今度籠城中、匂坂甚大夫・暮松三右衛門尉、従其地為飛脚節々往還、神妙被思召候、依之彼両人、於駿州三拾貫文并遠州相良之内三拾貫文所、被充行畢、致配当弥励戦功候、可被申付之由、被 仰出者也、仍如件、

天正九年[辛巳] 正月十七日[竜朱印]

 跡部尾張守 奉之

岡部丹後守殿

→戦国遺文 今川氏編2612「武田家朱印状」(土佐孕石文書)

定め書き。この度籠城中に匂坂甚大夫・暮松三右衛門尉がその地より折に触れて往復し、神妙であるとの思し召しです。これにより、あの両人に駿河国で30貫文と遠江国相良の内で30貫文の知行を与えられました。配当してますます戦功を挙げるよう申し付けよとのこと、仰せになっています。

一 遠州 青柳三ケ郷 千百七拾三貫七百文

一 同所陣夫 拾三人

一 同州勝間田之内 大沼之郷 百弐拾壱貫文

一 同所陣夫 壱人

一 同州勝間田之内 布施方 廿四貫五百文

一 同所陣夫 壱人

一 同州勝間田之内 三栗之郷 拾壱貫五百文

一 桐山之郷 百貫文

一 同所陣夫 弐人

一 同所定夫 壱人

一 方治 弐拾貫文

 已上、

自今已後、別而抽忠節、可励戦功之旨候候各、右如此出置候、畢竟不慕先方、逐日忠臣可為簡要者也、仍如件、

天正五年[丁丑]二月九日

 勝頼

岡部丹後守殿

→戦国遺文 今川氏編2590「武田勝頼判物写」(国立公文書館所蔵土佐国蠧簡集残編四)

定め書き。<計数略>これ以後格別に忠節にぬきんでて、戦功に励むべく、右のようにそれぞれを拠出します。最終的に先方(氏真)を慕わず、日を追って忠臣となるのが肝要であろう。

[今川氏真花押]

今度忍而令渡海之処ニ、自相州慕跡来之条、太忠信之到也、一乱以来、無相違令奉公上者、於本意之時者可及忠賞候、守此旨弥奉公可為肝要者也、此旨仍如件、

三月十五日

朝比奈弥太郎殿

→戦国遺文 今川氏編2585「今川氏真判物」(神奈川県川崎市・鎌田武男氏所蔵文書)

天正4~5年に比定。

この度耐え忍んで渡海したところ、相模国より跡を慕って来ましたので、はなはだ忠信の至りである。一乱以来相違なく奉公した上は、本意の時が来たら忠義を賞しましょう。このことを守り、ますます奉公することが肝要であろう。

万々渡海之儀辛労ニ候、然者家康申給候筋目於相調者、一段可為忠節候歟、甚内方へ能々可申計候也、仍如件、

九月十一日

 宗誾(花押)

朝比奈弥太郎殿

→戦国遺文 今川氏編2584「今川氏真判物」(神奈川県川崎市・鎌田武男氏所蔵文書)

天正4年に比定。

渡海のことは色々と大変でした。ということで、家康から申し出ていただいた筋目を調整してもらえれば、一段の忠節ではないでしょうか。甚内方へよくよく言っていただくばかりです。

「上杉殿[切封墨引]勝頼」

新館之普請、令出来之旨、被聞召及、為祝詞、三種并柳五十贈給候、誠御入魂之至、不知所謝候、内々近日可移居心底二候之処、氏政家僕松田尾張守次男笠原新六郎、豆州戸倉之在城、不慮二属当方幕下候之条、為彼国仕置、令出馬候故、遅引候、如何様帰陣之節、以使者可申達候、恐々謹言、

十一月十日

 勝頼(花押)

上杉殿

→戦国遺文 武田氏編3622「武田勝頼書状」(米沢市上杉博物館所蔵・上杉家文書)

 新しい館の普請が出来上がった旨をお聞きになり、お祝いの言葉と三種と柳酒50をお送りいただきました。本当にご親切の至りで、感謝の言葉もありません。内々で近日転居しようという心積もりでしたが、北条氏政の家臣松田尾張守次男の笠原新六郎が、伊豆国戸倉の在城ですが、思いがけず当方に従属しましたので、あの国の対処のため出馬することとなり、延期しました。状況は帰陣の際に使者をもって申し上げるでしょう。

