一、畠山相果被申後者、信長殿へ付申、則高野御改被成、其儀ニも弐拾五人之者先手を仕候へと、長谷川お竹・ふくすみ之両人御承ニ而御諸参候、信長殿之人数者松山新助、ゑほしかた衆、則生地表之持口、隅田弐拾五人者東家表之持口、大津口者中村孫平次、根来連判衆、其外侍衆持口、然処高野衆東家表へ打出被申候、則隅田弐拾五人持口ニ而御座候ニ付、鑓を入進崩シ候へ者、其後又生地表ゑほしかた衆持口へ懸り申候処、其持口之衆と合戦御座候而ゑほしかた衆手柄を被仕候、其時も弐拾五人之者則よこ鑓を入合戦を致し、清水迄追込申候事、

→証言 本能寺の変「墨田党由緒書」(上田正嗣家文書)

一、畠山が果てられた後は、信長殿へついて、すぐに高野をお改めとなりました。そのことで25人の者を先鋒とせよと、長谷川お竹と福住の両人から承り諸々参りました。信長方の部隊は松山新助・烏帽子方衆が生地方面の担当、隅田の25人は東家方面の担当、大津口は中村孫平次・根来連判衆・その他侍衆の担当。そうしたところ、高野衆が東家方面へ攻撃してきたとの情報があり、墨田25人の担当方面だったので槍を入れて反撃、相手を崩しました。その後また生地方面の烏帽子方衆担当へ攻撃がありましたので、その担当部隊と合戦いたしまして烏帽子方衆は手柄を立てました。その時も25人の者は横槍を入れて合戦をして、清水まで追い込んだのです。

猶ゝ、越年之義不成事候、各有談合、一途輝虎相心得任入候、鳥目召仕之者共ニ出候へとも、令侘言、及暇令闕落候、爰元可察候、

雖未相届申越候、爰元越年之事、不調不尋常候、如何も自要害合力、参千疋被越候へとも、世間只今之義相替候間、用所不成事候、余日無之候処、如斯申越候事被察、輝虎各有談合、相心得任入候、委者彼口上ニ申含候、謹言、

極月廿六日

光徹(花押)

河角三郎右衛門尉殿

→群馬県史 「光徹[上杉憲政]書状」(山形県 照陽寺所蔵文書)

1562(永禄5)年に比定

追:なおなお、越年がならないことです。それぞれ相談して、一途に輝虎へ任せています。金子は召し使う者達に支給したとはいえ、理由を言って退職し、いなくなってしまいます。こちらの状況お察し下さい。

 いまだに報告が届いていないとはいえ、こちらで越年することは、調わず聞かずが常です。どうにかして要害から助力してもらい、3,000疋(30貫文)をいただきましたが、今の世間のことは移り変わったので、用所は成らないことです。余日もなかったところ、このようにお伝えすることをお察し下さい。輝虎がそれぞれと相談し、その心得は任せています。詳しくは使者の口上に申し含めています。

「(封紙ウハ書) 「(後筆)平井上杉」
赤木山大夫奈良原紀伊守殿 光哲」

就越山当山へ立願之子細候、於向後者為祈願所抽精誠祈念可為肝要候、殊不入事得其意候、仍如件、

永禄三年

九月廿七日

光哲(花押)

赤木山大夫

   奈良原紀伊守殿

→群馬県史 「光哲判物」(勢多郡 奈良原文書)

 越山について当山に立願する詳細です。今後においては、祈願所として精誠にぬきんでて祈念することが大事でしょう。特に不入については心得ました。

(封紙ウハ書)「外郎七兵衛門尉 憲政」

今度不思議之世上、以普代之筋目令参府候、喜悦之至候也、

八月三日

憲政(花押)

外郎七兵衛門尉

→群馬県史 「上杉憲政判物」(碓氷郡 陳外郎文書)

花押形状が光徹書状と一致

 この度不思議な巡り合わせで、譜代の筋目によって参府させました。喜悦のいたりである。

其以来者、是非之儀無之候、仍同名平三上州へ差遣使僧帰候間、彼国之様躰弥以聞届候間、越山之義、可相急候、無油断用意簡要候、定而爰元之儀等、従平三方可申越候、将又山中路次之事、可被申付候哉、尤候、謹言、

