「義元」袖判 「氏真」袖判

朝比奈帯刀売渡金原屋敷之内、南角拾壱間ニ中壱尺、東堅弐拾四間ニ中、北横拾弐間、西堅弐拾弐間ニ中、合弐百参拾坪余之事、右、自先規地子無之、任沽券之旨永可相拘之、不可有相違者也、仍如件、

弘治参年 正月廿三日

井上但馬守殿

→戦国遺文 今川氏編「今川義元判物写」(駿河志料巻七十八友野文書)

朝比奈帯刀が売り渡した金原屋敷のうち、南の角11間に中1尺、東の縦24間に中、北の横12間、西の縦22間に中、合計で230坪余りのこと。右は、先規により地子はない。売却証書に応じて末永く保持するように。相違があってはならない。

今度就忩劇犬居七人之者、令同道走回候段、喜悦之至也、然間為其賞、本意之上、於駿・遠両国之内、以望之地百貫文領地可充行、守此旨弥於山中筋、無相違様子可令馳走者也、仍如件、
永禄十二[己巳] 正月廿日
 氏真判
鈴木尉殿

→戦国遺文 今川氏編2255「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎所持文書)

 この度の紛争で犬居七人の者について、同道して活躍した段は、喜悦の至りである。ということなのでその賞与として、本意の上、駿河・遠江両国のうち、希望する土地に100貫文の領地を宛て行なうだろう。この旨を守り山中筋において相違の様子なく奔走するように。

今度就錯乱、自最前当城為音信相越、殊山中方々走舞令忠節之条、甚以怡悦之至也、為其賞久野脇郷、為新知行所出置也、若雖有競望之輩、今度依忠節宛行上者、一切不可許容、守此旨、弥可抽奉公者也、依如件、

永禄十二[己巳]年 三月廿七日

上総介判

鈴木源六殿

→戦国遺文 今川氏編2326「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎所持文書)

この度の錯乱について、最前より当城が相模・越後に連絡をなし、特に山中に方々が奔走して忠節をなさいましたので、本当に嬉しい限りである。その恩賞として久野脇郷を、新知行として拠出する。もし競望のやからがあったとしても、この度の忠節によって宛て行なった上は、一切許容しない。この旨を守り、ますます奉公にぬきんでるように。

就今度錯乱、山中筋無別条走回之段、喜悦之至也、然間為其賞、遠州森之内大田郷百疋之所、為新知行宛行也、雖有競望之族、依今度忠節出置上者、一切不可許容、守此旨弥可抽忠功者也、仍如件、

永禄十二[己巳] 二月廿六日

 氏真判

鱸尉殿

→戦国遺文 今川氏編2286「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎所持文書)

 この度の錯乱で、山中筋で別状なく活躍した段、喜悦の至りである。ということなのでその恩賞として、遠江国森のうち大田郷100疋の地所を、新知行として宛て行なう。競望のやからがあったとしても、この度の忠節によって拠出したものである上は、一切許容しない。この旨を守りますます忠功にぬきんでるように。

参州大野田之事

右、菅沼新八郎爾雖令扶助、今度忠節之上、遂其理、為本地之条、如前々還附訖、永可令知行者也、仍如件、

永禄元[戊午]年四月十三日

治部大輔

奥平監物殿

→戦国遺文 今川氏編1391「今川義元判物写」(東京大学総合図書館所蔵奥平松平家古文書写)

三河国大野田のこと。右は、菅沼新八郎に与えたとはいえ、この度の忠節の上は、その理を遂げて本知行となすべきなので、以前のように還付しました。末永く知行するように。

別而可抽奉公之由候之条、為重恩三輪彦右衛門知行出置候者也、仍如件、

永禄十二 二月十四日

 信玄(花押欠)

御宿左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編2274「武田晴信判物写」(国立公文書館所蔵古今消息集八)