廿七日之書状遂披見、得■意候、一、如顕先書候、今度松田新六郎忠節無比類候、併其肝煎故候、一、戸倉へ之加勢以出合被相移之由尤候、弥人数無不足指籠、堅固之仕置専一候、一、松新家中長敷者之人質、早速加催促、可被請取儀肝要候、一、近郷之地下人、太略召連、妻子戸倉へ相移候之由可然候、一、自泉頭出足軽候之処、為始安井次太夫、戸倉衆出合、城内へ追入、近辺之郷村放火之由心地好候、一、松新人数并地下人等戸倉ニ有留候輩、又敵地へ退候者共、慥被聞届注進尤候、一、獅子浜之儀自落候否聞届度候、一、為始梅雪斎、信・上之諸卒、今朝指立候キ、至着城者、毎事可有相談候、勝頼も不日二可出馬候、猶敵説被聞届、節々注進尤候、恐々謹言、

十月廿九日

 勝頼(「勝頼」朱印)

曽禰河内守殿

→戦国遺文 武田氏編3619「武田勝頼書状」(山梨市・平山家文書)

天正9年に比定。

 27日の書状を拝見、その意を得ました。一、先の書状で書いたように、この度の松田新六郎の忠節は比類がありません。そしてその援護として、一、戸倉への加勢は出撃に合わせて移られるとのこと、もっともです。ますます兵員に不足なく籠らせ、堅固な措置が専ら重要です。一、松田新六郎の家中で主だった者の人質は早く催促して受け取られることが大切です。一、近郷の民間人は大半を招集し、妻子は戸倉へ移らせるとのこと、そのようにして下さい。一、泉頭より足軽を出したところ、安井次太夫を初めとして戸倉衆が出撃、(それを)城内へ追い込み近辺の郷村を放火したとのこと、心地よいことです。一、松田新六郎の部隊と民間人で戸倉へ留める者たち、また敵地へ退く者たちは、確実に調査して報告するのがもっともです。一、獅子浜のこと、自落したかどうか報告して下さい。一、梅雪斎を初めとして、信濃国・上野国の諸勢が今朝出立しました。城に到着したら、色々と相談して下さい。勝頼も日をおかず出馬するでしょう。さらに敵の情報を調査して、折々に報告するのがもっともです。

天正八年庚戌

 七月三日

  笠原

   政晴(花押)

→小田原北条史文書補遺26「笠原政晴署判写」(古文書花押写六)※「笠原政晴贈在庁知行書附」「豆州君沢郡安久村土民所蔵」と注記あり。

今度関白殿へ出頭之儀、遠慮之旨雖有之、媒介之各手堅筋目被申候条、令同意候、今夕使衆重而申談、切組等委細明日中可相定候条、其砌始中終遂内談、可落着候、殊本国之儀妄ニ雖成来候、既出仕之上者、先規不可有異儀由候、依之先内ゝ申断候、恐ゝ謹言、

七月朔日

 氏直(花押)

小幡兵衛尉殿

→小田原市史 小田原北条2 2076「北条氏直書状」(小田原市 春日正淳氏所蔵小幡文書)

天正18年に比定。

 この度関白殿へ投降すること、色々考えるところはありましたが、間に立つそれぞれの手の者が手堅く筋目を申されているので、同意いたしました。この夕刻に使者が重ねて言うには、手順など詳細は明日中に定まるのとことですから、その時に始めから最後まで内談を遂げられて落着するでしょう。特に本国のことは分別なく決められたとはいえ、既に出仕の上は、先の決まりに異議はないだろうとのこと。これによってまず内々にお伝えします。

今度西国衆就出張、早速参陣、殊無二可走廻由、肝要候、本意ニ付而者、於駿甲両国之間、知行可任望候、弥抽忠信尤候、仍如件、

天正十八年[庚寅] 六月廿日

 氏直(花押)

木呂子下野守殿

→小田原市史 小田原北条2 2075「北条氏直判物」(東京都清瀬市 木呂子和宏氏所蔵)同文の岩田河内守宛文書写が小田原編年録にあり。

 この度西国衆が侵攻したことで、早速参陣し、特に無二の活躍をするだろうとのこと、大切です。本意となった際は、駿河国・甲斐国のどちらかで知行は望みの通りとなるでしょう。ますます忠信にぬきんでますように。

 覚

一、扱之様子之事、

一、扱之取沙汰ニ付而、諸役所油断之由候、改而堅固之仕置肝要候、

 以上

六月十二日

[貼紙]「調」朱印

小幡兵衛尉殿

→小田原市史 小田原北条2 2073「北条氏直覚書写」(東京都目黒区尊経閣所蔵小幡文書)

天正18年に比定。

 覚書。一、和睦交渉の状況のこと。一、和睦の噂について諸部隊が油断しているとのこと。改めて堅固な指示を出すのが大切なこと。以上。