書状今十九披見候、鈴木被指遣模様、何も心得申候、 一曲輪割之模様尤候、兼日者、大筋目迄候、絵図を一ツ被成、役所之定之模様、推札をして可給候、是者被定儀、大途之印判罷出候、必ゝ三日中能ゝ被成、間数迄委あそはし可給候、如何ニ間数者多候得共、曲輪狭而不被居所有之物ニ而候、其塩味肝要ニ而候、 一大藤者、先日境目火急之手切与而、一騎懸ニ来、今日迄根苻川ニ在城候、今日委細書分をして遣候間、明日廿日ニ在所へ帰、廿六日ニ打立、七日ニ其地へ可参候、此分定候、 一韮山ニ者二百、彼人衆自身若輩ニ者候へ共、可指置定ニ候、 一清水書立之内ニ、奉公人不矢普請与云儀、無是非候、左候者、小田原中之者者、一人も矢普請致間敷歟、又退転之模様者、先段如申、我ゝ可裁許ならは安候、其故者、先其方之知行分ニ而、たとへて為聞申候、神奈川之家悉退転候、然共、昔之帳ニ而棟別銭をハ取候、是を以可有御分別候、豆州ニも昔之五百余間之田ニ而も、畠ニ而も、其拘手可有之候、是者、道理云とくにて候、只今無専候、恐々謹言、

十二月十九日

氏政(花押)

美濃守殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状写」(大竹文書)

1589(天正17)年に比定。

 書状を今日19日に見ました。鈴木を派遣された状況など全て了解しました。
 一、曲輪配置の状況はもっともです。いつもは大筋までです。絵図を1つ作成し、役所の定位置の状況を付箋でつけて送って下さい。これは大途が印判を出して定められたことです。必ず3日中にきちんと作り、間数まで詳しくお願いします。いかに間数が多いといっても、曲輪が狭くて居場所がないなどということが起こるものです。その調整が肝心なのです。
 一、大藤は先日国境が急遽同盟破棄となったため、1騎駆けで急行し、今日まで根府川城にいます。今日全て書類を裁許して送りますので、明日20日に自領へ帰り、26日に出発して27日にそちらへ到着するでしょう。これは決まりました。
 一、韮山には200、あの部隊とあなた自身が若輩者ですが、指示する決まりです。
 一、清水の報告書に、奉公人が矢普請を行なっていないとありましたこと。是非もないことです。であるならば、小田原中の者は一人も矢普請をしてはならないのでしょうか。また退転の状況は、先に言ったように私の裁許できるものならば簡単なことです。何故ならば、まずあなたの知行分に仮定して申し聞かせをするからです。神奈川の家がことごとく退転しましたが、昔の帳面にて棟別銭を徴税しました。このようにご判断下さい。伊豆国なら昔の500余間の田でも畠でも、その持ち主はいるものです。これは『道理云とく』(道理は言ったもの勝ち?)というものです。現在では専らではなくなりました。

一来年西表与至于弓矢者、雖若輩候、代ゝ走廻、外国之覚候間、韮山ニ可楯籠事、

一明日早ゝ在所へ帰、廿五日迄致用意、六日ニ打立、廿七日ニ韮山へ移、美濃守可得作意事、

一長浜ニ指置者をハ、先八十人之分、手堅彼地ニ可置候、窺時分、別之人衆を可入替事、

一弐百四十人之仕分

 二百人 韮山可楯籠衆

 四十人 此内廿人ツゝ、小田原与在所与ニ指置、用所可弁済事、

一諸城共ニ、自只今手向ゝ之城へ相移、及仕置候、然者手切以前之事者、此方へ用所之度毎、何ヶ度も遂披露、可罷越、此外同心・自分共ニ、内替者、幾度も濃州へ相談、可休息候、惣並ニ候事、

右、同心・家風迄、能ゝ遣念、代ゝ走廻儀候間、此節竭粉骨条、専一候、仍如件、

(虎朱印)十二月十九日

大藤与七殿

→神奈川県史 資料編3「北条家定書」(大藤文書)

