「上書 西嶺様[是ハ大林寺隠居之事、] 自 三河岡崎 慶度」

 此所ニ二下り候へとも、かミ悪敷成見へ不申候、

 阿大より可被申上とも、取乱候間無其儀候、駿河衆至今橋とりかけ候、今日迄させる行なとも候ハす候、味方中堅固被申付候、可被御心易候ゝゝ、

其後者御床敷令存候、仍今度不慮之儀候而金田宗八郎討死事候、彼仁子もなく候間、跡職少々儀、今以寺乞たて度由阿大被申候、屋敷者野々山弥右衛門屋敷にて、此間宗八郎屋敷とかへられ候、定而可有御存候、石川式部殿近所おかしき家とも被作候、御越候者、造作なとをも可申付候、寺領なとゝ申ても、過分の儀者有間敷候、五貫目付可申候、他国にて過分子細候共、御住国事候間、可有御渡海候、目出度奉待候、当座之儀、随分馳走可仕候、必々御越待申候、猶林空より可被仰候、恐惶謹言、

十月卅日

「名字岡部」

けいたく(花押影)

「右の岡崎けいたくと申候ハ、広忠公御時代ばんこさい・慶度両人乍御右筆、諸事御用人役也、」

→戦国遺文 今川氏編「岡部慶度書状写」(徳川林政史研究所所蔵古案三州聞書)

1546(天文15)年に比定。

 阿部大蔵より申し上げられるでしょうが、取り乱しているようでそのこともありませんでした。駿河衆が今橋に来て『とりかけ』ています。今日まで攻撃準備なども行なっていません。味方の中を堅固に申し付けられています。ご安心下さい。
 その後は心引かれていました。この度不意のことで金田宗八郎が討ち死にしました。彼に子がないので、遺産が少々あるものを寺に接収したいと、いまだに阿部大蔵が申しています。屋敷は野々山弥右衛門の屋敷で、この間宗八郎の屋敷へと変えられたものです。きっとご存知でしょう。石川式部殿近所の風雅な家として作られたものです。お越しになれば改装もご指示いただけるでしょう。寺の領地などといって過分なことがあってはなりません。5貫を目途にして下さい。他国にて過分な事情がありますが、お住まいの国のことですから、ご渡海なさりますよう。円満にお待ちします。当座のことは、目いっぱい奔走なさって下さい。お越しになるのをお待ちしています。さらに林空から仰せがあるでしょう。
 右の岡崎けいたくというのは、松平広忠の時代に『ばんこさい』と『慶度』の2名が右筆をしながら諸事用人を勤めていたものである。

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