6月8日の今川氏真判物によると、岡部元信の率いる部隊は鳴海城を撤収し、その後刈谷城を攻撃して水野藤九郎を討ち取ったという。
1560年6月8日氏真判物
ところが、氏真が同年9月1日に出した判物では刈谷攻落は記載されていない。
1560年9月1日氏真判物
この9月の判物では、元信の父『玄忠』の遺領を巡って、元信とその弟が係争していることが書かれている。6月8日の記述では「事情があって……」とされていた所領没収は、どうやら相続争いだったと想起させる内容だ。6月8日の暫定認可を受けて9月のこの判物では正式に相続認可が降りるという流れになる。それにも関わらず、勲功としては鳴海守備よりも大きな刈谷攻落が記載されていない。氏真が失念したという可能性もあるが、岡部元信が抗議することは確実である。実は、彼の武勲へのこだわりには前例がある。
1548(天文17)年3月19日に、今川方と織田方が三河国で会戦した小豆坂合戦が生起する。その感状を列挙してみる。
同年4月19日松井惣左衛門
同年7月1日朝比奈藤三郎
1552年8月25日岡部五郎左衛門尉
明らかに、岡部元信(五郎兵衛尉)宛の感状が遅れている。この書状内には「此時之出立、筋馬鎧并猪立物也、因茲敵令褒美、於向後分国之武士、彼出立所令停止、若至于違乱之輩者」とあり、兜の前立てと馬鎧が似た武士がいて、元信の功績認定が紛糾したことが窺われる(「このことで敵に褒美をしてしまった」という文意が把握出来ないが、何らかの事情があったのだろう)。実に4年半遅れの感状となったが、元信はこれを勝ち取っている。
このことから、刈谷攻落が事実であれば、この功績が氏真安堵状から抜け落ちるのを元信が容認するとは考えにくい。であるならば、6月8日に氏真は事実誤認をしたまま判物を送ったことになるだろう。事実誤認説を補強するものとして、6月13日付けの武田晴信書状がある。
1560年6月13日晴信書状
この内容は6月8日の氏真判物と近いが、刈谷攻落には言及していない。つまり、6月8日の判物送付後、12日までの間に氏真は誤認に気づき、少なくとも13日には武田氏に通告したことになる。最もありそうなのが、12日までに岡部元信が駿府に到着し真相を報告したという展開だ。
正規に発行された今川氏の判物・感状で、このような誤認識と混乱が生じるものだろうか。小豆坂での例は既に示したが、もう1点類例を挙げる。元信への判物の2年後になるが、1562(永禄5)年7月26日の嵩山中山城での合戦で、田嶋新左衛門が西郷新左衛門の子を生け捕りにする。それを良知氏被官の中谷清左衛門が取り逃がしてしまった。その後大原肥前守が「田嶋新左衛門が取り逃がした」と報告したために田嶋の功績は無効になっていたが、1563(永禄6)年3月1日付けの下記判物で訂正されている。
1563年3月1日関口氏経判物
この例では、大原肥前守の報告を検証せずに当初の判断を下している。田嶋の訴えがあって初めて調査されている。小豆坂合戦の例と併せて考えると、少なくとも1548(天文17)年~1562(永禄5)年までの今川氏感状発行には事実認定において何らかの欠陥があったようだ。管見の限りではあるが、後北条氏の感状では誤発行が見られないことから、今川氏固有の状況かも知れない。
上記推論をもって、以下の仮定を導けるだろう。
- 岡部元信が刈谷を攻落したと6月8日に今川氏真は認識していた。
- 6月13日の時点では武田晴信は刈谷攻落の件に触れていない。
- その後の功績記述に刈谷攻落がないこと、元信が功績にこだわった前例があることから、元信による刈谷攻落はなかった可能性が非常に強い。
- 何れにせよ、鳴海撤収直後の岡部が刈谷を攻落したことは、6月8日時点での今川氏真にとってはとても信憑性のある事柄だった。
この命題の立て方は間違っていると思う。
6月8日の「今川氏真文書」を「便り」か何かと思うのは間違いではないか?
