其以来依無的便、絶音問候事、本意之外候、抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之其上従氏真被執一筆被退之間、寔武功之至無比類候、二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処、無恙帰府、結局被挙名誉候間、信玄喜悦不過之候、次対氏真別而可入魂之心底ニ候、不被信侫人之讒言様、馳走可為本望候、猶期来音候、恐々謹言
六月十三日
信玄
岡部五郎兵衛尉殿
→戦国遺文 武田氏編「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書)
あれ以来適した伝手もなくご連絡が絶えておりましたこと、本意ではありませんでした。そもそも、この度の不慮の合戦では、利を失ってあらかた敗北してしまいました。その上、大高と沓掛は自ら開城してしまったところ、あなたはしばらく鳴海の地に踏みとどまり、その上氏真からの一筆にのっとって退きましたので、本当に武功として比類がありません。2~3年こちらに在国だったこともあり、今回は一段と心もとなく思っていましたところ、つつがなく駿府に戻り、結局名誉を挙げたことは、信玄としてもこの上なく嬉しいことです。次いで、氏真に対しては誠実な心情を持っています。心の曲がった人の讒言を信じないようにしていただけるよう、奔走されることが本望です。更に次の連絡を期しております。
別記事コメントを受けて訳文を大幅に修正。最初の訳を以下に残しておく。
不本意ですがついついご無沙汰していました。そもそも、この度の不慮の合戦では、利を失って戦略上敗北してしまいました。その上、大高と沓掛は自ら開城してしまったところ、あなたの守っていた鳴海は暫く踏みとどまり、氏真が開城を命令するまで退きませんでした。本当に武功として比類がありません。2~3年私の国にいらっしゃったご縁もあり、今回は一段と心もとなく思っていました。つつがなく駿府に戻った上、名誉を得たことは、信玄(晴信)としてもこの上なく嬉しいことです。
氏真に対しては誠実な心情を持っています。心の曲がった人の讒言を信じないようにしてください。私は皆さんのために働くことが本望です。また交流があることを期待しています。
繰り返しますが、「二三ヶ年当方在国之条…」は、「ここ二・三年は私(信玄)は甲州におりましたので、今度のことはさっぱり事情が知れずもどかしくしていたのですが、…」と考えます。
なぜなら、それまでは信玄と義元は共同して北条氏に対抗してきており、互いに兵を出し合って助け合っていた経緯があるからです。それが、三国同盟が成ったからか互いに棲み分けて、個別の敵(武田は信濃、今川は西三河)に専念するようになっていましたから、信玄は尾三国境のことについては詳しくは知らされていなかったと考えるからです。
元信が武田家に出仕していたことや、義元に命じられて甲府に駐在したことなどは、本当にあるのでしょうか。
天文十七年に小豆坂で遭遇戦が起こり、今川勢は庵原らが討ち取られて敗勢になったのですが、岡部元信が横槍を入れ、後殿となって駿河へ退却したといいます。その後の元信は、笠寺から鳴海の城番を務めているので、元信が信玄の許にいたとしたならば、天文十七年以前になるものと思われます。
そこで、小豆坂合戦時の元信が廿歳前後であったと想定しますと、元信は嫡男であるにも関わらず、元服して直ぐに今川家にではなく信玄に仕えさせられたことになります。これは納得し難いことです。
逆に、元信の年齢がそれ以上であったならば、その後の元信の経歴からすると、元信には武田家においても功名の一つぐらいはあってもよさそうなものですが、そのような話はないようです。
そのような武功もなく、信玄の覚え目出度いとゆうのであれば、男色しかないのでしょうが、義元と元信との間にもそのような話はなさそうです。
また、桶狭間合戦での元信は、五月中には駿府に帰還していただろうと思われるのに、永禄三年の氏真判物によると、感状をもらうのは六月八日なのです。つまり、氏真と元信の間は何か行き違いがあって、直ぐには武功も評価されなかったのです。だから、元信は信玄の許に身を寄せようとして手紙を出したのかもしれません。
そう考えれば、「当方」は信玄であってもおかしくないと思います。その証拠に、書簡中には「結局」という言葉を使っているからです。なぜ、結局なのでしょうか?「色々あったらしいけれども、結局良い結果に収まったのは喜ばしいことです」と言っているのではないのでしょうか?
