[懸紙ウワ書]「真田安房守とのへ」
去廿四日書状、今日廿九披見候、箕輪城之儀、羽賀信濃守追出、保科居残、城相渡ニ付て、羽柴孫四郎同前ニ請取之由尤候、小田原之儀被取籠、干殺被仰付故、隣国城ゝ命之儀御侘言申上候、被成御助候、城ハ兵粮鉄炮玉薬其外武具、悉城ニ相付渡し候、家財ハ少ゝ城主ニも被下候間、成其意、箕輪之儀も、玉薬其外武具兵粮以下、少も不相違様ニ、入念可請取置候、次在ゝ所ゝ土民百姓共還住之儀、被仰出候、其許堅可申触候、東国習ニ、女童部をとらへ売買仕族候者、後日成共被聞召付次第、可被加御成敗候、若捕之置輩在之者、早ゝ本在所へ可返置候、万端不可有由断候、猶以此節之儀候条、辛労仕、弥可抽粉骨儀肝要候、委曲石田治部少輔可申候也、
卯月廿九日
 [秀吉朱印]
真田安房守とのへ

→小田原市史 資料編I 828「豊臣秀吉朱印状」(長野市真田宝物館所蔵真田文書)

天正18年に比定。

 去る24日の書状を今日29日に拝見しました。箕輪城のこと、垪和信濃守又八郎を追放して保科正直が居残って城を渡したことについて、前田利長が同前に受け取ったとのこと、もっともなことです。小田原は取りこめられて干殺しにすると仰せになった故に、隣国の城々の助命嘆願を申し上げました。お助けになられます。城にある兵糧・鉄砲・玉薬その他の武器、全てのその城に付けたまま渡します。家財は少しなら城主へも下されるので、その意図により、箕輪のことも、玉薬その他の武器・兵糧以下は、少しの相違もないように、念を入れて受け取りますように。次に、村々の百姓たちを原住所に戻すことを仰せ出しになっています。あなたは強く言って回るように。東国の習性として女性・子供を捕らえて売買する者がいたら、後日であっても聞き次第にご処罰が加えられるでしょう。もし捕らえ置かれている輩がいたら、早々に原住所へ帰しておくように。何についても油断があってはなりません。更に、この時のことですから、辛くてもますます粉骨にぬきんでることが大切です。詳細は石田治部少輔三成が申すでしょう。

其面之儀、利家相越、具申通、被聞召候、此中無由断由、尤被思召候、仍国ゝ地下人百姓等、小田原町中之外、悉還住事被仰付候条、可成其意候、然処人を商買仕候由候、言悟道断無是非次第候、云売者、云買者、共以罪科不軽候、所詮買置たる輩、早ゝ本在所へ可返付候、於自今以後、堅被停止之間、下ゝ厳重ニ可申付候也、
卯月廿七日
 [秀吉朱印]
羽柴越後宰相中将 とのへ

→小田原市史 資料編I 825「豊臣秀吉朱印状」(米沢市教育委員会所蔵上杉家文書)

天正18年に比定。

 その方面のこと、前田利家から報告があり、詳しい内容をお聞きになりました。この状況でも油断ないとのこと、ごもっともとの思し召しです。さて、国々の地下人・百姓らは、小田原町中以外へは、全て原住所に戻されるということですから、その意を成すようにして下さい。そうしたところ、人を売買したとのこと、言語道断で是非もない次第です。売った者といい、買った者といい、共に罪は軽くありません。結局のところ、買い置いている輩を、早々に本在所へ帰して下さい。これ以後は強く停止するので、下々へ厳重に指示するように。

急度令啓達候、抑拙者就下着仕候、以号玉龍坊衆験被申候、仍去春者為使罷上候処、種ゝ御指南、因茲始中終過分之条ゝ、余身候、一代之面目、更難尽筆紙存候、殊更当方へ御深重之御筋目、佐久間殿・二位法印以御両使具被仰出候、帰国則委細為申聞候、大小共ニ披喜悦之眉候、猶以直状被申候由、可得御意候、恐惶謹言、
四月六日
 笠原 越前守康明判
謹上 左近将監殿 人ゝ御中