これは一種の感状であり、伝聞を記した書状=便りなどではないと思うのだが………。
つまり、勲功に対する褒美として過去に没収していた土地を改めて知行させたのだから、この軍功には確かな現認者がいたと思うのだ。
軍功は本人が主張したからと言って認められるものではないから、敵の証言であろうと証拠が必要なはずだと思う。従って、岡部元信の刈谷城攻撃の存在を疑う方が鼻からおかしいのではないのだろうか?
コメントありがとうございます。記事内では横着をして「書状」で一括りにしていましたが、判物・感状と書状を明確に切り分けて更新しました。
また、今川氏の感状認定に欠陥があった例も1点追加しています。岡部五郎左衛門の刈谷攻落が事実だとすると、その後も鳴海撤収の功績と併記されるのが通例かと思います。
とはいえ推測の領域に過ぎませんので、更にご意見いただければと思います。宜しくお願いします。
追加された書状は、別に、今川氏の感状認定に欠陥があった事を示している訳ではないと思います。
捕虜逃した責任を争っているだけで、岡部の勲功それ自体の有無を争っているわけではないと思うからです。
さらに申し上げますと、
九月朔付けの文書は、明らかに公事に当たって、判決を沙汰したものだと思います。
そこで述べられた岡部の勲功は、判決を考慮するうえで挙げられたものですから、これは専ら氏真の裁量によるものであり、鳴海城の守備に関するものだけで十分であったというだけのことなのだと思います。
従って、この沙汰状に刈谷城攻撃の勲功が挙げられていないからといって、刈谷城攻撃が無かったと主張することはできないものと思います。
重ねてのコメントありがとうございます。
田嶋新左衛門宛の書状ですが、これは送付者の関口氏経が「あなたの高名」として書き始め、「自分が奏者となって御判形が下る」と結び、判形の言葉の前に空白を設けていることから、この書状と並行して氏真から田嶋に感状か判物が発行されたと考えています。その背景には、合戦直後に田嶋が武功を申請していたのに、感状・判物が発行されなかったという事実が必要とされます。このことから、感状発行のミスだと考えた次第です。
9月1日の判物ですが、これは弟が何らかの証文を得ていた知行を、岡部元信に還付するという告知でしょう。裁判案件だと、「訴出・双方・裁断・訴人・糾明」といった文言が使われますが、当該文書では「雖企訴訟、既為還付之地之条、競望一切不可許容」と書かれており、訴訟を想定してはいるものの判決告知として発行しているものではありません。裁判案件であれば、以下の文書のようになるのが通例ではないでしょうか。
https://old.rek.jp/index.php?UID=1191250887
還付告知にせよ判決告知にせよ、今川氏真が任意に元信の武功の追記・削除を行なうのは難しいと考えています。1つの首級でも感状は出ますし、負傷者の詳細なリストも取次役承認のもとに当主へ送られます。武功が実在する上は必ず明記されるのが通例です。同時に「この案件にはこの武功」という書き方もせず、武功も宛行も一括で記述されます。とはいえ管見の限りなので、もし違うパターンがある場合はご教示下さい。
また、6月8日の文書では「鳴海堅守+刈谷攻落」を知行返却の理由としています。この段階では本人のものだった知行を返却するだけですが、9月1日の文書では既に相続済みだったらしい弟の知行を兄に『還付』しています。後者のほうがハードルが高く、より大きな武功が必要だと考えられます。しかし氏真は刈谷攻落を記述せず、「年来於東西忠節」という曖昧な記述を書き入れるのみでした。
単純に、6月8日と9月1日で武功内容だけが逆であれば問題はないのですが……。
刈谷・東浦の水野は、三河一向一揆にも援軍で出兵していることから、刈谷は落ちてないだろ。刈谷の周りを焼き払っただけかもしれんし。
信長公記や三河物語を読めばいいこと。
書状という断片的なモノを史実とみなし、多くの書状を強引につなぎ合せて、独自解釈する行為自体が歴史の捏造である。
明治以降にこの手の手法が起こったようで。
江戸幕府時代までには、偽書の氾濫によって、数多くの文献を比較考証するという手法が取られている。