そうでなければ、「其方暫鳴海之地被踏之…寔武功之至無比類候、…無恙帰府、結局被挙名誉候間」という文章は構造としておかしく、「寔武功之至無比類候」を最後にもってくるのが普通の書き方ではないのでしょうか。
「次対氏真…」についてですが、「また、おもふに、氏真は元信さん貴方をぞっこん頼りにしていますよ。佞人の讒言を信じたりしないで、貴方(元信)が鋭意奉公されることを氏真殿は予てからきっと望んでおられることでしょう。」と考えます。
そこで、天文廿一年八月廿五日付け義元感状なのですが、これはその発行が遅れたことに岡部元信が抗議したことによって、発行されたと考えるべきでなのはなく、一種の逆感状ともいうべきであって、敵(織田)方が元信を褒めそやしたものだから、その武功が明らかになって、義元が感状を出したというものだと思います。
「因茲敵令褒美」を「このことで敵に褒美をしてしまったという文意が把握出来ないが、何らかの事情があったのだろう」とされていることですが、これは義元が感状を発行するに至った原因を述べたもので、「茲に因りて、敵をして褒美せしめれば」とは、「大活躍した元信の出で立ちが一際目立ち、敵から褒めそやされたから、」ということであり、だから今後は今川家中では同様の出で立ちをしてはいけないと続くわけです。つまり、永久欠番の背番号にして栄誉を称えたということでしょう。
ですから、最後に「違反する輩が現れたならば、大名である自分が、元信と同じ軍装を止めるように”直接”その者に申しつけるであろう」と結んで、最高の栄誉を贈ったのだと思います。
従って、もしこの今川家の感状発行にシステムとして問題があるとしたならば、それは義元が戦場に出ていないことが第一であり、第二は当時節刀を受けて出陣したはずの雪斎和尚の統率力は喧伝される程のものではなっかったということになるのだと思います。というのは、家中では互いに嫉みあい、軍目付が機能しておらず、勝敗を左右した軍功を見落としたからです。
というわけで、氏真が刈谷城の武功を失念したのでも、岡部五郎左衛門がそれに対して抗議したのでもないことが明らかになったと思います。
氏真と元信の行き違いに決着がつけられて元の鞘に戻るのは、九月一日付けの「殊契約為明鏡之間、向後於及異義者、如一札之文言、元信可任進退之意之状如件」という判物がでるまで待たねばならなかったようです。
コメントありがとうございます。委細拝見しました。論点をまとめつつご回答いたします。
■「二三ヶ年当方在国之条」の件
河東一乱時の武田氏は駿東郡に南下したのみで、三河には行っていません。後方撹乱を狙った北条氏綱のほうが三河国人に書状を出しています。三河に近づいていたのは天文終わり頃で、信濃の伊那郡を分国に加え、東美濃遠山氏も攻囲しています。この際に武田晴信は犬居天野氏に色々と書状を出していますから、情報を知りたいのであれば天野氏から聞いてもいいようです。また、信濃に出陣しているよりも甲府にいたほうが、駿河からの情報は早く到達すると思われます。なおかつ2~3年という期間を記述する意味合いも不明です。
■岡部元信の甲府滞在の件
岡部元信と武田晴信の接点は不明ですが、武田晴信宛今川義元書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1229612674)にて使者に岡部美濃守が見られます。史料上の限界で直接の典拠ではありませんが、関係は窺えます。また、元信が「近年中絶之刻」「彼本知行有子細、数年雖令没収」という状態にあったのは、武田氏のもとに滞在していたからだと考えると諸々腑に落ちると考えています。トラブルやヘッドハンティングによって他の大名に移籍する給人は結構見られますから、元信が武田家に身を寄せるのはさほど不自然ではないように思います。当該期間の文書が残されていない点を疑問に思われていましたが、岡部家の文書はある期間だけいきなり空白になる傾向がありますので武田家滞在の反証には援用できないと思われます。