1589(天正17)年に比定。

 一、来年西方面と戦争となったら、若いとはいえ、代々活躍して国外にも名が知られているので、韮山に籠城すること。
 一、明日早々に自領に帰り、25日までは用意をして26日に発ち、27日に韮山へ移って、北条氏規の意図に沿うこと。
 一、長浜配置部隊は、先の80人の分はあの地に手堅く置いて下さい。時機を見計らって別の部隊と入れ替えること。
 一、240人の区分け。200人は韮山に籠城する衆とせよ。40人は、このうち20人ずつを、小田原と自領とに配置し、要所で便宜をはかること。
 一、諸城全てが現在より『手向』向かいの城へ移って処置を講じます。ですから同盟破棄以前のことはこちらへ用件ごとに何度でも報告し連絡して下さい。このほか同心と自身で交替を行なう際は氏規に相談して休んで下さい。これは全てに適用されること。
 右は同心・家風(譜代)までよくよく念を入れ、代々活躍してきたのだから、この時に努力を尽くすことを専らにして下さい。

注進状披見候、一土居之事、不及申候へ共、毎度諸人当意之出来を本ニ致、明日之雑作を忘候間、能ゝ岩付奉行衆ニ可被申付候、殊小わり共ニ候間、一間之内にて人ゝ之手前各別候者、必合目より可崩候、此処奉行之前ニ可有之間、後日無躰ニ崩候者、奉行之越度與被申断、廿五人ニ一間之積にて候者、廿五人ツゝ一手くミニ致様ニ、せめて有之而可然候、此由岩付奉行ニ可被申付候、其外得心候、恐々謹言、

三月廿四日

氏政(花押)

松田尾張守殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状」(海長寺文書)

1580(天正8)年に比定。

 報告書を拝見しました。一、土塁のこと。申し上げることでもありませんが、毎回皆さんはその場の出来栄えだけ気にして、後日の面倒を忘れますので、岩槻の奉行たちによくよく指示なさって下さい。特に『小わり』などですから、1間のうちでそれぞれの作業範囲が別だと、必ず継ぎ目から崩れるでしょう。これは奉行の前では持ちこたえても、後日無残に崩れてしまいます。奉行の落ち度と断定されます。25人で1間の割り当てなら、25人ずつ1組にするように、せめて取り図るべきです。このことを岩槻の奉行に指示なさって下さい。その他は納得しました。

「(包紙) 氏政公御隠居之時
氏直公江御直ニ御団渡被成時御自筆也」

(小切紙)天正八年庚辰八月十九日、氏直江直ニ相渡者也、仍如件、

天正八年八月十九日 截流斎

→神奈川県史 資料編3「北条氏政証状」(北条文書)

今般佐竹義重向于当表動候処、中務太輔入性節ゝ言上、感悦之至候、当城両三度動、宿城雖取懸候、堅固防戦故、無指儀候て、卯刻令退散候、定可為満足候、殊更昨日其地之相動候処、堅固之備故、早ゝ引染候、肝要御大慶候、此度之模様一ゝ氏政・氏直へ申遣候、心安可被存候、かしく、

十月廿九日

義氏

洗心斎

→神奈川県史 資料編3「足利義氏書状写」(集古文書七十四)

1580(天正8)年に比定。洗心斎は梁田晴助か。

 この度、佐竹義重がこちらの方面に出撃したところ、中務大輔が性を入れて切々と言上しました。感悦の至りです。この城が3度攻められ『宿城』に攻撃されたとはいえ、堅固に防戦したので、(敵は)得るところなくて卯刻(06時)に退散しました。きっと満足でしょう。特に昨日はその地へ攻撃がありましたが、堅固な備えで早々に引き上げました。肝要であり喜ばしいことです。この度の模様は逐一氏政・氏直へ申し伝えていますからご安心なさって下さい。

官途之事申上候、可有御意得候、謹言、

九月廿五日

(足利義氏花押)

一色中務太輔殿

→神奈川県史 資料編3「足利義氏書状写」(相州文書所収鎌倉郡江嶋下之坊文書)

