由木上下之強人相談、敵動付而之出合可討留、万乙忠信申者ニハ、随望恩賞可被下、此旨各ニ為申聞、可相稼者也、仍如件、

正月廿一日

横地 奉

小田野源太左衛門尉殿

→-戦国遺文 後北条氏編「北条氏照朱印状写」(静嘉堂本集古文書ア)

1561(永禄4)年に比定。

 由木郷で力の強い者は相談し、敵が仕掛けてきたら迎え撃て。『万乙』忠信を示した者には望むままに恩賞を下さるだろう。このことを各人に申し聞かせ、働くように。

於足立郡望地一所可進置候、今度於玉縄、尽粉骨、可抽忠信事肝要候、仍状如件、

辛酉

三月三日

氏康(花押)

大平清九郎殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康判物」(大平文書)

1561(永禄4)年に比定。

 足立郡で望む地所を一箇所進呈します。この度玉縄にて粉骨を尽くし忠信にぬきんでることが肝要です。

就此度河越籠城赦免条ゝ、

一、借銭・借米徳政之事、

一、本意之上、於忍・岩付領内、望地可出置事、

以上

右、今度当方安危砌候条、軽身命抽而可走廻者也、仍状如件、

十二月二日

氏政(花押)

氏康(花押)

池田安芸守殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康・同氏政連署判物写」(相州文書所収大住郡武兵衛所蔵文書)

1560(永禄3)年に比定。

 この度の川越籠城による赦免事項。
 一、借りた金銭と米は徳政とする。
 一、本意の上は、忍・岩槻領内で望む地所を与える。
 以上。右はこの度我々が危機に瀕しているので身命を軽んじぬきんでて活躍するように。

預御状、令本望候、佐白一和、以 上意如形無事簡要候、其方御馳走之由、使者申事候、弥御忠信此時候、当口取乱候、於備者可御心安候、何様以使可申候、恐々謹言、

十一月十六日

氏康(花押)

那須殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状」(栃木県立博物館所蔵那須文書)

1560(永禄3)年に比定。

 書状をいただき本望です。佐竹氏と白川氏の和平ですが、足利義氏の上意をもって形のように無事にするのが肝要です。あなたが活躍なさると使者が申しておりました。ますます忠信を行なうのはこの時です。こちら方面は取り乱しています。防備はご安心下さい。諸々は使者が申します。

今度肝要之砌、無二ニ走廻候、喜悦候、於江戸筋一所可遣候、爰元取静、郷名可相定候、猶相稼候者、可為祝着候、仍如件、

永禄三年

十一月十二日

氏康(花押)

梁大蔵丞殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康判物」(早稲田大学所蔵文書)

 この度の重大事に、無二に活躍してくれて喜んでいます。江戸筋で地所を一つ進呈します。こちらが落ち着いたら郷の名前を決めます。さらに働いてくれると祝着です。

先日者、御懇札再三披見本望候、 一、年来国家御祈念頼入候之処、此度北狄出張、国中山野之躰、被失面目之由、更不及分別候、去春恐景虎威勢、為始正木、八州之弓取不残雖寄来候、武相城之内、江戸・河越七八ヶ所之地、無相違、結句度ゝ戦得勝利、凶徒無程破北候、於所ゝ往覆之敵侍凡下討取事千余人、是偏御祈念之力哉、一旦之忩劇不苦候、畢竟此上励信心極候歟、普天之下無不王土上、御修理可走廻由、尤任御見候、然者豆州仁科之郷禁裏就御預所、先年勧修寺殿為勅使御下向之時、氏綱三ヶ年進納、其後遠境故中絶候、任彼御由緒、仁科之郷可致進上之由、覚悟仕候、 一、万民哀憐、百姓可尽礼、御意見令得其意候、去年分国中諸郷へ下徳政、妻子下人券捨、為年経迄遂糾明、悉取帰遣候、当年者諸一揆相之徳政、就中公方銭本利四千貫文、為諸人捨之、蔵本押置、現銭番所集、昨今諸一揆相ニ致配当候、家之事、慈悲心深信仰専順路存詰候間、国中之聞立邪民百姓之上迄、無非分為可致沙汰、十年已来置目安箱、諸人之訴お聞届、探求道理候事、一点毛頭心中ニ會乎偏頗無之候間、一代之内、無横合時身退者、聖人之教與存、去年息氏政譲渡位、隠遁之進退候得共、大敵蜂起、氏政若輩之間、無了簡、国家之成意見候、然ニ氏康無善根間、如此與候、此貴意、乍恐御相違候、縦善根有之共、心中之邪ニ而、諸寺諸社領令没倒様なる国主ニ付而者、如何様之大社之御修理、何度致之候共、神者不可受非礼、縦不向経論聖教、常ニ不信之様ニ候共、心中之実、即可叶天道候歟、於氏康、或不足之出家沙門お憐愍、或伽藍零廃之所歎ヶ敷間、先年午歳、鎌倉在馬之砌、諸寺・諸山周寄附田畠候キ、其外国中之神社・仏閣へ少充之料所お雖寄進仕候、一歩地茂押領之事者、一代不覚候、何之驕ニ歟、可背天道候哉、天運不尽者、一戦勝利無疑候、併人者不可如和ニ歟、 一、於諸寺・諸社、此度本意之御祈念尤ニ候、然■豆相武之内、何之地如何様之祈念を可申付候哉、不可依霊地候、唯行人ニ可有之候間、有御分別、委細非遊立候而可給候、并供物員数等可預御計事、一、不動護摩供、一、大聖金剛法、一、観音経三百三十巻、以上何之地ニ而、如何様之人ニ可申付候、