→小田原市史 資料編I 480「笠原康明書状写」(水戸市彰考館所蔵古簡雑纂六)

天正8年に比定。

 取り急ぎ申し上げます。そもそも私が下着したことについて、玉龍坊という修験をもって申されました。さて、去る春に使者として上洛したところ、色々とご指導をいただき、これによって最初から最後まで過分に扱っていただき身に余ることでした。私一代の面目を施したことは筆舌に尽くし難く思っています。殊更にこちらへの深く重く筋目を果たしていただき、佐久間殿・武井夕庵の両使者が詳しく仰せ出されました。帰国してすぐに詳細を申し聞かせました。大小ともに喜悦の眉とされています。更に直接の書状で申し上げるだろうとのこと。御意を得られますように。

去秋不入斎為指上候以来様子、無心元候条、近日以客僧可申述旨候処ニ、不入所ヨリ去月十一日之書状昨十三到来、乍■■自其元京都江御使節指副、別而御馳走之義共申越候、殊年中可為御上洛候哉、弥当国之義、可然之様ニ御執成任入申候、会津間之義者、先立以墨付為申登候、条ゝ一点世間ニ不可有其隠候条、重而不及申述候、何辺憑入申候、会之義、自兼日執成之族可有之候間、不慮之表裏難計候、不可過御塩味、是次北条氏直江御入魂之上、沼田・我妻之地可被付置之由、風聞之処ニ、于今北条疑心之由其聞候、時宜如何、御床布候、書余期後音候、恐ゝ謹言、
極月十四日
 政宗(花押)
羽柴筑前守殿

→神奈川県史 資料編9419「伊達政宗書状」(島田耕作氏所蔵文書)

天正16年に比定。「難」は異体字〓[匚+口]

 去る秋に不入斎(遠藤基信か)を差し上らせて以来の状況ですが、不安に思っていますので、近日客僧を使って申し上げようと思っていたところに、不入斎より去る月11日の書状が昨日13日に到来しました。あなたから今日へご使節を指し添えて、特別に奔走いただくことを申し出ていただきました。特に、年内にご上洛するのでしょうか。当国のことはますます、しかるべきようにお取り成しをお願いします。会津の間のことは、まずはお墨付きをもらって上洛します。条々の1点は世間にその隠れがあってはなりませんので、重ねてご説明するには及びません。どうぞお願いします。会津のことは、兼ねてより取り成すといっている者がおりますので、思いがけない裏切りも計りがたいのです。ご考慮が過ぎるということはありません。これに次いで、北条氏直へご昵懇になった上、沼田・吾妻の地を与えられるだろうとのこと、風聞があるところに、今になって北条が疑心を抱いているということが聞こえてきました。どうなっていますか。気になっています。書き残したことは後の便を期します。

御出陣之由風聞、依之以使申達候、具御返答可為本望候、仍腹巻一領[惣毛紺]、甲一刎[同毛]、進之候、猶令附與月斎口上候、恐ゝ謹言、
正月十七日
 氏直(花押)
伊達殿

→神奈川県史 資料編9564「北条氏直書状」(伊達文書)

天正18年に比定。

 御出陣との風聞で、これによって使者を送って申し上げます。詳しくご返答いただければ本望です。さて腹巻1領(総毛紺)、兜1刎(同色)を進呈します。さらに付け加えて月斎(田村月斎か)が口上を申します。

「今川家年礼儀式 雪斎長老筆」
一、得願寺ハ、増善寺殿別而一句之因縁なきうへ惣次たるへけと、北川殿御信仰により御帰依の事あり、然ハ縁にて二度もくるしからす、御随意たるへし、

→戦国遺文 今川氏編990「今川家諸宗礼式写」(静岡市葵区大岩・臨済寺文書)

