今度兄甚二郎構逆心、敵同意之処、為返忠申出之段、甚以神妙也、然者彼跡職知行等之事、如近年甚二郎所務宛行之畢、松井左近尉・山内助左衛門尉忠節同意之間、為同心相拘、可抽忠功者也、仍如件、

天文弐拾年

十二月十一日

治部大輔(花押)

松平甚大郎殿

→愛知県史 資料編10「今川義元感状」(観泉寺文書)

 この度、兄の甚二郎が逆心を構えて敵に同意したところ、返り忠をなしてこの件を申し出ました。とても神妙なことである。ということで、その跡職知行(遺産)などのことは、近年甚二郎が得ていたものを宛行なう。松井左近尉・山内助左衛門尉が忠節に同意しているので、同心として抱え、忠功にぬきんでるように。

  大樹寺

一寺中寺外、為私陣取令停止事

一竹木不可伐取事

一寺中門前殺生禁断事

一門前諸役、如近年免除事

一寺領・祠堂以下、徳政之沙汰不可有之事

 右、於背此旨輩者、速可処罪科者也、仍如件、

天文十九年十月十日

(今川義元花押)

→愛知県史 資料編10「今川義元禁制」(大樹寺文書)

 一、寺の内外で勝手に陣取ることは停止すること。
 一、竹木の伐採は不可であること。
 一、寺の内部と門前町では殺生が禁断であること。
 一、門前町の徴発義務は近年のように免除されること。
 一、寺の領地・祠堂銭は徳政の対象とはならないこと。
 右、この旨に背く輩においては、速やかに罪科に処するであろう。

斯波義達の実名

 斯波義達は、「義達」(よしたつ)がよく使われているが、一部に「義逵」(よしみち)としている資料も存在している。「達」と「逵」が崩し字で字形が似ることから、どちらとも判定がつかないようだ。このため記事中でも両字が併用されていたが、偏諱を受けた被官は皆「達」で呼称されている通例が多いため、混乱を避けるため「義達」で記事中も統一することとする。

徳川家康・松平元康の呼称統一

 当サイトでは人名はその人物が最も長く使ったもので、法名以外を使用することを旨としているが、徳川家康だけは例外としたいと常々考えている。「徳川」と改姓する前のこの人物は、岡崎の松平蔵人佐家の当主としての名乗り、今川義元からの偏諱を受けた直臣「元康」としての名乗りが最も相応しいものと考え、一部資料のタイトルに「松平元康」を使用していた。但し、現状ではサイト内史料の整理が進んでいないため、どこで区切って名称変更を行なうかが判然としていない。また、松平元康と名乗っている期間はごく短い。
 後北条氏も伊勢氏からの改姓が判然とせず、また伊勢姓での活動期間が短いことから「北条」で統一されていることを鑑みて、「徳川家康」で統一することを暫定処置とする。

永代うり渡申田地之事

  合弐拾貫文者

右、彼田地之事、依有要用永代うり渡処実正也、月堂より被譲候田地之事候間、公方年貢一銭も無御座候、於子々孫々不可有違乱候也、あちわ弐石七斗目、同はた四百目、うり売[衍]申候、仍永代状如件、

天文十五[丙午]年十二月廿二日

鍬谷孫三郎書判

岡崎けいたく まいる

→戦国遺文 今川氏編「鍬谷孫三郎売券写」(東京大学史料編纂所架蔵三川古文書)

 永代で売却する田のこと。都合20貫文。右のあの田のこと、必要があって永代売却することは実際に行なわれて正しいことである。月堂から譲られた田のことがあるので、公方年貢は一銭もありません。子々孫々まで間違いのないように。阿知和2石7斗、同じく『はた』400文を売ります。

「上書 西嶺様[是ハ大林寺隠居之事、] 自 三河岡崎 慶度」

 此所ニ二下り候へとも、かミ悪敷成見へ不申候、

 阿大より可被申上とも、取乱候間無其儀候、駿河衆至今橋とりかけ候、今日迄させる行なとも候ハす候、味方中堅固被申付候、可被御心易候ゝゝ、

其後者御床敷令存候、仍今度不慮之儀候而金田宗八郎討死事候、彼仁子もなく候間、跡職少々儀、今以寺乞たて度由阿大被申候、屋敷者野々山弥右衛門屋敷にて、此間宗八郎屋敷とかへられ候、定而可有御存候、石川式部殿近所おかしき家とも被作候、御越候者、造作なとをも可申付候、寺領なとゝ申ても、過分の儀者有間敷候、五貫目付可申候、他国にて過分子細候共、御住国事候間、可有御渡海候、目出度奉待候、当座之儀、随分馳走可仕候、必々御越待申候、猶林空より可被仰候、恐惶謹言、

十月卅日

「名字岡部」

けいたく(花押影)

「右の岡崎けいたくと申候ハ、広忠公御時代ばんこさい・慶度両人乍御右筆、諸事御用人役也、」

→戦国遺文 今川氏編「岡部慶度書状写」(徳川林政史研究所所蔵古案三州聞書)

1546(天文15)年に比定。

 阿部大蔵より申し上げられるでしょうが、取り乱しているようでそのこともありませんでした。駿河衆が今橋に来て『とりかけ』ています。今日まで攻撃準備なども行なっていません。味方の中を堅固に申し付けられています。ご安心下さい。
 その後は心引かれていました。この度不意のことで金田宗八郎が討ち死にしました。彼に子がないので、遺産が少々あるものを寺に接収したいと、いまだに阿部大蔵が申しています。屋敷は野々山弥右衛門の屋敷で、この間宗八郎の屋敷へと変えられたものです。きっとご存知でしょう。石川式部殿近所の風雅な家として作られたものです。お越しになれば改装もご指示いただけるでしょう。寺の領地などといって過分なことがあってはなりません。5貫を目途にして下さい。他国にて過分な事情がありますが、お住まいの国のことですから、ご渡海なさりますよう。円満にお待ちします。当座のことは、目いっぱい奔走なさって下さい。お越しになるのをお待ちしています。さらに林空から仰せがあるでしょう。
 右の岡崎けいたくというのは、松平広忠の時代に『ばんこさい』と『慶度』の2名が右筆をしながら諸事用人を勤めていたものである。

天文十二

八廿日

就 禁裏様御修理之儀、日野町殿御下向、 御内書頂戴忝畏入奉存候、則鳥目五万疋調進仕候、可然之様取成所仰候、恐々謹言、

七月廿三日

治部大輔義元

謹上 大舘左衛門佐殿

→戦国遺文 今川氏編「今川義元書状写」(国立国会図書館所蔵古簡雑簒巻十一)

1543(天文12)年に比定。

 禁裏のご修理のこと。日野町殿(資将)が下向されて、御内書をかたじけなく恐れ入りながら頂戴いたしました。つきましては現金5万疋(500貫文)を準備して進呈します。しかるべくお執り成しをお願いします。