一来年西表与至于弓矢者、雖若輩候、代ゝ走廻、外国之覚候間、韮山ニ可楯籠事、

一明日早ゝ在所へ帰、廿五日迄致用意、六日ニ打立、廿七日ニ韮山へ移、美濃守可得作意事、

一長浜ニ指置者をハ、先八十人之分、手堅彼地ニ可置候、窺時分、別之人衆を可入替事、

一弐百四十人之仕分

 二百人 韮山可楯籠衆

 四十人 此内廿人ツゝ、小田原与在所与ニ指置、用所可弁済事、

一諸城共ニ、自只今手向ゝ之城へ相移、及仕置候、然者手切以前之事者、此方へ用所之度毎、何ヶ度も遂披露、可罷越、此外同心・自分共ニ、内替者、幾度も濃州へ相談、可休息候、惣並ニ候事、

右、同心・家風迄、能ゝ遣念、代ゝ走廻儀候間、此節竭粉骨条、専一候、仍如件、

(虎朱印)十二月十九日

大藤与七殿

→神奈川県史 資料編3「北条家定書」(大藤文書)

1589(天正17)年に比定。

 一、来年西方面と戦争となったら、若いとはいえ、代々活躍して国外にも名が知られているので、韮山に籠城すること。
 一、明日早々に自領に帰り、25日までは用意をして26日に発ち、27日に韮山へ移って、北条氏規の意図に沿うこと。
 一、長浜配置部隊は、先の80人の分はあの地に手堅く置いて下さい。時機を見計らって別の部隊と入れ替えること。
 一、240人の区分け。200人は韮山に籠城する衆とせよ。40人は、このうち20人ずつを、小田原と自領とに配置し、要所で便宜をはかること。
 一、諸城全てが現在より『手向』向かいの城へ移って処置を講じます。ですから同盟破棄以前のことはこちらへ用件ごとに何度でも報告し連絡して下さい。このほか同心と自身で交替を行なう際は氏規に相談して休んで下さい。これは全てに適用されること。
 右は同心・家風(譜代)までよくよく念を入れ、代々活躍してきたのだから、この時に努力を尽くすことを専らにして下さい。

定条々
一諸公事裁許之日限、兎角申不罷出輩、不及理非可為越度、但或歓楽、或障之子細、於歴然者、各へ可相断事
一元康在符之間、於岡崎、各批判落着之上罷下、重而雖令訴訟、一切不可許容事
一各同心之者陣番並元康へ奉公等於無沙汰仕者、各へ相談、給恩可改易事、付、互之与力、別人ニ令契約者、可為曲事、但寄親非分之儀於申懸者、一篇各へ相届、其上無分別者、元康かたへ可申事
一万事各令分別事、元康縦雖相紛、達而一烈而可申、其上不承引者、関刑・朝丹へ其理可申事、付、陣番之時、名代於出事、可停止、至只今奉公上表之旨、雖令訴訟、不可許容事
一各へ不相尋判形出事、付、諸篇各ニ不為談合而、一人元康へ 雖為一言、不可申聞事
一公事相手計罷出可申、雖為親子、一人之外令助言者、可為越度事
一喧〓(口+花)口論雖有之、 不可贔屓、於背此旨者、可成敗事、付、右七ヶ条於有訴人者、遂糾明、忠節歴然之輩申旨令分別、随軽重、可加褒美者也、仍如件、
永禄二 未己年
五月十六日
松次 元康(花押)

→豊明市史 「松平元康定書」(桑原弘道氏蔵)

 一、諸々の訴訟で決められた日限について、とやかく言って出頭しない者は理由を問わず敗訴とする。但し、歓楽であっても不可避の事情であっても、前もって判っている者は、それぞれ断りを入れておくこと。
 一、元康が駿府にいる間は、岡崎ではそれぞれで検討・決議してから(駿府に)下ること。重ねて訴訟しようとしても、一切許容しない。
 一、それぞれ同心の者は、陣番と元康への奉公などを無沙汰する者があれば、それぞれへ相談し、所領を改易すること。付則として、お互いの与力が別の主人と契約することは不法である。但し、寄親に問題があると申し出る者があれば、一度それぞれへ届けさせ、その上で判断がつかなければ元康へ申し出ること。
 一、万事はそれぞれが判断すべきことで、元康がたとえ介入しても、断固として諫言するべきである。その上で不承知であるなら、関口刑部・朝比奈丹後守にその旨伝えること。付則として、陣番の時は名代を出すことは禁止する。現在に至るまでの功績を持って訴訟したとしても、許容しないこと。
 一、それぞれへ確認せずに判形を出すこと。付則として、何事も協議を経ず、ただ元康だけに言ったとしても、聞き届けないこと。
 一、訴訟の相手だけが出頭して証言すること。親子であっても、当事者以外が助言するのであれば敗訴とする。
 一、喧嘩・口論があったとしても、贔屓はしないこと。この旨に背くものは成敗するだろうこと。付則として、右の7箇条で訴人があるなら精査し、忠節が歴然の者かを判断せよ。軽重に従って褒美を加えるであろう。

