の海賊(水軍)が東へ廻船しますから、自由に停泊させてはなりません。さらに書中で心得を申しています。