一、大嶺採燈護摩之事、於京都何之方可憑入候、供物等員数之事、如何程可入候、如何様之行ニ候、 一、聖天供之事、御請取之上、無別儀候、 一、鶴岡宿願之事、可有願書歟、願力如何様之儀、可為何ヶ条候、 一、於伊勢・熊野、如何様之行可然候、右、何茂委可注給候、得御意急度可申付候、 一、関宿様御返事、飛脚能ゝ可申付候、義尭御警固深旨、被申候、哀ゝ成就候得かしの念願候、近日半途へ罷出、此首尾可承届候、恐ゝ敬白、

五月廿八日

氏康

金剛王院 御同宿中

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状写」(安房妙本寺文書)

1561(永禄4)年に比定。

先日は親しいお手紙を再三披見し、本望に思います。
一、年来、国家のご祈念をお願いしていたところ、この度北方の敵が出撃して国中が山野のようになり、面目を失ったとのこと。更に分別に及びません。去る春に景虎の威勢を恐れ、正木を初めとする関東の武将が残らず攻囲してきたのですが、武蔵と相模の城のうち、江戸や河越など七八箇所は無事であり、結局は度々勝利を得て凶徒は程なく敗北しました。あちこちで移動する敵の侍やその手下を討ち取ること1000余人。これはひとえにご祈念の力でしょうか。一時的な騒擾は苦しいものではありません。畢竟この上は信心を極めるよう励みましょうか。広い天の下で王土でない場所はなく、ご修理に奔走するべきとのこと、その見解はもっともです。伊豆国の仁科郷が禁裏の預所となり先年に勧修寺殿が勅使として下向した際、氏綱が三年分を進納しました。その後は遠距離もあって中断していました。あの由緒のように仁科郷を進上するようにとのこと、覚悟しています。
一、万民を哀れみ、百姓に礼を尽くすべく、ご意見はその意を得るようにします。去る年に分国中の諸郷へ徳政を発布し、妻子や下人の売り証文を捨て、年を遡って解明しました。ことごとく返還しています。当年は諸一揆の人々に徳政を行ない、とりわけ公方銭の本利4000貫文を諸人のために破棄、蔵本を押収して現金を番所に集め、昨今は諸一揆の人々に配布しています。家のことは、慈悲心と深い信仰の順路を専らとして考えを突き詰めており、国中の聞こえとして、民百姓の上までも非分なく裁断するために十年来目安箱を置き、諸人の訴えを聞き届け、道理を探求しておりますこと、一点でも毛頭でも心中に差別の心がきざしたことはありません。一代の内で大過なく時宜を得て身を退くは聖人の教かと思い、去年に息子の氏政へ位を譲渡しました。隠遁とはなりましたが、大敵が蜂起し、氏政は若輩なので了簡を得ず、(私が)国家の意見をなしました。ところが氏康は善根がない。と、あなたの意見はこのようでした。恐れながら相違があります。たとえ善根があったとしても、心が邪悪で諸寺・諸社の領地を傾けるような国主であれば、どのような大社の修理を何度したところで神は非礼として受けないでしょう。たとえ経論聖教に向かず、常に不信心であったとしても、心中に実があればそのまま天道にかなうものではありませんか。氏康においては、あるいは貧しい『出家沙門』を憐愍し、あるいは伽藍が廃れているところを嘆かわしく思い、先の午歳に鎌倉へ行った際、諸寺・諸山へ田畠の寄附を斡旋しました。そのほか国中の神社・仏閣へ多少の領地を寄進こそすれ、一歩の地でも押領するなら一代の不覚と考えています。何の驕りでしょうか。天道に背くのでしょうか。天運が尽きなければ一戦して勝利は疑いありません。そして和するものではないでしょうか。
一、諸寺・諸社において、この度本意のご祈念を行なうのがもっともです。伊豆・相模・武蔵の内で、どの神社にどのような祈念を指示すべきでしょうか。霊地によるものではありません。ただ行人によるものですから、分別して下さい。委細は『遊立』でなく送って下さい。同時に、供物の見積もりなどもお願いします。一、不動護摩供、一、大聖金剛法、一、観音経三百三十巻、以上を、どの神社でどのような人に指示すればよいでしょうか。
一、大嶺採燈護摩のこと。京都のどなたにお願いすべきか、その供物の数量など、どのようにすべきでしょうか、またどのような段取りで行なえばよいでしょうか。一、聖天供のこと。お受け取りいただければ『別儀』はありません。一、鶴岡への宿願のこと。願書はあるべきでしょうか。願力はどのようにし、何ヶ条にすべきでしょう。一、伊勢・熊野において、どのような段取りがよいでしょう。右は、いずれも詳しく報告をいただきたく。ご同意を得て取り急ぎ指示します。一、関宿様のご返事は、飛脚によくよく指示し、里見義尭のご警固を深くする旨、申されました。心から成就してほしいという念願です。近日に途中まで参上し、この成果を直接うかがえればと思います。