東郭土橋から北方を望む

東郭土橋から北方を望む

 2006年から工事によって足止めされていたが、ようやく隙を見つけて訪れてみた。この城は横浜市営地下鉄のセンター南駅から徒歩で10分、しかも公園化されて見晴らしもよいという、まとまった時間がとれない人間にはありがたい城跡である。

メインエントランス

メインエントランス

 主要な曲輪は4つ。北郭は公園の入り口として位置づけられている。水洗トイレと水のみ場があって、南面する土塁がなければ「ニュータウンにあるごくごく普通の公園」。
15.2:350:263:0:0:chigasak_02:center:1:1:縄張り図:0:
 公園化されて縄張りがとても把握しやすくなっており、土の城を満喫できた。とはいえ夏に行ったら遺構を見渡すのは若干厳しいか。
24.3:350:263:0:0:chigasak_03:center:1:1:東郭土橋より北郭を望む。左は中郭土塁:0:
 規模からいうと深大寺城よりやや大きい程度か。江戸から早渕川を渡河して小机に抜ける街道が城の主軸なのかと推測した。空堀道の北辺にある虎口から入り、中郭と西郭に挟まれた空堀道を上った後で土塁に突き当たって東進、中郭の土塁北側を迂回し、今度は東郭に睨まれつつ南へ抜けていくプラン。
26.8:350:263:0:0:chiagasak_04:center:1:1:サブエントランスからの虎口。中郭と西郭間の空堀道へ:0:
 史料上は持ち主がはっきりしない城だが、扇谷系という見方が優勢らしい。その場合、江戸から見て早渕川の橋頭堡を守る位置づけになる。後北条氏が利用していたとすると、江戸・小机の中継拠点で、どちらかというと物資の集散拠点的な位置づけだったのではないかと推測してみた。
24.8:263:350:0:0:chigasak_05:center:1:1:東郭から南郭下虎口を見下ろす。奥の左手は中郭土塁:0:
 空堀を埋めて整備はしているものの、土塁に関しては若干崩落の不安が感じられた。特に東郭突端部分は何らかの工事が必要かと思われる(立ち入り禁止状態)。ここは整備が入る前の私有地だった頃より不安定な地形だった。
23.5:350:263:0:0:chigasak_06:center:1:1:東郭北の腰郭から私有地を見下ろす。ここも遺構の範囲内の模様:0:
 特筆すべきは東郭北面にある排水システムで、側溝に集めた雨水を樋で落とし、腰郭にある砂利面に落としている。恐らくこの砂利の下には排水溝があるものと思われる。東郭は比高が高い割りに小さくて孤立しているので、豪雨時の対応としてこの装置を置いたのだろう。
26.2:263:350:0:0:chigasak_07:center:1:1:東郭北面側溝。この先に樋あり:0:

28:350:263:0:0:chigasak_08:center:1:1:郭上から見下ろした樋と砂利面:0:

25.8:263:350:0:0:chigasak_09:center:1:1:下から見た雨樋装置:0:

 条件としてほぼ近い小机城と比較しても、よく整備されていると感じた。空堀が埋め戻されている分だけ迫力は減じているものの、夏でも遺構が楽しめるのは大きなメリットだろう。

せんとハ山しろのかミ殿ゆいもつとして、梅のゑ一ふく給候、ひさう申へく候、此たひのしあわせ、なかゝ申事なく候、されともくはうさまよりおほせ付られ、うちしにをとけられ候へハ、御ちうしん申におよはす候、うち政ニおゐても、せひなくそんする計に候、なをとを山新四郎申へく候、かしく、

十二月五日

うち康(花押)

山しろ殿

 こうしつへまいる

→神奈川県史 資料編3「北条氏康書状写」(豊前氏古文書抄)

1569(永禄12)年に比定。

 先ごろは山城守殿の形見として梅の絵1幅をいただきました。秘蔵いたします。この度の巡り合わせ、とても言葉になりません。とはいえ、公方様に命じられて討ち死にを遂げられたことの忠信は申すまでもありません。氏政においても、「どうしようもないこと」と考えるばかりです。さらに遠山新四郎がお伝えするでしょう。