武田家に行っていた時期ですが、おおまかには特定できています。氏真判物では通常、義元判形を「天沢寺殿判形」「先判形」と表現しています。ところが6月8日・9月1日各判物ではその用語を使っていないことから、氏真自身が元信の知行を没収する判物出したのではないかと思われます。となると、氏真への代替わりは1556(弘治2)年~1558(永禄元)年の間と仮定されるので、その期間に今川家を去ったのではないかと推測できます。
■6月8日判物発行の件
5月19日の合戦で6月8日に判物が出るのはかなりの早さです。同じ合戦でも、平野鍋松(7月末日)/岡部元信(9月1日)/菅沼久助(10月7日)/松井八郎(12月2日)/尾上彦太郎弟(翌年2月28日)となっており、各人の状況によって判物発行は時期が異なるようです。上記を考えると6月8日の判物が、注文・軍忠状どころか感状もスキップして一気に宛行まで行なっているのは異常だと思います。この故に私は誤報としての刈谷攻落が記入されたのではないかと論じています。
■「結局」の言い回しの件
すみません。これはご意図が把握し切れませんでした。「寔武功之至無比類候」はその前の軍功を受けてのもので、ここで文章は一旦終わっています。この後はもっと親しみのある文面になりますので、私の解釈でも問題はないのではないでしょうか。改めてご教示いただければと思います。
■「次対氏真」の訳文の件
「次対氏真」が「また、おもうに氏真は」とはならないと思うのですが……。「対」=「思う」ということでしょうか。
■元信の小豆坂感状の件
改めてご説明しますが、元信が感状発行の遅滞に抗議したのではなく、元信の抗議によって感状発行が遅れたのだと考えています。他の感状は順調に発行されているのに、元信のものだけが大幅に遅れている訳ですから何かの要因があったのだと考え、感状の文面からその理由を探りました。「筋馬鎧并猪立物」という軍装が原因で「敵令褒美」となり、その結果今川分国では「筋馬鎧并猪立物」を禁止するとあります。分国中で禁止しているということは、今川方の武士が元信と同じ軍装をして何らかのトラブルとなり、結果元信への感状発行が遅れたと考えるべきでしょう。
該当記述を義元が自発的に記入したのか、元信の要請で書き加えたかの判断は、何故か書かれていない元信への例外処置が鍵になると考えました。
分国内で禁止となるならば元信にも当てはまる筈ですが、この解釈には違和感があります。「筋馬鎧并猪立物」は元信の軍装として感状にありますから、元信に独占させるためにこの感状に禁止だと書き出したのだでしょう。であるならば、「該当する軍装は元信だけが許されたものである」という文言が本来は必須です。多数の文書を日々発行している義元側がこのことに気づかないのはおかしいので、この文言追加には消極的だったと推測しました。
「因茲敵令褒美」の訳文ですが、「ここにより元信は敵をして褒美せしめ」ならば「因茲元信令敵褒美」となります。この記述は現状解釈不能ですが、普通に「ここにより敵が褒美せしめ」と読んでおくほうが自然かと思っています。
■今川家感状発行の件
ご指摘の今川義元出馬についてですが、まだ検証ができていません。合戦当日と感状の時差によって他家との比較をしつつ検討していこうと考えています。ちなみに、現地で太原崇孚が指揮をとったのは、田原攻城と安城攻城の2例のみです。小豆坂合戦に参加したかは確認できていません。
■氏真・元信の行き違いの件
「氏真と元信の行き違いに決着がつけられて元の鞘に戻る」とのご指摘ですが、どのような行き違いがあって、両者がどのように行動したか、またその典拠がよく理解できませんでした。お手数ですが詳細を改めてお教えいただければと思います。
「二三ヶ年当方在国之条」
先に、信玄は信濃経営に専心できるようになったと記した通りです。
武田家が三河に派兵したなどとは言っておりません。信玄と義元は互いに協力して北条氏に対抗していたものと思います。
「岡部元信の甲府滞在?」
使者・岡部美濃守(左京進信綱?親綱?久綱?)が元信の父であった場合、今川氏親に仕えて勘気をこうむり蟄居し、出家して常慶と号したというようです。(確実なところは知りません。)
