「今川家年礼儀式 雪斎長老筆」
一、得願寺ハ、増善寺殿別而一句之因縁なきうへ惣次たるへけと、北川殿御信仰により御帰依の事あり、然ハ縁にて二度もくるしからす、御随意たるへし、

→戦国遺文 今川氏編990「今川家諸宗礼式写」(静岡市葵区大岩・臨済寺文書)

 一、徳願寺は、増善寺殿の特別な因縁がないので区別すべきではないが、北川殿がご信仰され帰依なさっていたことがあるので、そうであるなら縁があるので二度も苦しからざるものであり、ご随意に任せるように。

 覚
一、従京都御当方年内可為御上洛旨、御使始終之様子、雖無御得心候、此度条ゝ御使者江御返答之間、依彼御挨拶、御隠居来冬中必可為御発足事、
一、自諸手御上洛之出勢并出銭、又御国之御仕置、諸色兼日可被成置意趣条ゝ之事、
 已上
六月廿二日
 松左(花押)
 同尾(花押)
万喜 参

→小田原市史 中世I 724「松田直秀・同憲秀連署覚書写」(安得虎子十)

天正17年に比定。

 覚書。一、京都よりご当方に年内上洛するようにとの趣旨、ご使者の全体の状況はお心得がないとはいえ、この度の条項はご使者へご返答なさいましたので、その挨拶に行くためご隠居が来る冬中に必ずご出発されること。一、諸手よりのご上洛用人員・銭、またお国のご処置、諸々の事柄は兼ねて決めておいた趣旨で取り扱うようにとのこと。

 覚

一、扱之様子之事、

一、扱之取沙汰ニ付而、諸役所油断之由候、改而堅固之仕置肝要候、

 以上

六月十二日

[貼紙]「調」朱印

小幡兵衛尉殿

→小田原市史 小田原北条2 2073「北条氏直覚書写」(東京都目黒区尊経閣所蔵小幡文書)

天正18年に比定。

 覚書。一、和睦交渉の状況のこと。一、和睦の噂について諸部隊が油断しているとのこと。改めて堅固な指示を出すのが大切なこと。以上。

 覚

一人衆改之事、

一猶普請等之事、

  [付、人衆引分而も、自由ニ為可召仕候、]

一向西上州、越衆可為出張由、安房守注進候事、

  [付、口上、]

  以上

三月十一日

「貼紙(「調」朱印)」

小幡兵衛尉殿

→小田原市史2043「北条氏直覚書写」(東京都目黒区 尊経閣所蔵小幡文書)

天正18年に比定。

 覚え書き。一、部隊の人員を検査すること。一、さらに普請などのこと(部隊を分割することも自由に行なうべきでしょう)。一、西上野国に向かって越後衆が出撃してきたと、安房守が報告してきましたこと。その他は口上にて。以上。

「[懸紙ウワ書]小幡兵衛尉殿」

  覚

一西国衆至于沼津近辺打着由候事、

一其山手備模様之事、

一在陣之人衆之着到書立、可被指越事、

  以上

二月廿四日

「[貼紙][「調」朱印]」

小幡兵衛尉殿

→小田原市史2031「北条氏直覚書写」(東京都目黒区尊経閣所蔵小幡文書)

覚え書き。一、西国衆が沼津近辺に到着したこと。一、その山手の防衛の様子のこと。一、在陣の部隊の到着者一覧をお送りいただくこと。以上。


一幻庵息新三郎陣所、かんはら、冨士川取越被申事、[付、大石源三、屋形様江被及直札候事、]
一氏政、小田原打立十二日、
一駿河懸合者十三日、甲衆うきつにて四百四人討捕候、
一陣所、駿河のぬまと、
一甲之陣所、駿河之苻内、かつら山替候間、如此候、
一駿河之氏真、あへ山かへつほミ被申候、人数之儀、一騎一人無患候、
一新太郎、当月廿三日ニ駿河江罷立被申候、
一かつら山要害こうこく寺と申地利、自此方則候事、
以上
 由良 成重
十二月廿八日
松石 参

→小田原市史 資料編 原始 古代 中世Ⅰ 「由良成繁覚書写」(上杉家文書)

1568(永禄11)年に比定。

 覚書。一、北条幻庵の息子新三郎の陣所は蒲原で富士川を越えたと言われています(大石源三(氏照)が屋形様へ直接書状を出されたそうです)。一、北条氏政が小田原を12日に打ち立ちました。一、駿河国での交戦は13日。武田方を興津で404人討ち取りました。一、駿河国の今川氏真は安倍の山小屋へ撤退したとのこと。部隊は1騎1名も損害はありません。一、新太郎(氏邦)は今月23日に駿河国へ出発すると連絡がありました。一、葛山の要害で興国寺という場所をこちらから乗っ取りました。