岩付諸奉行、但今度之陣一廻之定

 小旗奉行 中筑後守

      立川藤左衛門尉

      潮田内匠助

   已上

右、何時も打立之貝立を傍尓ニ、小旗悉可相集、於押前物いわせす、いかにも入精可押、小旗敷定百廿余本可有之間、改而不足之所をハ、何時も可申上候、 已上

 鑓奉行  福嶋四郎右衛門尉

      豊田周防守

      立川式部丞

      春日與兵衛

   已上

右、鑓奉行申付候、六百余本可有之間、能ゝ相改、不足之所をハ、無用捨可披露候、鑓奉行大事之役ニ候、もミあふ時、押前ニてならさる様ニ、入精可致之候、何時も小旗之集同前、鑓をも可集、

   已上

 鉄炮奉行 河口四郎左衛門尉

      真野平太

   已上

右、岩付鉄炮衆五十余挺可有之間、相改、毎度之備ニ不足之所をハ書立、無用捨可令披露、兼日簡をこしらゑ尤候、無嗜ニてさび、引金以下損かつきたる一理迄之躰、以之外曲事候、能ゝ可入精者也、

   已上

 弓奉行  尾崎飛弾守

      高麗大炊助

   已上

右、四十余張弓衆可有之、能ゝ相改、厳密ニ可仕置、馬上ニ候共、射手衆をハ一所へ集可押候、能ゝ可入精、不足之所をハ相改、無思慮可披露、

   已上

 歩者奉行 山田弥六郎

      川目大学

      嶋村若狭守

   已上

右、貮百五拾余人之歩者相改、毎度致一枚可押、歩者共物いわせへからす、能ゝ可致仕置、

   已上

 馬上奉行 渋江式部太輔

      太田右衛門佐

      春日左衛門

      宮城四郎兵衛

      小田掃部助

      細谷刑部左衛門尉

   已上

右、五百余騎之馬上、能ゝ相改、備之模様可然様ニ被入精肝要候、猶馬上之押様専一候、五百余騎之内、不足之者相改、不及思慮、可有披露者也、

   已上

 歩者廿人之奉行 馬場源十郎

   已上

  以上

右、備之諸奉行、先此度者、大方如此定置候、何も不知案内ニ候間、可有相違候、如何様帰陣之上、心静遂糾明、重而之出張ニハ、入手而可定置候、仍如件、

  此外

 陣庭奉行 春日左衛門尉

      宮城四郎兵衛

      細谷刑部左衛門尉

      福嶋四郎右衛門尉

   已上

右、陣庭之取様肝要候、大方陸奥守陣取之模様ニ可取、猶様子ハ、自前ゝ致来様肝要候、太田暮之内ニハ、中間共廿人之歩先、為陣取尤候歟、各可相談候、

   已上

 篝火奉行

 一夜   春日左衛門尉

      細谷刑部左衛門尉

      立川藤左衛門尉

   已上

 一夜   宮城四郎兵衛

      福嶋四郎右衛門尉

      立川式部丞

   已上

右、先日如申出、前ニ一ヶ所、陣之後ニ一ヶ所、大キサハ本ニたくことく、夜一夜不消様ニ、当番之者侍を三人ツゝ、二ヶ所ニ然與可付置、かゝり木ハ、先日被仰出候三千貫役致衆、二ヶ所を半分ツゝ請取、尤候、

   已上

 小荷駄奉行

 一番   春日左衛門尉

      福嶋四郎右衛門尉

      立川式部丞

   已上

 二番   宮城四郎兵衛

      細谷刑部左衛門尉

      中筑後守

   已上

右、隔番ニ小荷駄可申付、模様ハ何時も手札ニ可顕之、可為如其、

一尺木者、一騎合迄悉出合可結、此改

      太田右衛門佐

      春日左衛門尉

      細谷刑部左衛門尉

      福嶋四郎右衛門尉

      宮城四郎兵衛

   已上

右、定置所如件、

丁丑(1577(天正5)年)

七月十三日

→神奈川県史「北条家諸奉行定書」(豊島宮城文書)