於牛久保給恩分之事

一四貫文余 野方開発

一壱貫八百文 出目方

一壱貫弐百文 市座銭

一屋敷 向坂若狭守拘分

右、牛久保在城之分為四貫文之外之由、向坂六右衛門入道証文為明鏡之間領掌、雖然重テ在城之輩為城領之内之旨於訴出者、左右方相尋可申付之、屋舗之事、若狭守任契約所申付也、但自前々於在城屋敷者是又糺明之上可扶助、於異論者永不可有相違者也、仍而如件、

永禄七 三月十六日

氏真御居判

稲垣平右衛門尉

→戦国遺文 今川氏編2766「今川氏真判物写」(御系譜類記 上中下)

 牛久保における給恩のこと。一、4貫文余りが野方開発。一、1貫800文が出目方。一、1貫200文が市場の座税。一、屋敷は匂坂若狭守が保持していたもの。右は、牛久保在城のための4貫文のほかとのこと。匂坂六右衛門入道の証文によって明白であるので掌握し、とはいっても重ねて在城の者が城の領地の内に含まれると訴え出たならば、あちこちに聞いて申し付けるように。屋敷のことは、若狭守の契約通りに申し付ける。但し、以前よりの在城屋敷においてはこちらもまた調査の上で扶助しよう。異論においては末永く相違がないように。

長泉院寺領定事、

 合五貫文 但、年貢目、

  已上

右、当年庚寅年より、於中沼之郷、永代為寄進相定候、代官池田出雲守有御断、田地可有御請取之者也、仍如件、

天正十八年[庚寅] 三月廿日

 直秀(花押)

長泉院 参

→戦国遺文 後北条氏編3690「松田直秀判物写」(相州文書所収足柄上郡長泉院文書)

 長泉院の領地のこと。合計5貫文(但し『年貢目』)。以上。右は当年庚寅年より、中沼郷において末永く寄進すると決めました。代官の池田出雲守に申告して田地をお受け取りになりますように。

一 遠州 青柳三ケ郷 千百七拾三貫七百文

一 同所陣夫 拾三人

一 同州勝間田之内 大沼之郷 百弐拾壱貫文

一 同所陣夫 壱人

一 同州勝間田之内 布施方 廿四貫五百文

一 同所陣夫 壱人

一 同州勝間田之内 三栗之郷 拾壱貫五百文

一 桐山之郷 百貫文

一 同所陣夫 弐人

一 同所定夫 壱人

一 方治 弐拾貫文

 已上、

自今已後、別而抽忠節、可励戦功之旨候候各、右如此出置候、畢竟不慕先方、逐日忠臣可為簡要者也、仍如件、

天正五年[丁丑]二月九日

 勝頼

岡部丹後守殿

→戦国遺文 今川氏編2590「武田勝頼判物写」(国立公文書館所蔵土佐国蠧簡集残編四)

定め書き。<計数略>これ以後格別に忠節にぬきんでて、戦功に励むべく、右のようにそれぞれを拠出します。最終的に先方(氏真)を慕わず、日を追って忠臣となるのが肝要であろう。

今度京勢就出張、父子従最前参陣、丹波守ハ北敵為備松山帰城、仕置堅固之由候、新左衛門ハ当地在陣、旁以肝要候、弥掲粉骨可被走廻候、本意之上、駿州上州於両国一所可遣候、仍状如件、

天正十八年[庚寅] 卯月廿六日

 氏直判

木呂子丹波守殿

同 新左衛門殿

→小田原市史 小田原北条2 2066「北条氏直判物写」(岡谷家譜)

 この度京勢が侵攻したことで、父子が近日より参陣し、丹波守は北の敵に備えるため松山へ帰城し防備を堅固にするとのこと。新左衛門は当地に在陣、どちらも大切なことです。ますます粉骨を尽くして活躍して下さい。本意となった際は、駿河国・上野国で1つ知行を遣わします。

