7月16日は旧暦6月13日。この日、空梅雨から一転、長雨が10月まで降り続く冷夏となる。これ以降は、暑苦しい日照りの風景ではなく、一日中雨に降り込められる情景に切り替わることとなる。
この日「抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之其上従氏真被執一筆被退之間」「そもそもこの度不慮の巡り合わせによって利を失い、大方敗北。更には大高・沓掛が開城したところ、あなたは鳴海の地をしばらく堅守した上で、氏真からの命令書に従って撤退しましたので…」と、武田晴信が岡部元信に書き送っている。この前々日ぐらいに元信が駿府へ到着したのかも知れない。「大略敗北」というのは外交辞令で、手痛い敗北だったと思われる。
前年から兵員・兵糧の補給時に戦闘があった大高はともかく、戦闘状態にあったとは考えにくい沓掛まで落城している。その一方で、地理的には尾張内に深く入り込んだ鳴海が堅守されているのは奇妙な感じを受ける。義元が「鳴海原」で戦死したという書状もあるので、近辺で戦闘があった筈なのだが……。
「鳴海原」が具体的にどの地点を指すのかは不明だが、沓掛から鳴海を目指して鎌倉街道を進み、平地に出た辺りではないかと推測している。「粟飯の原」の古称を持つ相原郷であれば、鳴海城は義元の前方となり影響を受けない。潰走する兵に巻き込まれた沓掛、更には、元々守備に難のあった大高も自己判断で放棄されたとすると筋道が合うように考えている。
相原郷にある浄蓮寺は、六田1丁目にあった光泉坊が元だという。この坊は今川家臣の本多慶念が、1560(永禄3)年以降に作ったものだとのこと。六田1丁目からの移転理由が洪水だというので地図を確認したところ、六条ポンプ所がある氾濫地帯にあった。また、中島砦と伝承される位置にも近い。