今朝直ニ申付候蒔田殿浦賀御移之事、能ゝ思案候ニ、遠慮多候、自余之人数を浦賀へ者申付候、蒔田殿をは如入廉之首尾、早ゝ玉縄へ移可被申候、其方致逗留来廿八、必ゝ御着城御供可申候、兵粮肝要候、各家中衆、以乗馬可付由、堅可意見候、此度之旨、無足之者迄被駆集、せめて三百人之首尾御調、此時ニ候、御譜代人共、可有数多候間、能ゝ可申候、謹言、

二月廿五日

氏康(花押)

高橋郷左衛門尉殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏康書状」

 今朝申し付けた蒔田(吉良)殿を浦賀に移動させる件ですが、よくよく考えたところ、遠慮が多いことです。その他の人数を浦賀へ移動させますが、蒔田殿は入廉の首尾のごとく、速やかに玉縄城へお移し下さい。そちらへ28日まで逗留し、絶対に到着までお供して下さい。兵糧が大切です。それぞれの家中の皆さんは乗馬をお願いします。このことは強くご意見下さい。今度のことでは、役目を外した者でも駆り集め、せめて300人は準備して下さい。まさにこの時です。ご譜代の人も数多くいるでしょうから。よくよく申し上げて下さい。

一今度甲州衆越山儀定上、当月中必可被遂対談、然者人数之事、随分ニ壱騎壱人成共可召寄、并鑓・小旗・馬鎧等致寄麗、此時一廉可嗜事、

一本着到 百九十三人也 此度四十四人不足 大藤

 本着到 七十四人也 此度三十五人不足 富嶋

 本着到 五十四也 此度二十八人不足 大谷

 本着到 八十壱人也 此度三十一人不足 多米

 本着到 六十人也 此度廿二人不足 荒川

 本着到 卅人也 此度七人不足 磯

 本着到 廿二人也 此度無不足 山田

 本着到不足之処、如何様ニも在郷被官迄駆集、着到之首尾可合事、

一備之内ニ、不着甲頭を裏武者、相似雑人、一向見苦候、向後者、馬上・歩者共、皮笠にても可為着事、

右、他国之軍勢参会、誠邂逅之儀候、及心程者、各可尽綺羅事、可為肝要者也、仍如件、

十月十一日

大藤式部丞殿

諸足軽

→神奈川県史「北条家朱印状」(小田原市立図書館所蔵文書)

 一、この度甲斐国の衆が越山のことが決まったので、今月中に必ず対談を遂げるように。それゆえに人数のことは最大限に1騎1人であっても招集し、同時に槍や小旗、馬鎧なども美しくすること。この時にひときわ努力すること。
 一、本着到で、定員193人の大藤は44人不足、74人の富嶋は35人不足、54人の大谷は28人不足、81人の多米は31人不足、60人の荒川は22人不足、30人の磯は7人不足、22人の山田は不足なし。本着到不足のところは、どのようにしても在郷の被官でも駆り集めて着到の員数を合わせるように。
 一、部隊の中に兜をかぶらない裏武者がいるが、雑兵にも似てとても見苦しい。今後は馬上・歩者ともに皮笠でもよいので着用するように。
 右のことは、他国の軍勢と参会し本当に邂逅することなので、思いつく限り各員美しくすることが肝要である。

就越国之凶徒沼田口令越山、懇言上忻入候、此砌抛是非不足、義昭早々応下知、令開陣候様、意見肝要候、氏康令出馬、可及其行候間、於上州備者、可心易候、然者、無二忠信之段感悦之至候、依上州之様、殊可被仰出候間、速可被得其旨候、謹言、

九月廿三日

義氏(花押)

那須修理大夫殿

→神奈川県史 資料編3「足利義氏書状写」

 越後の凶徒が沼田口に越山してきた件ですが、親しく申し出たことを喜ばしく思います。この際は是非も不足も擲って、(佐竹)義昭が命令に早く応じて開陣(撤収)するよう意見することが肝心です。氏康も出馬させ準備するようにしていますから、上野国の守備はご安心下さい。またとない忠信のことは感悦の至りです。上野国の様子によっては、特に申し出ていただきたいので、速やかにその旨ご了解下さい。

今日御出陣候、然者来七日如前ゝ、矢盾・馬一疋、好馬を撰、河越ニても、又野陣へ成共承合、御陣着所へ、必ゝ七日ニ引来、太田豊後代可渡之、致無沙汰付者、即令打散、永可被為山野旨、被仰出候、仍如件、

九月五日

平沢

 百姓中

→神奈川県史 資料編3「北条家朱印状写」

 今日ご出陣される。だから来る7日、以前のように矢盾と馬1疋を用意するように。よい馬を選ぶこと。川越でもまた野戦になると承っている。陣着所へ絶対に7日までに引いて来るように。太田豊後の代官にこれを渡すように。応じない者は即座に財産を打ち壊し、永く野原にしてしまえとの仰せである。

