去六日、於嵩山市場口長沢、最前入鑓走廻之由神妙也、弥可抽戦功之状如件、

永禄四

七月十二日

氏真(花押)

田嶋新左衛門殿

→新編岡崎市史「今川氏真感状」(田嶋家文書)

 去る6日、嵩山市場口の長沢において、前線に槍を入れ奮戦したとのこと神妙である。ますます戦功にぬきんでるように。

去年九月十四日大給山中筋諸手相勤、平五屋敷押破之刻、令先懸最前入鑓、粉骨所無比類也、殊鑓疵一ヶ所、矢疵一ヶ所蒙之、神妙之至感悦也、弥可抽忠功者也、仍如件、

弘治二年

二月廿九日

義元(花押)

天野小四郎殿

→静岡県史「今川義元感状」(天野文書)

 去る年9月14日、大給山中方面の各拠点で作戦し、平五屋敷を押し破った際に、真っ先に前線に槍を入れ、粉骨するところは比類がなかった。特に槍傷1箇所、矢傷1箇所を受け、神妙の至りであると感悦した。ますます忠功にぬきんでるように。

去十五日衣城知行分麦毛薙捨之処、為御合力各出陣、一段馳走之由、誠本望存候、委曲重而可申入候、恐々謹言、

四月廿三日

義元書判

東条殿御人数中

→新編岡崎市史「今川義元感状写」(三川古文書)

戦国遺文では1550(天文19)年に比定。

去る15日に衣城が知行する分の麦を薙ぎ捨てたところ、援軍のためとして各自が出陣し、ひときわ奮闘したという。誠に本望に思います。詳しくは後ほどご連絡します。

就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候、■気之時分、辛労無是非候、飯尾豊前守・二俣近江守有談合、馳走専要候所、注進可差遣之人数候、猶朝比奈備中守可申候、恐々謹言、

十二月二日

義元判

奥平監物丞殿

→静岡県史「今川義元書状写」(松平奥平家古文書写)

 高橋方面のことで早速岡崎に着陣したと聞きました。寒気の時分にお辛いことですが是非もありません。飯尾豊前守・二俣近江守と打ち合わせて、奔走されることが大切ですから報告によって部隊を派遣します。更に朝比奈備中守が申し上げます。

年来出置知行名田等之事

右、如父六郎左衛門尉時、於当城走廻之上者、如前々不可有相違、但弟共有之由、各覚悟次第可加扶助、守此旨弥可抽忠功者也、仍如件、

永禄三庚申年 七月廿八日

氏真(花押)

鱸内三殿

→静岡県史「今川氏真判物写」(伊予古文書所収矢野定彦氏所蔵文書)

 年来拠出していた知行・名田などのこと。右は父の六郎左衛門尉の時のように当城で奮闘している上は、前々のように相違がないように。但し弟がいるとのことで、それぞれ覚悟によっては扶助を加えるであろう。この旨を守りますます忠功にぬきんでるように。

去廿五日、於土狩原合戦、最前馳合頸一野口討捕之、神妙之至甚以感悦也、弥可抽軍忠之状如件、

九月廿八日

義元

大村弥三郎殿

→静岡県史「今川義元感状写」(御家中諸士先祖書)

 去る25日、土狩原合戦において前線で戦い首級1(野口)を挙げた。神妙の至りでありとても喜ばしいことである。ますます軍忠にぬきんでるように。

遠江国犬居内知行分之事

右、任先判形之旨、永所領掌也、並棟別諸役以下、如年来免除之、若以増分雖有競望輩、不可有許容、出次第令所務、随其分量陣番可勤之、守此旨弥可励奉公之状、仍如件、

永禄ニ己未二月四日

氏真

尾上彦太郎殿

→静岡県史「今川氏真判物写」(掛川誌稿巻九尾上文書)

 遠江国犬居内の知行のこと。右は、先の判形の通りである旨、末永く了解した。同時に、棟別と諸役で年来免除となっている事柄は、増分を担税するといって土地所有を競う者があっても許容してはならない。(増分は)出来次第所務させよ。したがってその分だけ陣番を勤めるように。この旨を守り、ますます奉公に励むこと。