(付箋)「天文廿一」

五月廿四日

成悦(花押)

長尾越前守殿

→群馬県史 「成悦[上杉憲政]書状」(山形県 伊佐早文書)

 それ以来は、是非もありません。そこであなたと同姓の平三が上野国へ派遣した使僧が帰るというので、あの国の状況をさらに聞き及びました。なので越山の件は急いで下さい。油断なく用意することが大切です。きっとこちらのことなどは、平三方より報告するでしょう。一方で山中の路次のこと、指示されましたでしょうか。

(端裏押紙)「三俣将監与佐田舎人」

一 関東江 御出馬之始者、かのへ申之年、関東御手ニ入、みつのへいぬの年、鎌倉八幡宮ニ而、官領職謙信様江ゆつり御申被成、諸大名衆御祝儀被成候由、及承候、

一 永禄二年かと覚申候、越後へ 官領様御同心御申被成候由、及承候、

一 官領様御生害者、天正七・三月十八日と覚申候、

一 三郎殿・三月廿四日ニ、鮫か尾ニ而御切腹被成候、

一 御参内之時も上杉之独り上臈と申、御家高キ事と、河田豊前守朝夕物語申候、

一 官領様こがに御出陣之時も謙信様馬を被寄候時も、下馬被成、御対陣之由候、敵ニ御座候へ共、うやまい御申候由、豊前守度ゝ申事候、

右条々、佐田舎人聞伝ニ覚候通申上候、

→群馬県史 「佐田舎人覚書」(山形県 上杉家文書)

一、関東へのご出馬の最初は、庚申の年(永禄3)。関東を手に入れられ、壬戌の年に鎌倉八幡宮にて管領職が謙信様へ譲られたそうです。諸大名たちは祝儀をなされたとのこと、聞き及んでいます。
一、永禄2年かと覚えていますが、越後へ管領様が同心を申し出られたとのこと、聞き及んでいます。
一、管領様が自殺なさったのは、天正7年3月28日と覚えております。
一、三郎殿は3月24日に鮫が尾にて切腹なされました。
一、ご参内の時も「上杉だけが上臈(身分が高い)で家格が高い事だ」と、河田豊前守が朝に夕に語っておられました。
一、管領様が古河にご出陣の時、謙信様は攻撃なさいましたが、下馬されて対陣されたとのことです。敵になられても敬っておられたと、豊前守が度々申していました。
右の条項は、佐田舎人が聞き伝えて覚書として報告するものです。

其方同名之仁等始、八州悉北条与一味、既ニ及切腹候事、前後忠信不可有比類次第候、於治国ハ、為加恩其方同名但馬之一石差出置之候、尤名字中之可為棟梁者也、仍如件、

永禄元年

五月五日

憲政

長尾孫六殿

→群馬県史「上杉憲政判物写」(上杉輝虎公記所収文書)

あなたの同姓の人を始めとして、八州は全て北条と一味し、既に切腹に及んだことは、過去未来にわたり忠信の比類があってはならない次第です。治国においては、加増としてあなたと同姓但馬(足利長尾氏)の跡地を差し出します。長尾一族の中で最も棟梁たるべき者です。

不思議之世上故、当国打越候、然処、爰元相調候間、近日上州可打入候、長尾弾正少弼有談合、一途可被稼候、将又為祝太刀一腰并鳥目如書中給候、怡悦候、随而太刀一進之候、恐々謹言、

七月三日

成悦(花押)

平子孫太郎殿

→群馬県史 「成悦[上杉憲政]書状写」(武州文書 府内下禅僧宗列)

 不思議な巡り合わせとなったゆえに、この国に移動しました。そうしたところ、こちらは準備をしていますので、近日には上野国へ侵攻するでしょう。長尾弾正少弼と相談して、一心に戦功をあげて下さい。そしてまた祝いとして太刀1腰と金一封を書面の通りにいただきました。嬉しく思います。よって、太刀1腰を進呈します。