その際、善本を底本として異同を是正している。
書状は原本ならいいが、写しは改ざんがあるため注意。
上杉の手取川合戦もニセ書状による捏造。
「(信長は)案外に手弱之体、此分ニ候者、向後天下迄之
仕合心安候」
について、天正5年9月19日、宛名は長尾和泉守となっていました。因みに、長尾政景は越前守です。
しかし、『越佐史料』の編集者によると、この宛名と日付は後の時
代の追記だと言います。
長尾和泉守が誰なのか調べましたが、該当者なし・・和泉守を名乗る
上杉家家臣は、柿崎和泉守影家のみです。彼は天正6年に信長に内
通した疑いで、謙信に誅殺されています。(もしくは天正2年)
他に和泉守が居るのか今のところ不明です。
歴代古案のニセ書状。
コメントありがとうございます。諸事に追われてお返事が遅れてしまいました。
先ず、当サイトについての趣旨が「1次史料のみを用いて検証する」である点を改めてお伝えします。近世史書が情報の根源に細かく言及しているのであれば、それはそれで考慮できると思います。ただ、どの史書も典拠は列挙しても、記述内にどのように反映したかが不明瞭ではないでしょうか。
明治以降に歴史が学問となってからは徐々に是正され、1次史料を調べるようになってきています。歴史は往々にしてプロパガンダに利用されることが多く、特に近世は戦国期の功績が家柄に直結する傾向があったために、歪曲や捏造も多かったのではないかと推測しています。
写しの文書が信頼性に欠けるというご指摘には賛同します。『歴代古案』の書状についてですが、『武田信玄と勝頼』(岩波新書)26ページに同様の指摘があります。同書で取り上げたのは跡部勝資からのものですが、宛先が新発田尾張守になっています(その部分だけ紙が貼られているそうです)。『覚上公御書集』を見ると同書状の宛先は「春日山人々御中」となっているとのことで、近世に上杉家中で公式に編纂された『歴代古案』でも改竄は行なわれたという証左になります。
当該書状の内容は、同盟している勝頼に景勝が「織田と勝手に交渉しているのではないか」と問責した返書で「そちらこそ織田と交渉しているらしいですね。こちらではそんな情報信用していませんが」と、自ら抜け駆けしておきながら疑心暗鬼に駆られた景勝をやり込めたものです。この役回りを新発田氏に押し付けたのが改竄動機でしょう。
手取川合戦については把握していないのですが、この事例と同じ流れであれば「織田家に対して妥協しなかった強い上杉家」というプロパガンダの産物かも知れません。
懸案の岡部五郎兵衛宛1560(永禄3)年9月1日文書ですが、土佐孕石家に伝わった写本であることが『戦国静岡の研究』(清文堂出版)に記載されていました。孕石家は岡部丹後守の娘が嫁いだ先で、嫁す際に文書の写しが与えられた可能性があるそうです。
この土佐孕石系文書写は、相馬岡部家所有の文書(こちらは原文書)との合致が5件存在します。直接9月1日文書とは重なりませんが、22点のうち5点が他家原文書と内容も合致するのであれば信頼性は高いと判断可能でしょう。
9月1日文書のみを改竄し刈谷攻落を削除した可能性もありますが、動機がありません。『歴代古案』の場合は編纂者が上杉家中ですから、主家の顕彰・名誉保持のために改竄する動機があります。ところが9月1日文書写しを所持しているのは岡部家ではなく、そもそも武功を削っているのですから動機が成立しません。
考えられるとすれば、近世有力譜代である水野氏を攻めたことを配慮したという可能性ですが、こちらもありえないと思われます。土佐孕石家は山内氏に仕えていますから直接関係がありませんし、大名である岸和田岡部氏は6月8日の刈谷攻落記載がある文書を筆写して所持しています。
仮に、書状が本物でも、書状の内容が、事実と異なる可能性もある。
その検証作業が重要。
古事記や日本書紀を否定するようなモノは、木簡(これも政府の公文書)や金石文など限られるため、日本の古代史の底本であることに変わりない。
書状のような断片的なモノにそこまでの価値はない。
ましてや、写しの場合、間違って写している、意図的に改ざんしている可能性あり。
