先日者、御懇札再三披見本望候、 一、年来国家御祈念頼入候之処、此度北狄出張、国中山野之躰、被失面目之由、更不及分別候、去春恐景虎威勢、為始正木、八州之弓取不残雖寄来候、武相城之内、江戸・河越七八ヶ所之地、無相違、結句度ゝ戦得勝利、凶徒無程破北候、於所ゝ往覆之敵侍凡下討取事千余人、是偏御祈念之力哉、一旦之忩劇不苦候、畢竟此上励信心極候歟、普天之下無不王土上、御修理可走廻由、尤任御見候、然者豆州仁科之郷禁裏就御預所、先年勧修寺殿為勅使御下向之時、氏綱三ヶ年進納、其後遠境故中絶候、任彼御由緒、仁科之郷可致進上之由、覚悟仕候、 一、万民哀憐、百姓可尽礼、御意見令得其意候、去年分国中諸郷へ下徳政、妻子下人券捨、為年経迄遂糾明、悉取帰遣候、当年者諸一揆相之徳政、就中公方銭本利四千貫文、為諸人捨之、蔵本押置、現銭番所集、昨今諸一揆相ニ致配当候、家之事、慈悲心深信仰専順路存詰候間、国中之聞立邪民百姓之上迄、無非分為可致沙汰、十年已来置目安箱、諸人之訴お聞届、探求道理候事、一点毛頭心中ニ會乎偏頗無之候間、一代之内、無横合時身退者、聖人之教與存、去年息氏政譲渡位、隠遁之進退候得共、大敵蜂起、氏政若輩之間、無了簡、国家之成意見候、然ニ氏康無善根間、如此與候、此貴意、乍恐御相違候、縦善根有之共、心中之邪ニ而、諸寺諸社領令没倒様なる国主ニ付而者、如何様之大社之御修理、何度致之候共、神者不可受非礼、縦不向経論聖教、常ニ不信之様ニ候共、心中之実、即可叶天道候歟、於氏康、或不足之出家沙門お憐愍、或伽藍零廃之所歎ヶ敷間、先年午歳、鎌倉在馬之砌、諸寺・諸山周寄附田畠候キ、其外国中之神社・仏閣へ少充之料所お雖寄進仕候、一歩地茂押領之事者、一代不覚候、何之驕ニ歟、可背天道候哉、天運不尽者、一戦勝利無疑候、併人者不可如和ニ歟、 一、於諸寺・諸社、此度本意之御祈念尤ニ候、然■豆相武之内、何之地如何様之祈念を可申付候哉、不可依霊地候、唯行人ニ可有之候間、有御分別、委細非遊立候而可給候、并供物員数等可預御計事、一、不動護摩供、一、大聖金剛法、一、観音経三百三十巻、以上何之地ニ而、如何様之人ニ可申付候、
一、大嶺採燈護摩之事、於京都何之方可憑入候、供物等員数之事、如何程可入候、如何様之行ニ候、 一、聖天供之事、御請取之上、無別儀候、 一、鶴岡宿願之事、可有願書歟、願力如何様之儀、可為何ヶ条候、 一、於伊勢・熊野、如何様之行可然候、右、何茂委可注給候、得御意急度可申付候、 一、関宿様御返事、飛脚能ゝ可申付候、義尭御警固深旨、被申候、哀ゝ成就候得かしの念願候、近日半途へ罷出、此首尾可承届候、恐ゝ敬白、
五月廿八日
氏康
金剛王院 御同宿中
→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状写」(安房妙本寺文書)
1561(永禄4)年に比定。
先日は親しいお手紙を再三披見し、本望に思います。
一、年来、国家のご祈念をお願いしていたところ、この度北方の敵が出撃して国中が山野のようになり、面目を失ったとのこと。更に分別に及びません。去る春に景虎の威勢を恐れ、正木を初めとする関東の武将が残らず攻囲してきたのですが、武蔵と相模の城のうち、江戸や河越など七八箇所は無事であり、結局は度々勝利を得て凶徒は程なく敗北しました。あちこちで移動する敵の侍やその手下を討ち取ること1000余人。これはひとえにご祈念の力でしょうか。一時的な騒擾は苦しいものではありません。畢竟この上は信心を極めるよう励みましょうか。広い天の下で王土でない場所はなく、ご修理に奔走するべきとのこと、その見解はもっともです。伊豆国の仁科郷が禁裏の預所となり先年に勧修寺殿が勅使として下向した際、氏綱が三年分を進納しました。その後は遠距離もあって中断していました。あの由緒のように仁科郷を進上するようにとのこと、覚悟しています。
一、万民を哀れみ、百姓に礼を尽くすべく、ご意見はその意を得るようにします。去る年に分国中の諸郷へ徳政を発布し、妻子や下人の売り証文を捨て、年を遡って解明しました。ことごとく返還しています。当年は諸一揆の人々に徳政を行ない、とりわけ公方銭の本利4000貫文を諸人のために破棄、蔵本を押収して現金を番所に集め、昨今は諸一揆の人々に配布しています。家のことは、慈悲心と深い信仰の順路を専らとして考えを突き詰めており、国中の聞こえとして、民百姓の上までも非分なく裁断するために十年来目安箱を置き、諸人の訴えを聞き届け、道理を探求しておりますこと、一点でも毛頭でも心中に差別の心がきざしたことはありません。一代の内で大過なく時宜を得て身を退くは聖人の教かと思い、去年に息子の氏政へ位を譲渡しました。隠遁とはなりましたが、大敵が蜂起し、氏政は若輩なので了簡を得ず、(私が)国家の意見をなしました。ところが氏康は善根がない。と、あなたの意見はこのようでした。恐れながら相違があります。たとえ善根があったとしても、心が邪悪で諸寺・諸社の領地を傾けるような国主であれば、どのような大社の修理を何度したところで神は非礼として受けないでしょう。たとえ経論聖教に向かず、常に不信心であったとしても、心中に実があればそのまま天道にかなうものではありませんか。氏康においては、あるいは貧しい『出家沙門』を憐愍し、あるいは伽藍が廃れているところを嘆かわしく思い、先の午歳に鎌倉へ行った際、諸寺・諸山へ田畠の寄附を斡旋しました。そのほか国中の神社・仏閣へ多少の領地を寄進こそすれ、一歩の地でも押領するなら一代の不覚と考えています。何の驕りでしょうか。天道に背くのでしょうか。天運が尽きなければ一戦して勝利は疑いありません。そして和するものではないでしょうか。