 一、徳願寺は、増善寺殿の特別な因縁がないので区別すべきではないが、北川殿がご信仰され帰依なさっていたことがあるので、そうであるなら縁があるので二度も苦しからざるものであり、ご随意に任せるように。

定 (今川氏輝花押)
一、遠州国源山昌桂寺、依為桂山菩提所、当知行新野池新田令寄進之事
一、自今以後於彼新田、惣百姓・代宮不可有綺事
一、地頭之百姓下人等、棟別・諸国役永為不入閣之事但他郷之家不可移作事
一、百姓等会下普請、毎事於致無沙汰輩者、可逐払事
一、於其城国方又者屓贔輩者、不可成其綺事
 右、於此旨違犯之族者、堅可加下知者也、仍如件、
享禄五年九月三日
昌桂寺

→戦国遺文 今川氏編487「今川氏輝判物」(正林寺文書)

 定め書き。一、遠江国源山昌桂寺は、桂山の菩提所としているので、当知行新野新田を寄進すること。一、これ以後はあの新田において、惣じて百姓・代官は不正をなさないようにすること。一、地頭の百姓・下人らは、棟別・諸国役を差し置くことなく末永く負担すること。但し、他郷の家に作事を移してはならない。一、百姓らの会下普請で、毎回無沙汰に及ぶ者がいれば追い払うべきこと。一、その城において、国方または贔屓を行なうならば、その不正は成してはならないこと。右の旨に違反する者は、厳重に処罰するものである。

雖以直書可申入候、両三度不預御返答候、不審之処ニ、書礼慮外之由、於其国御存分之由承及候、更一両年以来相違之儀無之候、但自然御存分有之者、可認置候、○[不可有略儀候、]諸事相紛処、不可過御計量旨被成取、進退之義、弥御馳走其方任置候、委細当口之模様大石可為口説候、恐々謹言、
[永禄十年ノ状也、]九月三日
 氏真
山吉孫次郎殿

→戦国遺文 今川氏編「今川氏真書状写」(歴代古案一)

 直接の書状で申し入れましたが、3度にわたって受け取れないとのご返答でした。不審に思っていたところ、書札礼に配慮がなかったとのこと。その国においてお考えのことを承りました。さらに、一両年以来相違がありませんでしたが、万一お考えがあるならば、認め置きましょう。(略儀があるべきではありません)諸事に紛れているところですが、ご検討が過ぎるということはない旨をお取り成しいただき、進退のことは、ますますの奔走をあなたにお任せします。詳細とこちら方面の状況は大石がご説明するでしょう。

親候義元以来之被任筋目、態御使僧、祝着候、殊ニ向後別而可被仰合由、勿論ニ候、猶朝比奈備中守・三浦次郎左衛門尉可申候、恐々謹言、
十二月廿一日
 源氏真
謹上 上杉殿

→戦国遺文 今川氏編2158「今川氏真書状写」(上杉家文書)

永禄10年に比定。

 親である義元以来の筋目によって、折り入ってご使僧をお送りいただき祝着です。特に、今後は格別に協議しようとのこと、言うまでもありません。更に朝比奈泰朝・三浦氏満が申すでしょう。

[印文「帰」]するかの国さわたのかうのうち、にしふん五とうせんゑもんあいかゝゆるてんはくやしきの事
右、きたかわ殿御とき、けんちあつて御さためのことく、百六十三くわん六百文ねんくいけさういなくなつしよせしめ、ひやくしやうしきとして、あいかゝへへし、もしよこあいよりかのかゝへのふんのそむやからありといふとも、さういあるましきものなり、仍如件、
享禄二[己丑]
十二月七日
五とうせんゑもんとの

→戦国遺文 今川氏編465「寿桂尼朱印状」(沼津市西沢田・後藤文書)

 駿河国沢田郷のうち、西分で五藤せん衛門が保持する天白屋敷のこと。右は、北川殿の頃に検地があってお定めになった通り、163貫600文の年貢以下相違なく納所させて、百姓職として保持するように。もし横合いよりその保持に背く輩がいたとしても、相違があってはならない。