上杉家には、直江状偽書説があり、記述内容がモノによって異なるそうな。
ニセの歴史書があれば、ニセ書状もありうる。
江戸時代中期から末期に登場したものは、特にインチキ多い。
武功夜話と同じ手法で、秘密の武家記録と称して、戦国時代の同時代資料を騙る。
歴代古案ですが、河越の合戦の日付も、他の書状と年次が異なり、疑惑が指摘されています。
書状の写しは、改ざんがないかどうか検証必要。
学者や地方自治体、出版社を巻き込んだ武功夜話事件のように、
えらい連中にまともな考証能力が欠如していることは明らか。
在野のほうが鋭い指摘がある。常識>歴史学者の偏狭な枠組み
歴史学は、いいかげんすぎ。学者の盲説妄言を史実化することを目的としている。
こちらにまとめてお返事いたします。
「文書が本物だったとしてもその内容が事実と異なるかも知れない」とのご指摘、そのとおりだと思います。今回の命題も、原文書にある刈谷攻落が事実誤聞によるものではないかという疑問から入っています。後の日付の文書2通で軍功が削られている不自然さから考え、氏真による誤認を想定しました。
歴代古案の北条氏康書状写は『戦国遺文』に掲載されていますので、折々目に留めてはいました。ただ、他の書状との差異が激しく、またこの書状がなぜ米沢藩に伝わったのかが全く判らなかったので、偽文書だと考えておりました。「河越城を取巻」(ここだけ目的語が後ろ)「運粮用路」(兵粮を運ぶ道?)「御逆鱗以外之間」(ご逆鱗もってのほかの間?)などなど、不自然な文面が多数あります。当の晴氏が河越で敵方に加わったと書いている一方で合戦の内容をくどくどと説明し、かと思えば日付・時刻は入れず、最後は「爰許能ゝ為御分別」という曖昧な言葉で締め括っています。どのような目的の書状なのか不明としか言いようがなく、判りやすい偽造の例でしょう。
だいぶ期間があいてしまいましたが、9月1日の判物について。
…これは正式な法廷裁判ではないかもしれませんが、元信の訴えに対してお墨付きを与えたという意味での裁決であると思います。
この書状から高村さんが引かれた「雖企訴訟、既為還付之地之条、競望一切不可許容」は、高村さんが訳されているような「もし陳情や訴訟を行なおうとも、土地は還付すること。弟同士で分割する前提で土地を独占することは禁止する」という意味などではないと思います。
まず、「陳情や訴訟を行なおうとも」ではなく「企て(計画し)ようとも」でしょう。これがどれほど違うかといいいますと、「行うとも」では訴訟が実施されても勝訴させるという意味になりますが、「企てるとも」の場合は端から受け付けずに門前払いするという意味になると思うからです。
「競望一切不可許容」は、「件の土地については一切の権利を主張すること自体を受け付けない」という意味だと思います。
「并弟両人割分事」とあるのは、次の文章の頭に来るのであり、前の文章の続きではないと思います。従って、「並びに、二人の弟が分割していることについては、…」の意味である。「弟二人が分割しなければ独占を許可する」などという意味ではないものと思います。
ですから訳は、「もし(弟たちが)訴訟を企てようとも、既に(氏真が元信に)還付を申しつけている土地なのだから、件の土地については一切の権利の主張をすること自体を受け付けない。また、二人の弟が分割していることについては、元信には事情があったのだから、…」と安心させているのだと思います。
以上のように、この書状は元信の武功を顕彰しようとしているわけではありませんから、正確を期す必要などはもとよりないわけです。従って、この文書に刈谷城攻撃の武功が記載されていなかったからと言って、刈谷城攻め自体がなかったという証拠にはできないもとの思います。
ご指摘ありがとうございます。自分でも読み返して訳がおかしいことに気づき、急ぎ修正しました。失礼しました。改めて用語を調べたところ「付嘱」とは寺院における譲状を指すそうです。岡部元信の弟二人は父とともに出家していたのかも知れません。
