遠江国犬居内知行分之事
右、任先判形之旨、永所領掌也、並棟別諸役以下、如年来免除之、若以増分雖有競望輩、不可有許容、出次第令所務、随其分量陣番可勤之、守此旨弥可励奉公之状、仍如件、
永禄ニ己未二月四日
氏真
尾上彦太郎殿
→静岡県史「今川氏真判物写」(掛川誌稿巻九尾上文書)
遠江国犬居内の知行のこと。右は、先の判形の通りである旨、末永く了解した。同時に、棟別と諸役で年来免除となっている事柄は、増分を担税するといって土地所有を競う者があっても許容してはならない。(増分は)出来次第所務させよ。したがってその分だけ陣番を勤めるように。この旨を守り、ますます奉公に励むこと。
この尾上彦太郎は、私の母方の祖先です。
先日、母より聞いた「尾上屋敷跡」へ行って参りました。
母も50年ほど前に、行ったそうです。
屋敷跡のそばには、私の祖父の弟2人(大叔父)の家がありました。
屋敷跡の裏にはお墓があり、そこに数基の古い墓と共に新しく建てられた
お墓がありました。そこに刻まれた家紋が「引き両紋」であり、今川氏と
同じ家紋につながりを強く感じました。
初めまして。コメントありがとうございます[にこっ/]
尾上氏末裔の方に書き込み戴いて光栄です。後程検証で書いていこうと考えていますが、尾上氏は犬居領主天野氏と別行動をとっていたようです。『桶狭間合戦』の際に尾上氏は今川義元と一緒に行動していますが、天野氏のうち、少なくとも安芸守は別の場所を守備していたようで……。この辺りのチグハグさがとても気になっていたります。もしかしたら、天野氏と尾上氏の違いを探ることで『桶狭間合戦』の実像が見えてくるかも知れませんね。
これからも宜しくお願いします。
こちらこそ、はじめまして。
どうもありがとうございます。
「尾上屋敷」を掲載していた「遠江の城」(すみませんうろ覚えで)の記述では、尾上氏は天野氏の寄子ではあったものの、天野氏を監視するため宇苅郷から犬居城近くへ移住を命じられたのでは?とありました。なので、余り仲良くなかったんでしょうか。
ちなみに明治~大正期の尾上家は、金山を経営していたとか。
祖父は昭和初めに豊川へ移住したと思われます。
母の記憶では、尾上屋敷には奥屋敷(座敷?)があり、曾祖母が住んで
いたそうです。今も石垣が残ってますね。
コメントありがとうございます。尾上氏は1559(永禄2)年以前にはの浜松の熊切(牧野・楠・堀之内・葛沢・里原新田などの所領あり)に居住するようになったそうです。どうやら犬居には移住していないようですが、これは『戦国人名辞典』(吉川弘文館)の受け売りで、史料で確認した訳ではありません。
尾上氏は『戦国人名辞典』に信正(彦太郎)と正良(藤十郎)が記載されています。正良は1563(永禄6)年に天野景泰父子討伐を行ない、今川氏真から里原新田20貫文を与えられています。このことから、犬居天野氏(安芸守系)の与力ではあるものの、今川氏直属でもあり、いざという時は上司である天野景泰の攻撃も行なったということでしょう。直臣を有力家臣に賦与する方法は、後北条氏や織田氏に見られます。
1569(永禄12)年には徳川氏から所領を安堵され、天野藤秀の同心とされたとのこと。長蔵寺塩上に居館があったとされています。『春野町史』『静岡県の中世城館跡』に記載があるそうです。
尾上氏についてはまた何か判りましたらアップしますね。これからも宜しくお願いします[にこっ/]
[にこっ/][にこっ/]ありがとうございます。
私も「戦国人名辞典」で見たところ、桶狭間の合戦後に
家督を譲られたのが四男の藤十郎正良であるとのこと。
その後、尾張徳川家に使えた模様です。
次男は武田勝頼に、三男は織田信長に仕えたとも記してありました。
彦太郎信正の父正為は尾上右京亮源正為とも記されており、
他の本でも尾上氏は清和源氏一族の名字とあるので、ここも
母の言うとおり源氏だったんだなーと感じております。
まぁ、あまり関係ないですが私の母方の一族は皆身長が高いです。
男は平均180センチ、女性は165センチですね。[にこっ/][にこっ/][にこっ/]
尾上氏は源氏という口承があったとの情報ありがとうございます。遠江国の国人では、横地氏が源氏を名乗っていますね。系図によると、横地氏は源義家を祖に持つそうです。私が読んだ通説では、義家が東国に下る際、横地氏の娘と契りを交わしたとのことでした。真偽はともかく、尾上氏も海道沿いにいたとすると、同様の伝承を持っているかも知れません。横地氏は今川氏との抗争で没落し、その後は北条氏照家臣として登場します。
尾上氏の場合は、最終的には帰農したのでしょうか。もしご存知でしたら教えて下さい。
こんにちは。[アハハ/]
江戸期には、庄屋をしていたそうなので帰農したのでしょう。
四男の藤十郎正良の子孫である、尾上八太夫なる人物が江戸期にいたとのことです。
私は、現在愛知県岡崎市に住んでおりまして、住まいは何と「小豆坂古戦場」の上です(苦笑)。ちょうど私の家の前が激戦区と聞いております。
近くからは昭和の初期に小刀が発掘され、研いだところ立派に使用できた
