[端裏書]「十一月晦日」
 内谷村長慶寺方酉年指出之事
五石弐斗八升 此内損毛壱石八斗一升五合 三郎兵衛分
六石三斗 同三石三斗四升五合 三郎衛門
六石五斗 同弐石一斗二升 千代大郎分
拾弐石六斗 同四石弐斗七合 海蔵寺二分
弐石八斗七升 同九斗八升五合 清衛門
 以上参拾三石五斗五升
  此内損毛
拾三石七升二合 当損毛、此外三石五斗をハ我々か引物水上御蔵へ参候分ニ被引候
五石五斗 諸引物
  引残而可■分
拾四石九斗七升八合
 此俵数
五拾九俵弐斗二升八合 公方升三斗六升俵勘定也、
天文十八[己酉]年十一月晦日

→戦国遺文 今川氏編919「長慶寺方年貢書出」(静岡市駿河区向敷地・徳願寺文書)

 内谷村長慶寺方酉年指出の事。5石2斗8升、このうち損毛1石8斗1升5合(三郎兵衛分)。6石3斗、同じく3石3斗4升5合(三郎衛門)。6石5斗、同じく2石1斗2升(千代大郎分)。12石6斗、同じく4石2斗7合(海蔵寺二分)。2石8斗7升、同じく9斗8升5合(清衛門)。以上33石5斗5升、このうち損毛13石7升2合(当年の損毛)。このほか3石5斗を我々の引物として水上御蔵へ行った際に差し引いています。5石5斗(諸引物)。引き残した分が14石9斗7升8合。この俵数は59俵2斗2升8合(公方升3斗6升で俵を換算)。

得願寺代々被拘置末寺・末庵之事
右、如前々当寺可為支配、若対当住於無沙汰之輩者、従本寺可被相計者也、
天文廿年九月廿三日
 治部大輔(花押)

得願寺 宗英和尚

→戦国遺文 今川氏編1037「今川義元判物」(静岡市駿河区向敷地・徳願寺文書)

 徳願寺が代々抱えておられる末寺・末庵のこと。右は、以前のように当寺が支配するように。もし当住持に対して無沙汰をする輩があれば、本寺より計らわれるように。

 義元袖判
たゝしうつたりちやうけいしかたむまのとしよりのそうふん、弐拾俵の事ハ、水のミの弥七郎に、わか身そんしやうの内ハ出し候、のちゝゝの事ハゐんはんのことく一ゑんにしよむあるへし、かしく、
[印文「帰」]天文十八年[つちのととり]十一月廿三日
 しゆけい
とくくわんしそうゑい長老

→戦国遺文 今川氏編918「寿桂尼朱印状写」(駿河志料巻七十五徳願寺文書)

 但し、内谷村長慶寺方は、午年よりの増分20俵のことは、水呑の弥七郎に、私が存命の間は渡しています。後々のことは印判のように一円に所務するように。

節々音問祝着候、如露先書候徳一色落居、元来堅固之地利ニ候之間、不及普請、本城三枝土佐守二三之曲輪、朝比奈駿河守・同名筑前守在城、去十五日清水之津江移陣築地利、岡部豊前守以下海賊衆差置、今日納馬候、佐久郡衆者其表之備ニ候之条、昨日帰国、先以可御心易候、抑八十日在滞、敵城五ケ所責落候之処、小田原衆一騎一人不萌、誠弱兵不可過狭量候、恐々謹言、
二月廿二日
 信玄(花押)
高山大和守殿

→戦国遺文 今川氏編2445「武田晴信書状」(群馬県・高山吉重氏所蔵文書)

永禄13年に比定。

 折々にご連絡をいただき祝着です。先の手紙でお書きしましたように、徳一色が陥落しました。元々堅固な地形だったので普請に及ばず、本城に三枝土佐守、2~3の曲輪に朝比奈駿河守・筑前守が在城しました。去る15日に清水の津へ陣を移して地利を築き、岡部豊前守以下の海賊衆に差し置き、今日馬を納めました。佐久郡の衆はその方面の防備をしていますから、昨日帰国しました。まずはご安心下さい。そもそも80日滞在し、敵の城5箇所を攻め落としたところ、小田原衆は1騎・1人も見えず、本当に弱兵で狭量であることはこれ以上ありません。

今度花澤有城中、正月四日ニ於小坂口討候間、御走回候、同十六日ニ於大手口鑓合、無比類御働候、氏真様於御本意者、御忠信之段急度御談合可申者也、仍如件、
午 二月五日
 大原肥前守 資良(花押影)
鱸木源六殿

→戦国遺文 今川氏編2441「大原資良判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎氏所蔵文書)

 この度花澤の城中にあり、1月4日に小坂口を討った際に、ご活躍しました。同月16日に大手口において槍を合わせ、比類なくお働きになりました。氏真様がご本意となりましたら、ご忠信の段は取り急ぎご報告するでしょう。