武功の書き出し内容を大名が任意に変えられるかという案件ですが、同時期の松井氏宛判物(https://old.rek.jp/index.php?UID=1188721980)では過去に至るまで詳細に書き出されています。また、武田家の千野氏は自らの武功を詳細に書き出して報告しています(https://old.rek.jp/index.php?UID=1217217652)。これらの文書から、武功の書き出しは厳密に扱われたのではないかと考えています。省略された例があるようでしたらご教示下さい。
さらに、「北矢部并三吉名」が還付されるのは岡部元信の武功によるものです。既に判形を保有している弟二人の知行を取り上げるのですから、その理由である武功を省略するのは考えにくいかと。万一省略するとしても、評価の高い武功を残すのが可能性としては高いのではないでしょうか(苦し紛れに「年来於東西忠節」と書くよりも「刈谷城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火」と書き出すほうが効果的です)。
またご意見いただければと思います。至らぬ点も多々ありますが、よろしくお願いします。
刈谷城という名前は1つでも、旧城、新城による2つ。
あるいは、出城(本丸、ニの丸、三の丸みたいな感じ)
など、刈谷城が複数存在する可能性があります。
現在の亀城は、刈谷藩時代のもので、戦国時代の刈谷城とは違う可能性。
水野和泉守館、苅屋一宿。=宗長の記録だと、刈谷城は、ただの屋敷館である可能性。
古城のほんとんどは、屋敷、館、砦レベルのもので、近代的なお城は、織田豊臣時代になって大規模に整備されだしたもので。
要は、複数ある刈谷城の1つを落としただけにすぎない。
刈谷城は、1個しかないと決め付けるから、おかしくなる。
コメントありがとうございます。
「かりや」という名称を持った城の存在は検証a15で記述しています。ご覧いただければと思います。
刈谷城の規模ですが、宗長が刈谷館を書いたのは1522(大永2)年ですから、1560(永禄3)年とは38年の間隔があります。松井氏宛氏真判物写に「苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事」とあることから、部隊を接収する規模は持っていたようです。
出城や臨時砦の何れかを「刈谷城」と称した可能性ですが、こちらは非常に低いようです。当時の文書だと、端城・向城・取出など詳しく記述が分かれます。また、曲輪名を記載することも多くあります。功績を確定することですから、おっしゃるような曖昧な記述方法はとらないのではないでしょうか。近世刈谷城とは全く異なる小規模な拠点であった可能性は高いと思いますが……。
「北矢部并三吉名の場合」ですが、
岡部の弟が所持しているらしい証文は、氏真や天沢寺殿が発行した宛行状などではなく、私文書(この場合は父と弟との約束)であって公的権利である知行権に対抗できるものではないように思います。
それならば、それを弟から取り上げるには、特別な理由はいらないということだ思います。何故なら、それは岡部氏に宛がった知行の一部であって、それを岡部氏がかってに他人に売却したりすることは禁じられていると考えられるからです。
ですから、正当な知行主が確定すれば、全てはその人に帰属するのは当然であり、隠居料として占有していた父が任意に譲渡した行為は否定されても仕方がないものと思われます。知行地の売買は原則禁止されているからです。
そして、元信への知行宛行についてはこれまでの奉公で一括すれば事足れると思われますので、氏真の裁定に岡部元信の過去の武功を逐一数え上げる必要などはないわけですから、この場合にも刈谷城攻撃が書きあげられていないからといって、その事件自体がなかったということにはならないと思います。
「武功の書き出し」について、
奉公する側が武功を書きあげた文書は、おそらく過去に受領した感状(認定書)を自身が手許に保有していたり、多くの現認者がいて動かし難い事実に基づいているのでしょうから、仰せのとおり大名側がそれを否定することは難しいものと思われます。
ただ、松井八郎宛判物や千野氏文書は特殊な場合であって、これは感状の類ではありませんから功名が抜け落ちていることを問題にすることはできないものと思います。