 特別に奉公にぬきんでているだろうとのことですから、重ねての恩として三輪彦右衛門の知行を拠出するものである。

去辰年錯乱之刻、無二爾自構父子共令供、老母・兄弟共無残召連、妻子之義者、大草次郎左衛門妻子同前ニ豆州江相退、懸河籠城中昼夜父子於三輪構、別而無油断走廻、殊敵天王山江取懸刻、合首尾無比類走廻之段、粉骨之至也、然本地・代官職代々之判形数多雖有之、於葉梨大澤令失膓云々、前々本地田畠・山屋舗所々、府中居屋舗、抱之屋舗并冨士又七郎分為替地、前須津代物方出置分不可有相違、増分荒地・芝河原切起、新田等前出来之、随其勤其役、兼又天澤寺殿御代一乱之時茂、父元辰構江相移、其後長久保・三州苅屋・重原所々於陣中、無比類射矢走廻之段、代々之忠節感悦也、縦本地・所々代官職如何様之横合雖有競望之輩、忠節無紛之条、一切不可許容、弥奉公可抽軍忠者、仍如件、

元亀二[辛未]年 卯月廿一日

 氏真(花押影)

三浦八郎左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編2482「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵記録御用所本古文書十三)

去る辰年の騒乱の際、躊躇なく『構え』より父子で随行し、老母と兄弟も残らず帯同した。妻子については、大草次郎左衛門の妻子と同じく伊豆国へ避難させた。掛川の籠城では三輪『構え』において昼夜特別に油断なく活躍し、ことに敵が天王山へ攻撃した時には、手順を合わせて比類なく活躍しているから、粉骨の至りである。しかるに、本知行・代官職において、代々の判形が多数あるとはいえ、葉梨の大沢において紛失(?)したとかいうことで、前々の本知行の田畑・山屋敷の処々、府中の居館と保持している屋敷、ならびに冨士又七郎分替地、前に須津代物方から拠出した分は相違があってはならない。増産分や荒地・川原を開墾した分、新田など以前に出来た分は、その勤務内容や役職に従う。かねてより、天沢寺殿(義元)が家督を取った一乱の時も、父の元辰は『構え』へ移り、その後は長久保・三河国刈谷・重原などの陣中において、比類なく矢を射ち活躍したのは、代々の忠節として感悦である。たとえ本知行・処々の代官職でいかなる異議が出て係争しようとも、忠節が本物であるのだから、一切許容しないだろう。ますます奉公し軍忠にぬきんでるように。

前々其方就若気、逆心雖仕候、今度味方候上者、吉衛門尉忠節之為候間、約束之分不可有無沙汰、然者大墳之郷一円ニ浦山役所并屋敷共、可為罷成出置候上者、永相違有間敷候、殊長沢為親類之間、同名士へ有同心、陣番可仕、次藤次郎・同藤八郎儀者、如吉衛門尉之時、合力可仕者也、仍如件、

永禄七年[甲子] 五月十四日

 蔵人 家康(花押影)

岩瀬河内守殿

→戦国遺文 今川氏編1987「松平家康判物写」(静嘉堂文庫所蔵集古文書タ)

 以前あなたは若気の至りで逆心をしましたが、この度味方となる上は、吉衛門尉が忠節をしましたので、約束の分を無沙汰にしてはなりません。ということで大塚郷一円の浦・山・役所・屋敷は知行として拠出しますので、末永く相違があってはなりません。特に長沢とは親類ですから同姓として同心して、陣番を勤めるように。次に、藤次郎・同じく藤八郎のことは、吉衛門尉の時のように協力させるように。

岩瀬雅楽助兵粮、今度忩劇之刻、鵜津山城へ籠置分、朝比奈孫六郎へ相断請取之、雅楽助ニ可相渡之者也、仍如件、
永禄七年 二月廿六日
 氏真判
太原肥前守殿

→戦国遺文 今川氏編1965「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵三川古文書)

 岩瀬雅楽助の兵糧について。この度の紛争の際に鵜津山城へ移して保管した分を、朝比奈孫六郎の許可をもらった上で受け取って、雅楽助に渡すように。

去年西郡払退候段為忠節之条、任訴訟之旨、御油并みとの郷、同陣夫四人永扶助畢、猶西三河本意之上、一所可扶助、守此旨、弥可励忠功之状如件、
永禄六発亥 十二月廿六日

 上総介(花押影)

戸田弥三殿

→戦国遺文 今川氏編1950「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵伯耆志)

 去る年西郡を撤退する過程で忠節をなしましたので、希望する内容のままに御油と『みと』の郷、その陣夫4人を末永く扶助する。さらに西三河が本意となった上で1箇所を扶助するだろう。この旨を守り、ますます忠功に励むように。