条目

一今橋・田原御敵ふせらるゝにおゐてハ、今橋跡職、名字之知にて御座候間、城共に可被仰付、御訴訟申候処、両所御敵を仕候間、今はし・田原之知行、河より西をさかい入くミなしに可被仰付候由候、此上兎角申たてかたく候間、如此候、伊奈之儀、本知之事候間、不及申候、然者西三河猶一篇之上、若又両所御成敗之時も此分ニ可被仰付事候、

一同主田原・今橋申様御座候者、御味方に可被成事、於我等忝存候、右之申分ハ御敵等参候者の申事候、

一長沢敵ニ参御成敗候ハゝ、彼跡職一円ニ被仰付て可被下候、今之城、不被仰付候間、此儀今以播面目候ために如此申上候、

一長沢御味方ニ参候者、下条之郷・和田之郷・千両上下・大崎郷・佐脇郷上下・六角郷・此都合八百貫余、可有御座候、以上使被成御糾明、可被仰付候事

此小書うら書と同筆にて

此一ヶ条之事ハ、長沢被付御敵之上、只今之被仰事、入間敷存候間、可被除之候、

一御馬出候歟、又御人数西郷へ御行候ハゝ、質物渡可申事

右之条々、有御分別御披露可畏入候、然者御聴も被合御判形を可被下候、

以上

天文十五年丙午 九月廿八日

牧野田三郎

保成判

右之裏書ニ

此五ヶ条之内一ヶ条を除四ヶ条之事者、先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候、猶只今承候間、我等加印申候者也、仍如件、

十一月廿五日

泰能判

親徳判

崇孚判

→愛知県史 資料編10「牧野保成条目写」(松平奥平家古文書写)

一、今橋・田原の敵を屈服なさるに当たり、今橋の跡目、我々の苗字の土地ですから、城とともにお任せいただけますでしょうか。訴訟となっておりますが、両所が敵となっており、今橋・田原の知行は川より西を境界として飛び地はないだろうとの仰せだと聞きました。こうなれば更にとやかく申し上げにくいので、そのようになりましょう。伊奈の件は、本領のことですから申し上げるまでもありません。ということで西三河を更に編成した上で、もし両所をご成敗される時も、このようにご指示下さいますように。
一、同じく主の田原・今橋が申し上げる内容によっては、お味方なってもよいとのこと。私はかたじけなく思っています。右の申し分は敵となった場合の文言です。
一、長沢の敵になった者のご成敗をされるなら、あの一円の跡目はお任せいただけますように。今の城は仰せつかっていませんので、このことは未だに面目が立っていません。ですからこのように申し上げています。
一、長沢が味方となれば、下条郷・和田郷・千両郷(上下)・大崎郷・佐脇郷(上下)・六角郷で、合わせて800貫文余りあるでしょう。使者を出して精査していただき、ご指示をお願いします。
※裏書と同筆で補記 この1箇条は、長沢が現在敵になったため適用されず除外となる。
一、ご出馬されるのでしょうか。また、部隊が西郷へ出動するようでしたら、人質をお渡ししましょう。
※裏書 右の項目5箇条のうち、1箇条を除く4箇条のことは、先日松平蔵人佐と安心軒が在国した時に、屋形(今川義元)が決裁した書面を出しているので異議がないように。更に只今承知したということで、我々が押印を加えるものである。

敵信州表江就罷出候、自岩村被申越候、武節へ乍御大儀早ゝ可被相移候、不可有油断候、仍而如件、

十一月六日

家康

松平左近殿

1572(元亀3)年に比定。

→岐阜県史「徳川家康書状写」(武家事紀)

 敵が信濃国方面に現われたと岩村から報告がありました。ご苦労をかけますが武節へ早急に移動して下さい。油断のないようにお願いします。

去十月三日東根小屋へ夜討有之時分、其方出合、取首二ツ、馬廻衆夜討者四人生捕被指置候、手柄之段不申及、誠神妙ニ存候、無油断弥ゝ用心可被致候、為以来一筆如此ニ候、仍如件、

 辰ノ朱印在

氏政判

岡谷隼人殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏邦?感状写」(北条氏古文書写)

1580(天正8)年に比定。

 去る10月3日に東根小屋に夜襲があった時、あなたが応戦して首級2つ取り、馬廻衆4名を生け捕り確保しました。手柄ではることは言うに及ばず、本当に神妙だと思っています。油断なく、ますます用心して下さい。後日のため一筆記しておきます。