背景も事情も存じませんが、文面から窺われることは、松井八郎の場合は家督相続に際して、蔵出し給金を知行に変更したらしいものですし、千野氏の場合は外様の自分が譜代の家臣以上に奉公していることを家中に広く知らしめて欲しいというのですから、おそらく家中での地位が低いことを不満に思って改善を願っているからだと思います。
従って、両方ともその必要があって書き上げたので、必要がないことは書かないという極当たり前のことだと思います。
岡部元信の弟たちが持っているのは『判形』ですから、今川家当主(もしくはその近親者)の発行した正規証明書です。給人が判形を「出置」という例は今川氏・後北条氏ともに見られません。また、宛行なった知行を勝手に売却することは通例禁じられていますが、相続に伴う譲与はその限りではありません。岡部元信の弟たちが持っていたのは、父からの相続を今川家が認めた公文書でしょう。恐らくhttps://old.rek.jp/index.php?UID=1191419666のような文面だったと考えています。
一旦確定した相続案件を覆すようなケースは特例であり、だからこそ元信の武功を挙げて理由としたのでしょう。玄忠からの相続が違法なのであれば「法」という記述がどこかにある筈なので、違法ではなかったと思われます。
松井氏宛氏真判物についてですが、蔵出を知行に差し替えたのではなく、父の既得権相続を承認した内容だと思います。その他代官職や知行についていくつか優遇が行なわれていますが、継承承認と優遇の理由は全て松井家代々の軍功としています。だから細大漏らさず書き出す必要があったのだと考えています。千野氏書出状は頸注文や手負人数注文(https://old.rek.jp/index.php?UID=1227535466)に近いもので、代替わりか所領替えの際に提出されたのではないかと思われます。
軍功は軍忠状・感状で事項確定された後、判物での宛行理由として使われるのが通例です。宛行につながるからこそ給人は奔走するのであって、その判物に引用された軍功は正確でなければなりません。匂坂長能宛に与えられた約束手形には、寺部領有化を進める彼の活躍が丹念に書き出されています(https://old.rek.jp/index.php?UID=1195801472)。
これらのことから、軍功は大名・給人ともに正確を期す案件であり、判物においても例外ではないと考えております。
(1)当該書状で「雖出判形」というのは「元信が証拠書類を出せなくとも」と言っているだけで、元信の弟が『判形』を持っていたなどとはどこにも書いてはいないと思います。
ですから、「隠居した父からの譲り状」を持っていたのか、又は、分与された所領に「付属している」と主張しているのだと思ったわけです。付嘱状が僧侶間での財産譲与契約書だとは知りませんでした。勉強になりました。感謝。
然しながら、付属状があってもそれに対応する安堵状がなければ有効ではない訳なのですが、この文面からは氏真自身がそのような判形を出したようには受け取れるとは思へません。
(2)千野氏書出状が、頸注文や手負人数注文に近いものだとは思へません。
何故なら、軍忠状と感状とは別のものだと思うからです。
軍忠状は案として扱われ、それが認められると「一見了」とか「承了」という証判を受けて正式の軍忠状としての効力が発生するものと聞いています。そのため軍忠状は一見状とも言うのだと言います。
これに対して感状は、武将の忠義に感動して、それを賞賛するために発行する極めて外交的・政治的?な文書に思えます。ですから、軍忠状に対して自動的に感状が発行されるわけではないでしょうし、具体的・箇条的に記されたものは少ないのではないかと推測します。
従って、匂坂長能宛文書は、将に「必要があって書き上げた」一種の契約申し込み書であり、これが一々書きあげられているのは、おっしゃるように義元が反対給付を約束しているからです。
通常の軍事的な命令や外交的な文書などの場合には、使者を以て詳細な支持や要請を伝えるのが普通ですから、わざわざ書状にしたためたのを見ると、義元は匂坂長能を味方につけて働かせるのに躍起だったのでしょう。
ついでですが、
