なをゝゝ申候、むめれう人ある事に候、まゝ人体之事ハ、それの御はうたいにて候へく候、かやうに申候とて、きやうてんハあるましく候、申候やうに、ちんちうのならいしか候、まゝ申事候ゝ、こんとの動かるゝとすも■■■神領衆又けいこ三浦なと申て、如此候、口惜候、古はくになかもちおき候、しせんの時ハめしよせ候へく候、又太刀も古はくに候、とりよせ候へハ候、
このかた、てきけひいて候て、せひなく候、さりなからゝゝめつらしき事ハ、あるましく候、まゝ、御こゝろやすく候へく候、ちんちうのきたうにて候まゝ、一ふてくたしおき候、このき御きやうてん候ましく候、ゝゝ、けん大郎ことわたり候、きよ水、又むりやうじ・つしま・志よほくところへ、あてところにて候、むめれう人ある事に候、頼申おくとの事候、めてたき■■■申候へく候、
 かしく
九月廿九日
 たか兼(花押)
[上書]
こん まいる
 宮嶋より たか兼

→豊前市史「弘中隆兼書状」(西郷文書)

1555(天文24)年に比定。豊前市史翻刻では「きよ水又むせやらん、つしまニよほくところへ」となっている部分を、同書所収の書状画像とトロロヅキ氏指摘に基づき「清水、又むりやうじ・つしま・志よほくところへ」と改変。

 この方、敵の警固船がいて致し方ありません。とはいえ珍しいことではありませんので、ご安心下さい。陣中の祈祷があるので、一筆申し上げました。このことで驚かれませんように。源太郎は渡海しました。清水寺・無量寺・対馬守・諸卜軒のところを宛所にしています。梅を料人にすること、頼みを伝えておくと伝えました。めでたい知らせをお送りしたいと思います。

 さらにさらに申します。梅は料人とすることです。そのまま身柄はそこの出家にするように。こう言ったからとしても、仰天なさいませんように。申しているように、陣中の習いの通りですから、そのまま申します。今度の作戦は楽々できるだろうと神領衆や警固・三浦などが言って、このようになりました。悔しいことです。琥珀院に長持を置いています。万一の時は取り寄せて下さい。また、太刀も琥珀院にあります。取り寄せて下さい。

為敵船後巻、数艘令渡海、敵城へ人数差籠成相候、此方警固数依無之、如此之儀、不及是非候、既水手迄堀崩事候、隆兼父子渡海之上者、可立御用事勿論候、然者息女梅〓[米+斤]人事、在之儀候条、当知行之儀者不及申候、御約束地無相違拝領之儀、申沙汰専一候、人躰事、是又可有分別候、能々城与可申合事干要候、吉事可申候、恐々謹言、
九月廿八日
 隆兼(花押)
清水寺
無量寺
弘中対馬守殿
諸卜軒
[切封墨引]
清水寺
無量寺
各中
 弘中三河守 隆兼

→豊前市史「弘中隆兼書状」(西郷文書)

1555(天文24)年に比定。

 敵船が援軍として数艘渡海してきて、敵の城へ兵員を籠もらせています。こちらの警固は数が不足しており、このようになりました。どうしようもありません。既に水の手まで掘り崩しています。隆兼父子が渡海した上は、御用に立つのは勿論のことです。ということで私の娘「梅」料人のこと、これもまた分別があるでしょう。よくよく城と協議することが肝要でしょう。吉報を申すでしょう。

今度氏政折角之段申越候、乍父子間之儀、彼所存無拠歟、愚老同意ニ候、雖然、不安一ケ条、一国任置申処、名利共可失本意事如何、輝虎雖過御作意間敷、併以御馳走、上州半国宛被相拘候之様、念願候、就中、今度信玄敗北付而、氏政心中可乗勝歟、爰元糾明之処ニ、一度申合筋目、敵敗北之上、弥相違有間敷由候、於愚老令満足候、畢竟不被醒信玄敗北之鉾、至于信州御出張、氏政則甲州へ可乱入候、越相此節ニ候、聊被延付者、不可有曲候、次遠州之儀、兵粮然と断絶候、来上旬踏越間敷之由、使者共見届候、此儀御調儀催促ニ相似候歟、八幡大菩薩・三嶋大明神可御罰候、一点非虚説候、さて遠州至于御滅亡者、誠賊後之弓矢、何歟も不入子細候、恐々謹言、
卯月廿七日
 氏康(花押)
松本石見守殿

→小田原市史 資料編826「北条氏康書状」(山形県米沢市・米沢市教育委員会所蔵上杉文書)

