(端裏押紙)「三俣将監与佐田舎人」

一 関東江 御出馬之始者、かのへ申之年、関東御手ニ入、みつのへいぬの年、鎌倉八幡宮ニ而、官領職謙信様江ゆつり御申被成、諸大名衆御祝儀被成候由、及承候、

一 永禄二年かと覚申候、越後へ 官領様御同心御申被成候由、及承候、

一 官領様御生害者、天正七・三月十八日と覚申候、

一 三郎殿・三月廿四日ニ、鮫か尾ニ而御切腹被成候、

一 御参内之時も上杉之独り上臈と申、御家高キ事と、河田豊前守朝夕物語申候、

一 官領様こがに御出陣之時も謙信様馬を被寄候時も、下馬被成、御対陣之由候、敵ニ御座候へ共、うやまい御申候由、豊前守度ゝ申事候、

右条々、佐田舎人聞伝ニ覚候通申上候、

→群馬県史 「佐田舎人覚書」(山形県 上杉家文書)

一、関東へのご出馬の最初は、庚申の年(永禄3)。関東を手に入れられ、壬戌の年に鎌倉八幡宮にて管領職が謙信様へ譲られたそうです。諸大名たちは祝儀をなされたとのこと、聞き及んでいます。
一、永禄2年かと覚えていますが、越後へ管領様が同心を申し出られたとのこと、聞き及んでいます。
一、管領様が自殺なさったのは、天正7年3月28日と覚えております。
一、三郎殿は3月24日に鮫が尾にて切腹なされました。
一、ご参内の時も「上杉だけが上臈(身分が高い)で家格が高い事だ」と、河田豊前守が朝に夕に語っておられました。
一、管領様が古河にご出陣の時、謙信様は攻撃なさいましたが、下馬されて対陣されたとのことです。敵になられても敬っておられたと、豊前守が度々申していました。
右の条項は、佐田舎人が聞き伝えて覚書として報告するものです。

一氏直 馬廻 七百騎

一北条十郎 岩月城・松山の城二ヶ所 千五百騎

一氏政 馬廻 五百騎

一北条陸奥守 竹山の城 水見城 小山城 関宿ノ城 栗橋城 江ノ本城 四千五百騎

一同安房守 はちかたの城 ふかやの城 前はし城 くらかね城 みのわ城 沼田城 五千騎

一同美濃守 相州三浦城 伊豆にら山 貮ケ所 五百騎

一同左衛門助 新田の城 三百騎

一同右衛門佐 百五十騎

氏直いとこ

一同左衛門大夫 玉縄の城 これハ御わひ言申、此城渡申候、 七百騎

又いとこ

一筥根寄斎 くのゝ城 筥根山二ヶ所 三百騎

一松田尾張入道 同左馬亮 父子 千五百騎

一大道寺九郎右衛門尉 川越城 同孫九郎 松枝城 父子 千五百騎

一遠山右衛門尉 江戸の城 千騎

一坂井右衛門尉 とうかね城

一山縣上野守 同左近大夫 同四郎左衛門 百五十騎

一坂井左衛門尉 とけの城 三百騎

一與達大膳亮 三百騎

一清水 伊豆 下田の城 是ハ落城仕候、 貮百騎

 笠原

一小窪五郎 矢はぎ城 五百騎

一大藤長門守 相州田原の城 五十騎

一長南形部大夫 長南城 いけはたの城 かつみ城 三ヶ所 千五百騎

一成田 をしの城 千騎

一内藤 つくいの城 百五十騎

一千葉介 相州さくらの城 三千騎

一原大炊介 臼井城 貮千騎

一とき少弼 万木の城 へひうか城 鶴か城 三ヶ所 千五百騎

一高木 下総 こかね井城 七百騎

一十嶋 同 ふ川の城 百五十騎

一惣馬小次郎 百騎

一板野形部大夫 大臺の城 百五十騎

一皆川山城守 下野皆川城 とちき城 とみた なんま 四ヶ所 此皆川山城守ハ、先月此方へ走入申候、 千騎

一蕪木駿河守 かふらき城 三百騎

一ミふ中務 ミふの城 かのま 日光山 三ヶ所 千五百騎

一とき美作守 常陸 江戸崎城 龍かミね 木原 三ヶ所 千五百騎

氏直相伴人

小笠原筑後守 伊勢出羽守 大和兵部丞 波賀駿河守 見牛

   合三万四千貮百五拾騎

是ハ氏直分国惣人数積也、

→神奈川県史「北条家人数覚書」(毛利文書)