(3)信長の水野藤九郎宛の礼状にある、「無到来」とは、貰物(贈り物)が誰からも来なかったと高村さん自身が訳されている通りだと思います。ですから、それを音信(便り)がなかったということにまで広げてしまうのはどうかと思います。
更に、ついでですが、
(4)信玄書状において「二三ヶ年当方在国之条」とあるのを、「2~3年私の国にいらっしゃったご縁もあり」と訳されておられますが、当方とは信玄自身のことであり、甲府のことをいうのではないと思います。ですから在国も信玄が郷里(躑躅ケ崎館)にいたことを云うのだと思います。なぜなら、当時は三国同盟が成立して?平穏であり、信玄の国境は平穏だったからでしょう。上杉家との関係を除いては。
また、「次対氏真」の氏真は、省略された主語である信玄の目的語などではなく、氏真が主語なのだと思います。同様に、「馳走」するのも信玄ではなく、主語は元信だと思います。なぜならば、上杉謙信ならいざしらず、武田信玄が他家のみならず他家の家臣のために奔走するなどと、当主・氏真宛ならともかく、一介の元信に書き送るなどとは思われないからです。
急遽、間違ったコメントを謝罪するとともに訂正します。`
「松井氏宛氏真判物」について蔵出し給金を知行に変更したらしいとしたのは勘違いでした。すみません。取り下げます。
また、「雖出判形」というのは「元信が証拠書類を出せなくとも」というのは、「弟たちが証拠書類を出してきても」の書き間違いです。訂正します。
陳謝。
追伸:ただし、「過去の軍功は全て書きだすものである」という認識については、反対意見です。`御恩を授ける側が書き上げる理由は、「貴方の奉公については細大漏らさず覚えていますよ」という思いを伝えたいからであり、それが家督相者に対して云う場合には、「貴方にはまだ実績はないが、亡父に負けないだけの奉公をしなければ、継がせたけれども家督の安堵も保証の限りではないぞ」という脅しも入っているのだと思うからです。
コメントありがとうございます。1については後のコメントにてお答えします。
2についてですが、以下の流れで軍功は処理されていたと理解しています。
01)軍功発生 → 02)頸注文・手負注文・軍忠状を作成して申請 → 03)現地指揮官が確認して当主に上程 → 04)上記注文・軍忠状に当主確認印を押して返却 → 05)感状を当主より発行 → 06)軍功に基づき判物(宛行状)発行
02と04に関しては天野景泰頸注文(https://old.rek.jp/index.php?UID=1227535466)、03は太原崇孚書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1206202428)と北条氏尭判物(https://old.rek.jp/index.php?UID=1209784507)、北条氏政判物(https://old.rek.jp/index.php?UID=1209861618)、05は今川義元感状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1206290144)、今川氏真感状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1209920592)が該当します。文書の残存は圧倒的に05の感状が多く、次いで06の宛行状となるようです。これは、軍功を挙げても05止まりだった案件が多かったためではないかと思われます。
給人が戦うのは新たな知行を得るためですが、全ての武功に対して宛行なっていたのでは知行が不足します。このため、感状で一旦留めておき、その後の査定時に過去分をカウントしていったのではないかと推測しています(例として挙げた上記の天野景泰・畑彦十郎の例では宛行状はありません)。02~04は軍功認定のための手続きで、05で確定となるため、この確定文書を大切に保管したのだと思っています。
ご説のように軍忠状が感状に結びつかないというのであれば、感状よりも軍忠状のほうが残存率が高くなると思われますが、実際には逆の状況です。