永禄12年に比定。

 この度氏政が同盟実効への疑義を申し立ててきました。父子の間のことですが、あの者の考えも致し方ないことでしょうか。私も同意しています。心穏やかでないとはいえ、一国全てを任せておいたところ、名利とともに本意を失ってしまいそうです。これはいかがでしょう。上杉輝虎に妙な考えがあるとは思っていませんが、合わせてご奔走いただき、上野国半国ずつ分割にできませんか。念願しています。とりわけこの度武田晴信が敗北したことで、氏政は心中で勝ちに乗っているのでしょうか。こちらで検討してみたところ、一度は合意した事柄だから、敵が敗北した上は、ますます相違があってはならないだろうとのことです。私も満足しています。結局のところ晴信が敗北から醒めぬうちに信濃国に侵攻するなら、氏政はすぐに甲斐国へ乱入するでしょう。越後・相模の同盟の意義はこの時にあります。少しでも遅延があれば、それは曲事でしょう。次に、遠江国のことは、兵糧が完全に途絶えました。来る上旬までは持たないだろうとのことと、使者が確認しました。このことが交渉・駆け引きで言っているのであれば、八幡大菩薩・三嶋大明神の神罰を蒙るでしょう。一点の嘘もありません。さて、遠江国が滅亡するならば、本当に『賊の後の弓矢』です。どのような事情も入りはしません。

十二日之一札、今十四申刻披見、 一、沼田・吾妻之儀付而、自是も申候キ、 一、人衆者、上下両手ニ千程可有之候歟、自妙音院書立被越候、 一、沼田ニ而もたいの儀者、城不請取間者、自元為如何、自此方貸可有之候、 一、妙音院、明日明後日之間ニ、当地迄可有着府候、其上京衆小田原可通是非糺明候者、可聞得候、其上可申付与之儀候、 一、京都へ召連者之事者、自諸手五騎三騎ツゝ迄候、我ゝ一騎上ニ而済候、多人衆不入候、申付候分をハ、無由断御支度、又奏者方へも、弥可有下知候、未百日之以後之事候間、致何様候共、遅ゝ者有間敷候、 一、沼田請取人之事者、左衛門佐ニ昨日落着、被申付候、 一、沼田請取而より後之もたいハ、貴所之外有間敷候間、無由断御心懸専一候、恐々謹言、
七月十四日
 氏政(花押)
安房守殿

→小田原市史1952「北条氏政書状」(埼玉県秩父市・内田たま子氏所蔵)

天正17年に比定。

 12日の手紙、今日14日申刻に見ました。一、沼田・吾妻のことについては、こちらからも申しました。一、部隊は、上下両手で1,000程もいますでしょうか。妙音院より『書立』(一覧?)が来ました。一、沼田での『もたい』(接待?)のこと。城を受け取っていない間は元より、どれもこちらからの貸しとするべきでしょう。一、妙音院は明日・明後日には当地へ到着するでしょう。京都の衆が小田原を通過するかどうかの検討は、結果報告を聞いてから指示するだろうとのことです。一、京都へ同行させる者のことは、諸手から数騎ずつまでとします。自分は1騎で済ませますから、大人数は不要です。指示した分は油断なく準備し、また、奏者にもくれぐれも指示を出しておきますように。まだまだ100日も後のことですが、何があっても遅れがあってはなりません。一、沼田を接収する者は、昨日左衛門佐に決まり、命令がありました。一、沼田を受け取って以後の『もたい』は、あなた以外はありえませんので、油断なく心がけ注意して下さい。

<

blockquote>

拙者父子一人可令上洛旨、御両使御演説之条ゝ、具得心仕候、然者老父氏政可致上洛由申候、年内者雖可為無調候、涯分令支度、極月上旬、爰元可致発足候、委細直ニ可申述候、可然様頼入候、恐々謹言、

六月五日

 氏直(花押)

妙音院

一鴎軒

→小田原市史1945「北条氏直書状」(岡本文書)

天正17年に比定。

 拙者の父子から1人が上洛せよとのこと、ご両使のお話は一つ一つ詳しく心得ました。ということで老父氏政が上洛するとのことを申します。年内は調整が難しいのですが、最大限に支度を急いで、12月上旬にこちらを出発します。詳しくは直接申し上げるでしょう。そのように頼み入ります。

沼田可渡由有之而、自京都冨田・津田、沼田へ可為参着由候、依之安房守半途へ打出為陣取、自是為請取手、左衛門佐指遣候、 一其方人衆之内、馬・人以下被撰立、能衆弐百余人、自身安房守可為同途、歩者者、何もひやくゑ、馬上者、或袖ほそ・かわはかま・たうふくの類、武具ニてハ有間敷候、 一弓・鉄炮なとハ、調次第如何ニも奇麗ニ尤候、火急之儀候間、不成儀をハならぬ一理迄ニ候、恐々謹言、

追而日限者、来廿五、六之儀ニ可有之候、以上、

七月廿日
 氏直(花押)
安中左近大夫殿

→小田原市史1953「北条氏直書状」(市谷八幡神社文書)