とのこと。現在は資料館へ寄贈されたはずです。
仕事柄、岡崎周辺の郷土史家や学校の先生の方々と交流ありまして、
市内の数々の史跡へ足を運んでもおります。
やはり、松平家を研究されている方が多いですね。
その方々によりますと、松平の初代と2代目は現存しないとの認識でした。
歴史上でも4代目以降しかはっきりしないため、3代目が初代ではないか
とのことです。[にこっ/]
小豆坂にお住まいとは羨ましい限りですね。小豆坂合戦に関連した文書もいくつかアップしていますが、その中で岡部元信宛ての感状が『桶狭間合戦』と関連していることを見つけました。近いうちに検証記事としてアップしようと思います。
松平家については、未だ史料が集められていない状況です。どうやら伊勢氏と関係しているようで、室町期に近江で活躍した記録を見た記憶があります。6月に刊行される『愛知県史資料編10』で、松平・水野・織田各氏の文書が出てくることを期待している毎日です。
実は私、『桶狭間合戦』を調べている割には三河を訪れたことがありません。尾張も名古屋と犬山に1度行ったきりで、後は地図を頼りに検証を行なっています。地元の方から見ておかしな記述などありましたら、忌憚のないご意見いただければと思います。
これからも宜しくお願いします[にこっ/]
どうもです。[アハハ/]
小豆坂はもう住宅街で、何の風情も無いですよ(苦笑)ただ、古戦場跡に良くありがちな怖い話を多々聞きますね。
松平氏が伊勢氏と関係ですか。おそらくは3代目以降ですかね。
私も楽しみにしております。
三河は独特ですよ。特に岡崎は武将の家だらけです。その内板倉氏、本多氏、鳥居氏の発祥地には行ったことがあります。
特に板倉家は、昔の屋敷跡そのままの形の上へ現代の家が建っており、非常に興味深いです。土地的にも半農の侍だったということが良く分かります。
あと尾上氏については、以前ネットで同じ子孫と会ったことがあります。
その方によると尾上氏は元来近畿発祥の源氏一族であり、その後近江と遠江に分かれたということでした。ここももう一度探りたいところです。
大叔父が家系図を持っており、母の記憶では足利との血縁関係も記して
あったということですから。
また、いろいろと教えてください。[にこっ/]
追記ですが、三河という地域だけあって僕の友達も武家の子孫が多いです。
竹中(半兵衛)氏、酒井氏、上杉家臣の相浦氏、明智(光秀)氏などなど。
良くゲームの「信長の野望」とかで自分の先祖を使っていましたね(笑い)[にこっ/]
また、友達の一人は、旧西尾藩家老職を代々務めた家の方と結婚して、かなり
最初は大変そうでした(いまどき珍しい家柄によるもめごとで)。[涙/]
コメント遅れましてすみません。いやはや、武将の末裔揃いで羨ましいですね。私は小田原近辺の出身なのですが、後北条家臣蔭山氏の末裔が教師でいたり、母方の親族に酒匂の地頭小嶋氏の末裔がいたりしました(「小嶋のおじさん」と母が呼んでいました)。明治生まれの方々が元気だった頃が最後の名残で、今後このようなリアルなつながりは失われていくのだろうなと思っています。
さて、尾上氏が近江と遠江に関係があるとの話ですが、少々興味を持っています。松平氏は三河と近江に痕跡がありますし、知多の佐治氏は近江甲賀が本家だと書いていた書籍『甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族』があります。佐治氏は信長の姪である小督や秀吉の妹朝日が嫁いだ先として伝承が残されており、尾張付近では影響力の大きな一族だったと思われます。甲賀と知多は、畿内と東国を結ぶ物流バイパスとしてつながっていたのかも知れません。
尾上氏に関して何か判明したことなどありましたら、ぜひお知らせ下さい。
これからも宜しくお願いします。[ウィンク/]
こんにちは。
昨日、「天竜市史」「静岡県史」を図書館で読んでいましたところ、
義元亡き後の尾上氏の動きが掲載されていました。
義元亡き後今川内部でかなりの混乱が起き、天野氏が氏真に対し兵を挙げた様です。
これに対し尾上氏は、他の寄子とともに天野氏の討伐に赴き、氏真より感状を
得たと記述されていました。
他の資料にも掲載されていましたが、尾上氏が宇苅郷から犬居へ館を移したのは
天野氏への監視のためだったと考えられている様です。
ですから、寄親である天野氏の行動に対しても恭順せずに対抗したのでしょう。
もっとも、その後は家康の懐柔策により徳川家に使えるわけですが…。
色々と調査が進んでいるようですね。氏真の代に犬居天野氏は徳川方についていますが、実は先々代氏輝の代にも逆心を企てています。その関係から目を付けられていたのかも知れません。手元にあった『戦国人名辞典』に記載されていた参考文献をお伝えします。
●尾上信正
『静岡』7 1365/1860/2674/2888。『春野町史』通史編上巻342頁。『静岡の中世城館跡』428頁。
●尾上正良
『静岡』7 3180、同8 3180。
また何か進展ありましたらお知らせ下さい。期待してお待ちしております[アハハ/]