今度於山中、父右兵衛大夫、本城暫相拘、竭粉骨走廻、遂討死候、最前代未聞之仕合、無比類候、仍名跡之事、知行・同心・被官已下、於何事不相替可令相続候、父御用立候上者、別而引立可召仕候、仍如件、

天正十八[庚寅] 卯月十七日

 判

松田助六郎殿

→小田原市史 小田原北条2 2061「北条氏直判物写」(記録御用所古文書九)

 この度山中において、父右兵衛大夫が、本城をしばらく保持して粉骨を尽くして活躍し討ち死にを遂げました。前代未聞の偉業で比類がありません。よって名跡のこと、知行・同心・被官以下何事も変更なく相続して下さい。父が功績を挙げたので、格別に引き立てて召し使うでしょう。

用山様・同天澤寺様、二親之御いはひ田として、島崎二反、同三谷門前、さき切おこし反銭、共に相副申、令寄進所、依如件、

永禄三年庚申霜月十七日

四宮図書之助 輝明(花押影)

圓成寺江参

→戦国遺文 今川氏編2721「四宮輝明判物写」(圓成寺記所収文書)

用山様(今川氏輝)・同じく天沢寺様(今川義元)、この二親の位牌田として、島崎で2反、同じく三谷門前で切り開いた段銭、共にそえて寄進所とさせていただきます。

小鹿民部少輔方於河野庄合力拾五貫文之内、五貫文被売渡、民部少輔方任証文之旨、永不可有相違、陣番役等之儀者、如年来民部少輔方可被勤之、他国人買跡之間、諸役不可有之者也、仍如件、

[年号見江不申候]

十一月九日

 氏真判

法寿寺

→戦国遺文 今川氏編2793「今川氏真判物写」(可睡斎所蔵僧録司文書二)

 小鹿民部少輔方の河野庄での合力15貫文のうち、5貫文を売却された。民部少輔方の証文の内容に、末永く相違があってはならない。陣番役などのことは、年来どおり民部少輔へ勤めるように。他国の人が買い取っている間は、諸役は不要である。

今度江間合戦爾、父兵部少輔於馬前令討死、最以忠節至也、然間戴先判之知行之員数、永不可有相違、為其重判形出置所也、守此旨、弥可抽忠切者也、仍如件、

永禄拾三年[午庚] 八月十三日

 家康御判

中安満千代殿

→戦国遺文 今川氏編2467「徳川家康判物写」(古文書集)

この度の江間合戦にて父の兵部少輔が馬前において討ち死にし、最も忠節の至りである。ということで、先の判物に載せた知行の数値は、末永く相違があってはならない。そのため重ねて判形を発行するものである。この旨を守り、ますます忠節にぬきんでるように。

御判

西参河内平口村年来令居住屋敷之事

右、先規棟別諸役以下拾間雖令免除之、依忠節重弐拾間、都合参拾間分不可有相違、然者押立人足普譜以下、彼員数分者永所令免許不可有相違者也、

弘治四[戊午] 三月廿五日

鈴木八右衛門殿

→戦国遺文 今川氏編1387「今川義元判物写」(西尾市・鈴木文書)

永禄元年に比定。

 西三河国の平口村に年来居住している屋敷のこと。右は、先の規約で棟別・諸役以下10間が免除となったとはいえ、忠節によって20間を足す。合計30間分は相違がないように。ということで『押立』『人足』『普請』以下、あの員数分は末永く免除するので相違があってはならない。

氏真御二方懸川御籠城ニ付而、彼行末為可見届申、当地へ来而申断、捨身命、凌数百里之海路馳参儀、志忠功之至、不准自余候、仍太刀一腰[末行]、遣之状如件、

永禄十二年 七月廿七日

 氏康(花押影)

清水新七郎殿

→戦国遺文 今川氏編2413「北条氏康判物写」(国立公文書館所蔵古証文五)

 氏真とお二方の掛川ご籠城について、その行く末を見届けるため、当地へ来て申し出て、身命を捨てて数百里の海路を越えて馳せ参じたこと、志し・忠功の至りで他に準じるものがありません。よって太刀1腰(末行)を遣わします。