先日者令啓喜、参着候哉、仍其表遂日御利運之由、雖不始子細、御武略無比類候、今度上州へ及行、箕輪・総社・倉賀野郷村悉撃砕、作毛以下苅執、先至于当国納馬候、来月下旬今川・北条申合、必越利根川、此時可付関東之是非存分候、畢竟御入魂可為本望候、委曲期面談候間、不能具候、恐々謹言、

九月十八日

信玄(花押)

宇都宮殿

→神奈川県史 資料編3「武田晴信書状写」

 先日のご挨拶嬉しく思います。到着されましたか。その戦線で日を追って利運があったそうで、詳細は伺っていませんがご武略比類のないことです。この度上野国へ出陣して、箕輪・総社・倉賀野の郷村を撃破し、作物を刈り取りました。先程甲斐国に戻り戦備をほどいたところです。来月下旬には今川・北条と申し合わせ、必ず利根川を越えます。この時に関東のことを白黒はっきりさせましょう。ついに親しくお会いできることは本望です。詳しくは面談する時を期することとしますので、詳細は申せません。

 意外と早く読了。後半はいままでの伏線(若マーティンを援助したのは誰か、老マーティンはペックスニフに洗脳されたのか、謎の入院患者は誰か)が一気に解き明かされつつ、若マーティンとジョン・ウェストロックの恋愛が成就される。この辺りは割と前期作風の奔放な筆致が活きている。
 その一方、ジョーナス・チャズルウィットの殺人とその謎解きは後期の重厚な構成の先触れを成す。また、ペックスニフの一族はディケンズ作風で余り出てこないパターンだったので興味深い。ジョーナスに虐げられた挙句未亡人となったメリー、結婚式をすっぽかされたその姉チャリティ、零落したのに恩着せがましくトム・ピンチにたかる偽善者ペックスニフ(メリー・チャリティの父)。それぞれが滑稽な面を発揮している。
 滑稽な悪役はディケンズだとよく登場するが、『間抜け』ぶりはペックスニフが群を抜いている感じがする。最終的に偽善の仮面を剥ぎ取られて辱められるシーンでも、追求者一同の怒りと噛み合わない言動を示していたりする。『リトル・ドリット』では悪役だか善玉だかよく判らない人物が出てくるが、そのプロトタイプの一つなのだろうか。
 メリーは不幸な結婚が終わって新たな人生を始める。下巻も押し迫ってきて、ディケンズが急速にこの人物に注目し始めているのが判った。とはいえ『利己心』をモチーフとした本筋からは逸脱してしまうので自重したのではないかと思う。彼女は恋にあぶれたトムと結ばれるのかと思ったが、最後のエピソードでトムは独身のまま老いていったという描写があった。善意の権化であるトムがそれ故に自己犠牲を強いられるという矛盾は、『骨董屋』のネリーがその純粋さから夭逝するのと似ている。
 しかし、上巻・中巻の異常な退屈さは何だったのだろう……。後半は普通のディケンズだったのに。

諸国健児

山城国卅人    大和国七十人

河内国卅人    和泉国廿人

摂津国卅人    伊賀国卅人

伊勢国一百人   志摩国卅人

尾張国五十人   三河国五十人

遠江国六十人   駿河国五十人

伊豆国卅人    甲斐国五十人

相模国一百人   武蔵国一百五十人

安房国卅人    上総国一百人

下総国一百五十人 常陸国二百人

近江国二百人   美濃国一百人

飛騨国卅人    信濃国一百人

上野国一百人   下野国一百人

陸奥国三百廿四人 出羽国一百人

若狭国卅人    越前国一百人

加賀国五十人   能登国五十人

越中国五十人   越後国一百人

佐渡国卅人    丹波国五十人

丹後国卅人    但馬国五十人

因幡国五十人   伯耆国五十人

出雲国一百人   石見国卅人

隠岐国卅人    播磨国一百人

美作国五十人   備前国五十人

備中国五十人   備後国五十人

安芸国卅人    周防国五十人

長門国五十人   紀伊国六十人

淡路国卅人    阿波国卅人

讃岐国一百人   伊予国五十人

土佐国卅人

几鎮兵。陸奥国五百人。出羽国六百五十人。

→甲府市史 資料編第1巻 「諸国健児」(延喜式 二十八巻)

尾刕織田信長、東濃州出張之由申来候間、早ゝ彼地懸向、追払尤候、遠三両国之事者、別人申付候間、其心得尤候也、仍如件

三月六日

信玄(花押)

秋山伯耆守とのへ

→甲府市史「武田晴信書状」(古文書纂)

1573(元亀4)年に比定。

 尾張国の織田信長が、東美濃に出撃しているという情報が来ました。現地に急行して追い払うのがもっともです。遠江国と三河国のことは別の人に指示しますから、そのように心得て下さい。