今度就錯乱、自最前当城為音信相越、殊山中方々走舞令忠節之条、甚以怡悦之至也、為其賞久野脇郷、為新知行所出置也、若雖有競望之輩、今度依忠節宛行上者、一切不可許容、守此旨、弥可抽奉公者也、依如件、

永禄十二[己巳]年 三月廿七日

上総介判

鈴木源六殿

→戦国遺文 今川氏編2326「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎所持文書)

この度の錯乱について、最前より当城が相模・越後に連絡をなし、特に山中に方々が奔走して忠節をなさいましたので、本当に嬉しい限りである。その恩賞として久野脇郷を、新知行として拠出する。もし競望のやからがあったとしても、この度の忠節によって宛て行なった上は、一切許容しない。この旨を守り、ますます奉公にぬきんでるように。

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