しかし、高村さんが紹介された永禄三年九月朔付け氏真判物をみると、「父玄忠隠居分…然者玄忠一世之後者、元信可為計、若弟共彼隠居分付嘱之由…」とあって名が違うことが疑問です。
また、通説では次郎右衛門正綱は兄であるといわれますが、家督は元信が継いだようですからこれも矛盾します。
とにかく、岡部姓の人はたくさんいる上、同姓同名の人も多いらしく特定することは難しそうです。
高村さんは、「氏真への代替わりは弘治2年~永禄元年の間と推定されるので、その期間に今川家を去ったのではないか」と言われるわけですが、『信長公記』には「笠寺に取手要害を構へ、…岡部五郎兵衛…五人在城なり」とした後、永禄元年三月三日の笠寺城中に宛てた義元書状には元信の名前が見えないところから、一般には弘治二年から永禄二年の間に左馬助を誅殺した後の鳴海城番に転出させたものと看做すわけですが、この間に元信が武田家に仕官していて、また再び桶狭間合戦の直前に帰ってきたというわけですか?
「氏真と元信の行き違い」
高村さんは、「6月8日の判物が、注文・軍忠状どころか感状もスキップして一気に宛行まで行なっているのは異常だから、刈谷攻落が誤って記入された」と云われます。
しかし、問題は『信長公記』に「十人の僧衆を御仕立にて、義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ候なり」とあることです。
そこで、十人の僧を伴って義元の首を捧げた同朋衆と元信が一緒か相前後してかは分かりませんが、とにかく駿府に帰還した場合に生じます。
氏真は、同朋衆を褒めることはできませんが、元信のことはその場で褒めるべきであったはずです。…通常ならば。
ところが、後世には元信が首を返せと信長に掛け合ったなどと伝えられることもあり、元信の功績が実際のところどこまで及ぶのかも紛糾したでしょうし、それ以上に問題なのは、元信が氏真の一札をもって退去した以外は刈谷城攻めなども現認者がいないわけですから、この一札によって退去したこと、それだけが比類なき名誉になるわけです。
すると、それ以外の許可なく撤退してきた歴々は、暗に氏真に批判されることになりますから、面白かろうはずがありません。
そこへきて、元信は「有子細、数年雖令没収」などもあったわけです。
それだけでなく、還付されたことは良いにしても、その権利には判物があって直ぐに自分のものにはできなかったわけです。
無比の武功をあげて奉公したのに何だというわけです。
しかし、氏真も辛いところです。元信を賞したいのは当然ですが、その他の重臣たちを責めるわけにも、嫌な思いをさせるわけにもいかないからです。
だから、元信からすれば優柔不断な氏真を見限って、この際思い切って武田信玄のところに士官しようかと考えて、便りをすることも有りかなと思うわけです。そして、信玄書状はそうした元信をやさしくたしなめていると理解するわけです。
「結局」
高村さんは「結局」を「そのうえ」と別の詞と置き換えておられますが、それなら原文ではなぜ「その上」とか「剩」とせずに、「結局」とするのでしょうか。
結局という詞は、前文を受けて「やっぱりそう(後文)なった」とか「だけれどもそう(後文)はならなかった」となるのだと思います。
ですから、結局を無理に訳そうとして、「つつがなく駿府に戻られて、最終的には名誉を得られたことは、晴信としてもこの上なく嬉しいことです」としたのではおかしくありませんか。最終的も何も元信は光明のオンパレードだった事を、その前段で縷々並べているのですから敢えて「結局」などと言うはずがないのではないのでしょうか。
ですから、喜ぶべき終句の前に「結局」を用いるには、喜ぶべからざる状況が前段になければならないわけです。
そういう分けで、「結局」を活かした文章にしたいのならば、一番先にもってきて、「結局無恙帰府、被挙名誉候間、信玄喜悦不過之候」とすれば、前段の「今度一段無心元之処」を受けて、かつそれを打ち消すことになりますから、一先ずは無難な文章になると思うわけです。
「次対氏真」
〔名義抄〕の古訓をみると、「次対」は「ナホ・オモフ」または「ツギ・オモフ」と読めると思います。