大藤召寄儀者、敵中筋へ深ゝ與可動由風聞候間、若就動入者、可為無二之一戦覚悟候間、召寄候、又各事者、何方火ニ成候共、水ニ成候共、不取逢、其地堅固ニ可相拘候、何方ニ凶事出来候共、其地一足も此方へ来間敷覚悟可致之候、如何様之金言妙句候共、其地を捨、此方へ来ニ付而者、当方名字之有間者、可切頸候、能ゝ致塩味、一途ニ致談合、人足をも遣候間、一三昧可致普請候、敵者定而自武州可為退散候、源三一札、各為披見遣候、謹言、

九月十七日

氏政(花押)

→神奈川県史「北条氏政書状写」(諸州古文書相州豆州二十四)

 大藤を招集した件。敵が中筋へ深々と侵入することを風聞で聞いており、もしそのように進軍するならば無二の一戦をなすよう覚悟を決めていますので、召集しました。また各自のことですが、どこかが火になろうと水になろうと取り合わず、その地を堅固に守備して下さい。どこかに凶事が発生しても、そこに行かないよう覚悟を持って下さい。どんな巧みな言葉を用いようとも、その地を捨ててこちらに来るようなことがあれば、我々の名字が存在する限り斬首することでしょう。よくよく熟考して一途に談合し、人足を派遣します。充分に普請を行なって下さい。敵は恐らく武蔵国より退却することでしょう。源三の書状と合わせて、それぞれご覧下さい。

金谷斎一跡之事、嫡子筋無之ニ付而、雖為末子、彼一跡申付候、第一ニ一戦方之儀、昼夜共ニ心懸、於武具等、可相耆事、第二ニ者、寄子・被官可然者を聚、人を可改撰事、第三ニ者、邪之儀非分無之様ニ、触口以下可申付事、

右三ケ条、致無沙汰人衆等、然ゝ與無之ニ付而者、何時も一跡之事可召放者也、仍後日状如件、

天文廿一年 壬子

十二月吉日

氏康(花押)

大藤與七殿

→神奈川県史「北条氏康判物」(大藤文書)

 金谷斎の跡取りについて。嫡子の系譜がないことから、末子ではあるが跡取りを申し付けます。第一に、戦備を整えて昼夜常に心がけて下さい。武具も用意すること。第二に、寄子・被官を集めて人材を改めること。第三に、不公平や無理難題のないように徴兵や指令を行なうこと。右の三箇条について、特別な理由もなく人衆に無沙汰をするならば、跡取りのことはいつでも召し放ちます。後日のためこのように申し付けます。

 いよいよ『桶狭間』を巡る資料の掲載もひと段落といったところである。今川氏関係の史料はほぼ網羅できたことと思う。後北条氏・甲斐武田氏の史料も揃っている。惜しむらくは西側からの史料が薄い点だ。合戦の当事者である織田氏史料が殆ど見つけられなかったことと、周縁国のうち美濃・伊勢の史料がまだ充分に調査できていないことは今後の課題だろう。岩村の遠山氏も謎の存在だし、三木氏が書状で語った「織田氏は今川氏に遺恨を持っているらしい」という文言もまた奇妙である。間接的な謎だが非常に気にかかっているところだ。今川義元を捕殺したのが織田氏ならば、何故彼らは今川氏に遺恨を持っているのか。『桶狭間』で今川方と戦ったのが織田方だったと直接示す史料はまだないだけに、気になるところだ。
 この後は当時の兵員数を傍証する史料を掲載する。これは史料が豊富に残る後北条氏がベースとなる。今川氏が『桶狭間』でどの程度の兵員数を動員したのかを検証することは、最終的な結論に向けての重要な前提だと考えている。
 更にその後、掲載した史料の解釈を再度やり直すこととなる。かなりいい加減な解釈を加えていたため、前半掲載分から見直しが必要になっている。なるべく随時行なうこととするが、全ての史料を精査するのに時間がかかるため、このステップで若干の時間がかかるだろう。
 上記諸課題をクリアして後、改めて具体的な検証作業を開始することとなる。まだまだ結論は見えてこないものの、私なりの『桶狭間』が少し具体的になってきた。解釈修正が完了したら「思いつき」として提示してみたい。

 結構苦手な作品だったので、読むのは今回が2度目。ディケンズ前期作品に見られる行き当たりばったりな展開もありつつ、主人公がアメリカに渡るまでの筋運びが異常に長い気がした。ディケンズが作った人物でも出色の俗物ペックスニフが登場するのだが……その他の人物には余りオーラが感じられない。
 独善主義の若マーティンがアメリカで苦労して改心するのだろうけど、アメリカ批判が冗長で観念的過ぎる感じがした。従者マークが『ピクウィック』のサム・ウェラーの出来損ないみたいだし、いまひとつ興が乗らないところ。父親殺しのジョーナス・チャズルウィットは面白い。有名なギャンプ夫人がどれだけ活躍するかにも期待が持てる。
 結局、悪役ぐらいしか精彩がないということか。もしくは本当の意味での悪漢小説なのか。