一、諸寺・諸社において、この度本意のご祈念を行なうのがもっともです。伊豆・相模・武蔵の内で、どの神社にどのような祈念を指示すべきでしょうか。霊地によるものではありません。ただ行人によるものですから、分別して下さい。委細は『遊立』でなく送って下さい。同時に、供物の見積もりなどもお願いします。一、不動護摩供、一、大聖金剛法、一、観音経三百三十巻、以上を、どの神社でどのような人に指示すればよいでしょうか。
一、大嶺採燈護摩のこと。京都のどなたにお願いすべきか、その供物の数量など、どのようにすべきでしょうか、またどのような段取りで行なえばよいでしょうか。一、聖天供のこと。お受け取りいただければ『別儀』はありません。一、鶴岡への宿願のこと。願書はあるべきでしょうか。願力はどのようにし、何ヶ条にすべきでしょう。一、伊勢・熊野において、どのような段取りがよいでしょう。右は、いずれも詳しく報告をいただきたく。ご同意を得て取り急ぎ指示します。一、関宿様のご返事は、飛脚によくよく指示し、里見義尭のご警固を深くする旨、申されました。心から成就してほしいという念願です。近日に途中まで参上し、この成果を直接うかがえればと思います。
安房妙本寺文書=明治19年作成のモノで、同時代史料の価値はない。
負け組の北条氏を礼賛する軍記・家譜・分限帳などの類と思われる。
写ししかない=つまり原本がないのは、なぜか?????????
上杉家の歴代古案の解題で、元禄時代作成と、由来伝承不明が言及されており、
古文書の写しは、信用できるとする見解自体、アヤマリ。
武相城之内、江戸・河越七八ヶ所之地>北条氏の時代に、江戸が重要拠点として
経営されていた事実はないですけど。
江戸とか、百姓とか、思いっきり江戸時代の用語では?
全体的に、北条、上杉系統の軍記モノみたいな記述。
戦国遺文自体、最近になって発行された本であり、徳川、織田、豊臣、公家などの公文書や歴史書が、既に信頼の置ける情報として存在しており、
覆すようなモノではない。
ご意見ありがとうございます。
安房妙本寺文書ですが、1886(明治19)年と仰っているのは刊本ではありませんか? 明治になって古文書が作成されたのではなく、元からあった中世史料を活字にしたものと思います。同様に『戦国遺文』も刊本は昭和になってからですが、採録された史料は既に存在した古文書で、それぞれの所蔵元や出典も逐次記載されています。
また、安房妙本寺文書は後北条氏の文書のみで構成されたものではありません。朝比奈親徳のものも含まれるほか、房総諸大名の文書も存在します。その他日蓮宗に関係した記録も残されておりますので、「北条氏を礼賛する軍記・家譜・分限帳などの類」というご指摘には当たらないものと思います。
後北条氏の時代に江戸が重要拠点ではなかったという点は論拠が不明です。『所領役帳』にある江戸衆はその他の衆よりも多く、房総・常陸方面への出撃拠点として重要視されています。必要であれば文書をアップしますが、まずはそちらの論拠をお示し下さい。
「百姓とか、思いっきり江戸時代の用語では?」とのことですが、戦国期の文書ではごく普通に出てきます。御成敗式目で既に「百姓」は使われておりますので、なぜ近世しか用いなかったと判断されたのか疑問に感じました。
自由なご意見をいただくのは大歓迎ですが、もう少し情報をお書きいただければと思います。
なお、『歴代古案』についてはこの文書と直接関係がありませんので、回答は省かせていただきます。
東大史料データベース。
古文書が正しくて、歴史書が間違い、という考え自体が間違いですよ。
古文書=だいたい原本が存在せず、写ししかない、その写しの判読間違い。
歴代古案のように、あからさまな合成捏造文書がある。
だいたい、徳川、織田、豊臣の伝える正史を無視して、今川、北条の史料?が正しいという思想に問題あり。
凶徒は、歴代古案だと、一向一揆のことになってる。
信長公記では、一向一揆や敵対勢力を、凶徒などと呼んでいない。
コメントありがとうございます。ただ、ご説明が全くかみ合っていないように存じます[がーん/]
前回ご指摘した内容に対するご返答がないのでご回答ができずにおりますが、まず「東大史料データベース」なるもののご説明をお願いします(東京大学史料編纂所データベースであったとして、どこを指すのでしょうか)。また、それが「安房妙本寺文書が後北条氏よりの軍記に類するものではない」「百姓の表記は近世のみ」「江戸は後北条氏重要拠点ではなかった」との論拠となるかのご説明をきんとなさって下さい[ふむ/]
論点以前にご自身の史料認識を疑ってしまいますので、断定されるのであればご説明は明快にお願いします。「だいたい、徳川、織田、豊臣の伝える正史を無視して、今川、北条の史料?が正しいという思想に問題あり」とは論点のすり替えではありませんか?(「正史」の具体的な史料名もありません……)[いやー/]