天正17年に比定。

 沼田が引き渡されるということがあり、京都より冨田・津田が沼田へ行くそうです。よって安房守が途中まで出て行って陣を構えます。こちらからの受け取り手として左衛門佐を派遣します。一、あなたの部隊から馬・人を選んで、精鋭200余人を編成、あなた自身は安房守に同道して下さい。歩兵は全て白衣、騎馬兵は袖細か皮袴・道服の類で、甲冑を着けてはいけません。一、弓・鉄砲などは揃い次第ですが美麗にするのが望ましいです。火急の用件なので、「できない」ことは認められません。

雖無指儀候、商人左近士上洛候間、及一翰候、抑其以来海陸共ニ不合期候条、無音、誠背本意候、勇健ニ御入候哉、旦夕御床敷候、就中関東表之事、逐日氏直令静謐候、路次在自由、今一度遂会面度念望迄候、随而雖不珍候、八丈嶋[黄白]一合、進之候、猶期後音之時候、恐々謹言、
十月七日
 氏政(花押)
一謳軒

→小田原市史1624「北条氏政書状」(福山市・承天寺所蔵)

『兼見卿記』天正12年11月22日条「自相州北条氏直、去年遣祓、其返事在之、八丈嶋五端到来了、左近士罷下、即使者右近允ヲ遣了」とあることから、天正12年に比定。

 さしたる用事はありませんが、商人の左近士が上洛するので一筆に及びます。そもそもあれ以来は海陸ともに都合がつきませんでしたのでご無沙汰し、本当に不本意でした。お元気でしょうか。朝夕にお懐かしく思っています。とりわけ関東方面のことは、日増しに氏直が鎮圧しております。交通も自由になりました。また一度お会いしたいと願っています。そして珍しくもありませんが八丈織の黄白を1揃いお贈りします。さらに後での便りを期しましょう。

出陣以後是非不申届候、手前取乱儀者雖勿論候、背本意候、又兎角不承候、恨入候、然而今度之動、越国表迄、如思召候之条、定可為大慶候、将又鷹証本草之抜書ニ候、遣之候、委細ニ仮名・点被付可給候、次任珍事、鮭三尺遣之候、賞味可為祝着候、恐々謹言、
九月十五日
 氏照(花押)
一謳軒

→戦国遺文 後北条氏編2020「北条氏照書状」(尊経閣文庫所蔵文書)

花押形により天正6年に比定。

 出陣以後の是非をお届けしていませんでした。こちらが取り乱したのは勿論ですが、本意ではありません。また、あれこれご連絡もありませんでした。恨み入ります。そして今度の作戦では、越後国方面まで思い通りになさいますので、きっと喜ばしいことになりましょう。そしてまた、鷹証本草の抜書きをお送りします。詳しく振り仮名や返り点をおつけいただけますでしょうか。次に、珍しいことなので鮭3尺をお送りします。ご賞味いただければ幸いです。

御免棟別何茂一返被仰付候、然者其方御手前其外役人寺方何も被指置、惣次ニ候へ共、重而三浦備後守方御承にて、何茂可相破之由候処、備後守方ヘ子細被仰分、其上同心河口方を以、古槇平三郎方へ被仰届断相済候間、向後惣国相破候共、如先御判之不可有別条候、可有御心安候、恐々謹言、
亥 四月十日
 朝比奈丹波守 親徳(花押)
高松 神主殿 参

→戦国遺文 今川氏編1909「朝比奈親徳書状」(御前崎市門屋・中山文書)

永禄6年に比定。

 免除なさった棟別を、どれも解除するよう仰せになりました。ということであなたの手持ちのほか、役人・寺方の何れも差し押さえました。一律でということですが、重ねて三浦備後守で請け負ってもらいました。例外なく解除とのことだったところ、備後守に事情を仰せになり、その上で同心の河口から古槇平三郎へ仰せ届けられ、許諾されました。今後は国単位で破棄となっても、先のご判形の通り別状があってはなりません。ご安心いただけますよう。

急度染■■■[一筆候]、■■[仍而]敵地内通之族如申越者、於其■■■■[地謀叛之]輩就有之、其地へ成揺之由候、城内之用心不可有由断候、自然三十六人衆之内、謀叛之輩可有之歟、不審ニ候、高野被相談、用心等可被入于念候、為其越早飛脚候、猶長々在番、苦労不知謝候、近日番替可相移候、可御心安候、恐々謹言、
九月八日
 勝頼(花押)
上条伊勢入道殿[後閑信純]
伴野宮内少輔殿
小幡民部助殿[昌高]
依田能登守殿[阿江木常林]
竹■[重]藤五郎殿

→戦国遺文 武田氏編2173「武田勝頼書状」(長野県長和町・竹重家文書)

天正1年に比定。

 取り急ぎ一筆申し上げます。さて敵地内通の輩が報告どおりなら、その地において謀叛の輩がいます。その地へ揺さぶりがあったとのことです。城内の用心で油断があってはなりません。万一にでも、三十六人衆(三方人衆?)のうち謀叛の輩がいるのでしょうか。不審です。高野と相談されて、用心など念を入れられますように。そのために早飛脚を派遣します。なお、長々在番の苦労は謝すところを知りません。近日番替えで移しましょう。ご安心下さい。