また、軍功と宛行が一対の双務契約であるとも考えています。ですから宛行を含む判物では、「詳しくは使者の口上で」という文面は存在しないか、あっても非常に特殊な例でしょう。軍功と宛行を正確に明記しなければ、口約束の空手形になるからです。匂坂長能宛書状で全てを書き出しているのはこのためでしょう。
このように軍功と宛行は大名・給人双方にとって重要な事柄ですから、大名が「この宛行にはこの軍功のみ記載しよう」という恣意的な処理をするとは思えませんし、それを給人が許すとも思えないのです。
3についてはご指摘の通りです。『検証a06』を修正しました。ありがとうございます。
4は改めて読み直すと拙い訳文でしたので、改訳を行ないました。ただ、ご指摘の2点の意味に変更はありません。「二三ヶ年当方在国之条」の主語が「信玄」だとすると、前後の文がちぐはぐになるかと思います。当該文は「今度一段無心元之処」の前に懸かりその理由だと思われますから、ご説に従うと「2~3年私は在国していたので、この度は一段と心許なく思っていたところ……」となり、意図が不明になります。岡部元信が2~3年甲斐国に滞在していたからこそ、親しみもあって「信玄」が不安に思っていたと考えたほうが筋がつながると思うのですが、いかがでしょうか。「馳走」するのが岡部元信である点はご指摘の通りだと思います。その前文が「不被信侫人之讒言様」となっており「~なさらぬように」であることから判断して訳を改めました。ただ、「次対氏真別而可入魂之心底ニ候」の主語が氏真であるというご説明はよく理解できませんでした。「次いで氏真に対し別して入魂の心底に候べく」と読み下すならば、主語は「信玄」と思われるのですが……。
※ちなみに、1560(永禄3)年から2~3年前となると、永禄元年前後から武田晴信は甲斐国にいたということになりますが、1559(永禄2)年には長尾景虎(上杉輝虎)の上洛を受けて北信濃を攻撃しております。晴信自身の出馬は史料を検討する必要がありますが、落ち着いた状況にはなっていないようです。
前コメント1と合わせてご返答します。「雖出判形」の主語は今川家当主(恐らく義元)だと思われます。野々山氏判物(https://old.rek.jp/index.php?UID=1195140731)で判形を出し置くのも今川家当主だと思われます。判形を原告が提出するのであれば、「縦以親之譲置判形・書物、重弟注進訴訟、一切不可許容」(https://old.rek.jp/index.php?UID=1224260677)に近い記述になるかと思われます。
それと、私の説明不足だったのが原因ですが、「過去の軍功は全て書きだすものである」というのが大前提ではなく「軍功は可能な限り正確に記述される」という事柄への補強として、過去の軍功が全て書き出されたという例を挙げております。
相続に際しての安堵状についてですが、脅しという側面があったというご説明は少し疑問です。今川家・後北条家ともに、滅亡時には家臣の功績を書いた感状を発行しています。これらは家臣再就職のために便宜を図っていると思われます。前のコメントへのご回答で書き記しましたが、宛行が契約条項であるならば軍功の書き出しは職務経歴書と勤務評定を合わせたような内容であり、もっと実務的な意味合いだと考えられます。脅しをかけるならば、北条氏康判物(https://old.rek.jp/index.php?UID=1207153365)のように直截な言い方になるかと思われます(このような相続安堵は他に例を知らないので、一般的ではないようです)。
「雖出判形」の主語を「恐らく義元」であろうと言われることは、その通りだと思います。六月八日、十三日そして九月一日の全ての文書を日付け順に並べて読んでみて、ようやく意味がわかりました。
多謝。
せっかくご納得いただきましたが、「雖出判形」は氏真だったという方向で論を進めていたりします。■岡部元信の甲府滞在の件(https://old.rek.jp/index.php?UID=1188841619#CID1243089336)をご確認下さい。覚束ない足取りで推論しておりますので、お気づきの点などありましたらぜひご指摘下さい。