そうでなければ、元信との個人的な文面に、なぜ晴信は唐突に氏真への心情を持ち出すのでしょうか。晴信が氏真をどう思おうが、元信が讒言に遭おうとも(氏真の為に?)奔走する事とは何の関係もないはずです。
それとも、晴信は氏真を好きだから、貴方(元信)も氏真のために働いてくださいとでもいうのでしょうか。そうではないでしょう。「氏真は貴方にぞっこんなのだから、貴方も周囲の雑言を気にしないで、奉公してくださるようにときっと願っていますよ」と言っているのだと思うわけです。
諸々のご指摘ありがとうございます。再び取りまとめつつお返事します。
ただ、その前に当サイトの「サイト説明」にてコメント回答のガイドラインを新たにご提示いたしました。コメントの制限を行なうのではありませんが、できるだけ良質の史料に沿うべく近世軍記を除いての論駁が行なえればと考えております。
■岡部元信宛武田晴信書状の件
ご説明のように晴信が信濃国に2~3年の長期滞在したのであれば、書状の書き出しは長坂虎房書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1204297243)の「如御札先年駿府参会令申候、其以後信国就在郡程遠故、無音罷過非本意候」となったり、朝比奈親徳書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1191755146)の「拙夫于今三州在陣之儀候条」のような文言となるでしょう。国の指定なく「在国」とする場合は、牧野康成書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1226327941)のように、国外の人間が国内に滞在した場合に使うようです。
また、コメントの後段で「元信書状への返答」という可能性をご示唆していますが、当該書状は冒頭より無沙汰を謝しております。通例、返書である旨は文頭に示されますので、これは晴信が自発的に発行したものでしょう。
「結局」に関しては、事実上「結句」であると思います(私が収集した文書で「結局」を用いているのはこの文書だけなので、「結句」の誤記かとも思えます)。結句は逆説を示すものではありません。『古文書古記録語辞典』によれば、結句は「1 詩歌の結びの句。2 物の終わり。3 とどのつまり、あげくのはて。4 却って、むしろ。」という意味です。私は現在「その上」としていますが、「むしろ」のほうが合っているかも知れません。武功を述べた後に、「2~3年在国していた(縁もある)ので」と前置きしてから「今回は特に心配していた」と心情を述べ、その心配が杞憂に終わり「無事に駿府へ戻った」と続けます。手ぶらでの帰還よりも武功を挙げての帰還のほうが喜ばしいという前提が行間にこめられつつ、「むしろ名を挙げられて、信玄もとても嬉しい」と読み解けます。
「次対氏真」に関して『類聚名義抄』を引かれておられるようですが、戦国時代の変体漢文では「次」と「対」にはそれぞれの語義があります(各語を当サイトで検索していただければと思います)。『類聚名義抄』は漢和辞典的なものですし、成立年代がかなり先行していますから、余り参考にはならないかも知れません。以下の文書も類似の文が使われておりますので、ご参照下さい。
https://old.rek.jp/index.php?UID=1191049463
https://old.rek.jp/index.php?UID=1224670595
■岡部元信甲府滞在の件
『戦国人名辞典』によると、岡部美濃守は久綱に比定されています。通名の「綱」を名乗っているので、岡部親綱の近親者であることは確実です。親綱が元信の父親であることは、北矢部・勝間田の知行を共にすることからほぼ確実です。玄忠は親綱の道号でしょう。『常慶』が同時代史料上矛盾するのであれば疑問となりますが、後世系図・史書で書き記されたのであれば、当サイトでは『常慶』より玄忠を優先します。
元信の甲府滞在期間・義元首級返付に関して『信長公記』での記述をお示しでしたが、同書の信憑性はかなり低いと私は判断しています(検証cをご参照下さい)。お手数ですが1次史料のご提示をお願いします。