(今川義元花押)
[印文「帰」]するかのくにしたの郡うつたりの郷のうち、ちやうけいしかた[田はたけ 山屋しき]本そう共ニ一所之事
右、ほたいのために、新きしんとして、なかくまゐらせ候うへハ、ちきに取務あるへく候、かしく、
[印文「帰」]天文十八年[つちのとのとり]十一月廿三日
 しゆけい
とくくわんしそうゑい長老

→戦国遺文 今川氏編917「寿桂尼朱印状」(静岡市駿河区向敷地・徳願寺文書)

 駿河の国志田郡内谷郷のうち、長慶寺方の田畑・山・屋敷の本分・増分ともに一所のこと。右は、菩提のために新たな寄進として末永く進呈しまますので、直接管理していただきますように。

駿河国大平郷之内、善兵衛名弐拾壱貫文地之事
右、為慈雲心月毎日霊供分、任臨済寺殿寄進之旨、令領掌畢者、停止諸役等、令寄附之者也、仍如件、
天文十七[戊申]年八月十六日
 治部太輔(花押)
得願寺

→戦国遺文 今川氏編875「今川義元判物」(静岡市駿河区向敷地・徳願寺文書)

 駿河国大平郷のうち、善兵衛名21貫文の地のこと。右は、慈雲心月のため毎日供養する分として、臨済寺殿の寄進の旨に任せて掌握させるので、諸役等を免除して寄付する。

向後可抽忠信之旨申候之間、所望之地可被下置候、弥戦功肝要候之者也、仍如件、
永禄十三年[庚午]
 土屋右衛門尉奉之
■月三日 朱印
朝倉弥六郎殿

→戦国遺文 今川氏編2439「武田家朱印状写」(国立国文学研究資料館所蔵紀伊国和歌山本居家旧蔵紀伊続風土記編纂史料所収藩中古文書四)

 今後は忠信にぬきんでるようにとの旨、申していますので、所望の土地を下し置かれるでしょう。ますますの戦功が大切であることです。

今度籠城之内、其方ニ随遂之貴賤、此間不可有相違之条、弥加悃切可為同心之旨、被仰出者也、仍而如件、
永禄十三年正月五日
 土屋右衛門尉奉之
岡部次郎右衛門殿

→戦国遺文 今川氏編2437「武田家朱印状写」(国立国会図書館所蔵落合保執筆岸和田藩志稿)

 この度籠城したうちで、あなたに従ってこれを遂げ、貴賎のこの間で相違があってはなりませんので、いよいよ懇切にして同心を行なうようにする旨、仰せ出されているものです。

其方相抱なくるミの城へ、今度北条境目者共令手遣、物主討果、彼用害北条方江法之之旨候、此比氏政可致出仕由、最前依御請申、縦雖有表裏、其段不被相搆、先被差越御上使、沼田城被渡遣、其外知行以下被相究之処、右動無是非次第候、此上北条於出仕申も、彼なくるミへ取懸討果候者共於不令成敗者、北条赦免之儀、不可在之候、得其意、境目諸城共、来春迄人数入置、堅固可申付候、自然其面人数入候者、小笠原・河中嶋江も申遣候、注進候て召寄彼徒党等、可懸留置候、誠対天下、抜公事表裏仕、重ゝ不相届動於在之者、何之所成共、境目者共一騎懸ニ被仰付、自身被出御馬、悪逆人等可被為刎首儀、案之中被思召候間、心易可存知候、右之境目、又ハ家中者共ニ此書中相見、可成競候、北条一札之旨於相違者、其方儀、本知事不及申、新知等可被仰付候、委曲浅野弾正少弼・石田治部少輔可申候也、
十一月廿一日[秀吉朱印]
真田安房守とのへ

→小田原市史 中世I 732「豊臣秀吉朱印状」(長野市真田宝物館所蔵・真田文書)

天正17年に比定。

 あなたが保持する名胡桃の城へ、この度北条の境目の者が出てきて物主を討ち果たした。あの要害は北条方へ乗っ取られたということです。この頃に氏政が出仕するだろうとのことを以前から申し出ていたので、たとえ裏切りがあったとしてもそのことは構わないと、先にご上使を沼田城に派遣し、その他知行以下を細かく調べたところです。それが右の働きをして是非もない次第です。この上で北条が出仕しても、あの名胡桃を攻撃して討ち果たした者たちを成敗しないことには、北条を赦免することはありません。その意図を得て、境目の諸城へ来春まで部隊を入れて置き、堅固に申し付けるでしょう。万が一そちら方面に部隊を配置するなら、小笠原・川中島へも指示します。報告して、あなたの郎党を召し寄せて留め置いて下さい。本当に天下に対し、不正と裏切りをしでかし、重ね重ね不届きな働きがありました。ですから、どの場所であっても境目の者たちは一騎懸けを命じられ、自身お馬を出され、悪逆人らの首をはねようとのこと。案の中のお考えなので、ご安心下さい。右の境目、または家中の者たちにこの書面を見せて、競わせて下さい。北条が書面において違うなら、あなたのことは、本知行は言うに及ばず、新知行などもお出しになるでしょう。詳しくは浅野弾正少弼・石田治部少輔が申します。