また、「元信の武功が大きかったために今川家臣の妬みを氏真が配慮した」という内容のご説明がありますが、この典拠もお示しいただければと思います。管見の限り、武功を挙げられない給人に遠慮する大名を示す史料は見たことがありません。
「通例、返書である旨は文頭に示されますので、これは晴信が自発的に発行したものでしょう。」
晴信が当時は味方とはいえ他国の武将に、単に祝賀の意を述べるだけでなく、高村さん訳によれば「次いで、氏真に対しては誠実な心情を持っています。心の曲がった人の讒言を信じないようにしていただけるよう、奔走されることが本望です。」…という意味不明な文言が、晴信の手紙の「主旨」になるわけがありません。
なぜ、晴信は突然に、元信に対して「晴信自身は氏真に好意をもっているから、貴殿も頑張ってください」などと言えるのでしょうか。…これが晴信が元信に手紙を送った趣意なのですよ。
ですから、此の手紙は、おっしゃられるように晴信が自発的に送った手紙ではあり得ません。
北矢部・勝間田については、当時は一職支配ができていたわけではありませんし、やたらと「岡部」姓が多い駿河では決めてにはならないのではと思います。
また、岡部氏の中では近世に残った家系であり、「元信の兄弟とも父とも言われる次郎右衛門正綱との関係」つまり、「元信が家督相をしたらしい事(玄忠一世之後者、元信可為計)との関係」を尋ねたことへの回答がありませんが。岡部姓の者については、とにかくわからないのが実情だと思います。
元信についての情報は『信長公記』以外に良質な史料は持ち合わせてはおりません。一次史料を提出せよと言われますが、そもそも高村さんの方において、「刈谷城攻撃はなかった」ということを直接的に示す一次史料がないことから、推理を展開しているのですし、一次史料なるものが存在していたならば、とっくの昔に郷土史家が新説を提示してくれていたものと思いますよ。逆に、高村さんは、小豆坂合戦以降、鳴海城番までの元信の足取りを一次資料だけで示せますか?
それに、他家へ士官および出戻りはそれほど自由におこなわれたものだろうかという問いに対しての御答えがありませんが、どうなんでしょうか。
「管見の限り、武功を挙げられない給人に遠慮する大名を示す史料は見たことがありません。」
当方の命題を「武功を挙げられない給人」とすり替えてもらっては困ります。桶狭間の重臣たちの多くは城を捨てて逃げ帰っているのですよ。
では逆にお尋ねしますが、桶狭間に遠征した駿河の重臣たちが一戦もせずに逃げ帰ったのに、氏真が彼等を咎めないのはなぜだと思われますか。
「結局」が事実上「結句」ですか………。
それは、原本の誤りですか、誤植ですか。
何度も述べますが、「対氏真別而可入魂之心底ニ候」の「対」を本来の使い方で、「氏真に対して」とすると、主語は晴信か元信の何れかということになります。
その場合、「”可”入魂之心底」の可をどう解釈するのでしょう。晴信を主語にすると何度も申しておりますように、余りに唐突です。…対元信なら問題ないでしょうが。次に元信を主語とした場合には、次の文の冒頭に「然者」と補わなければならないのですが、それでも何故そのような事を晴信が突然持ち出すのか当人同士しか解らないことになります。
すると、この書状はやはり元信への返書であったとみなければばならなくなるのではないのでしょうか。
いずれにしろ、なぜ晴信がここで唐突に氏真に対する心情を露吐するのか、高村さんは解説してくださらなければなりません。何しろ、この「次対~」以下がこの手紙の主文なのですから、この意味が分からないのでは話になりません。
この手紙のを晴信がわざわざ元信に送った趣旨は、「晴信も氏真を応援していますから、元信さんも頑張ってね」という手紙なのでしょうか?とてもそうは思えません。
ご指示がなかったので、勝手ではありますがコメント内の「信元」「五郎兵衛」を「元信」に統一しました。「今後は五郎兵衛で」というコメントがありましたが、岡部長盛の仮名も五郎兵衛で紛らわしくなる可能性がありましたので、元信としました。ご了承下さい。
※このコメントはご確認後削除します。
「次対氏真」以下の文言が唐突であるというご指摘はごもっともです。私も解釈時考えあぐねました。但し、ほぼ同時期に穴山信友に武田晴信が送った書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1193583782)も参考に状況を勘案するならば、晴信の懸案が氏真との関係にあったと判断し、入魂の主体は晴信であるとしました。
本書状が返書でないという根拠も、当時の書状の通例に則っています。上記穴山信友宛書状は返書ですが、短い文面ながら冒頭にきちんと「翰札披読」と入っています。書状を自然に読む限り、返書ではないという判断が妥当ではないでしょうか。
また、ご指摘では「次対氏真」以下が本書状の主文であると断定されていますが、これはどのような論拠でしょうか。主文は挨拶文の次に来る例が多く、この場合も元信の武功を列挙して褒めている部分が主文だと考えておりました。
元信が親綱の子である論拠として挙げた、北矢部・勝間田知行の共通点ですが、北矢部は本領として、勝間田は一円が宛行なわれております。本領・一円知行では職が重複することはないと思われますから、『玄忠』は親綱、その子は元信と考えて問題ないでしょう。
正綱への言及がご質問は、お尋ねいただいているという認識がなく失礼しました。正綱は通字『綱』が親綱と共通しますので、親綱・元信と近しい関係だと推測されますが、直接の関わりを示す史料がなくその係累は不明です。
1552(天文21)年~1560(永禄3)年の元信所在を1次史料で示せるかとのご質問ですが、これは新史料の発見がない限り難しいことと思います。私が1次史料のご提示をお願いしたのは、管見外の古文書があればご教示いただければとの思いからです。1次史料から導いた試論に対して、近世編著史料によって論駁されても水掛論になってしまいます。この点はご留意をお願いします。
他家への仕官・出戻りがあったのかというご質問については、『無足』『牢人』『赦免』という語に注目して各史料をご参照いただければ明白になると思います。
>当方の命題を「武功を挙げられない給人」とすり替えてもらっては困ります。
>桶狭間の重臣たちの多くは城を捨てて逃げ帰っているのですよ。
>では逆にお尋ねしますが、桶狭間に遠征した駿河の重臣たちが一戦もせずに逃
>げ帰ったのに、氏真が彼等を咎めないのはなぜだと思われますか。
上記記述に関しては、少々混乱しております。「氏真も辛いところです。元信を賞したいのは当然ですが、その他の重臣たちを責めるわけにも、嫌な思いをさせるわけにもいかないからです」というあなたの記述に対して、それに類した史料が見当たらなかったとご指摘したのであって、すり替える意図はありませんでした。
「咎めないのはなぜか」というご質問ですが、咎めたか咎めなかったかは不明です。直接示す史料がないためです。但し、沓掛で判形を失った田嶋氏と大村氏には処罰もなく再発行を行なっていますから、恐らく処罰はなかったと推測できます。但し交戦前の離脱は調査対象となったようで、後北条氏の例ですが敵前逃亡した足軽には処罰命令が下っています(https://old.rek.jp/index.php?UID=1225907255)し、今川氏でも、仮病の疑いのあった井出甚右衛門には調査が行なわれています(https://old.rek.jp/index.php?UID=1225907255)。
「結句」と「結局」に関しては、書状の写しのみが遺されたため、誤記・誤写の何れかは不明です。あくまで私の推測ではありますが、誤写ではないかと考えています。
「対」の扱いですが、通信は発信者と受信者が同一のコードを用いる必要があります。発信者が他に例のない語義を用いたとしても、受信者がそれを理解できなければ通信はできません。ですから、そのような実例が存在するのでなければ、他の通信と同じコードを使っていると考えるのが妥当ではないでしょうか。たとえ文意が掴めないのだとしても、特例として別コードを解釈に用いるのは避けるべきだと思います。
晴信が入魂の件を唐突に言い出した原因については、この前のコメントにて記載しましたのでそちらをご参照下さい。