条目
一今橋・田原御敵ふせらるゝにおゐてハ、今橋跡職、名字之知にて御座候間、城共に可被仰付、御訴訟申候処、両所御敵を仕候間、今はし・田原之知行、河より西をさかい入くミなしに可被仰付候由候、此上兎角申たてかたく候間、如此候、伊奈之儀、本知之事候間、不及申候、然者西三河猶一篇之上、若又両所御成敗之時も此分ニ可被仰付事候、
一同主田原・今橋申様御座候者、御味方に可被成事、於我等忝存候、右之申分ハ御敵等参候者の申事候、
一長沢敵ニ参御成敗候ハゝ、彼跡職一円ニ被仰付て可被下候、今之城、不被仰付候間、此儀今以播面目候ために如此申上候、
一長沢御味方ニ参候者、下条之郷・和田之郷・千両上下・大崎郷・佐脇郷上下・六角郷・此都合八百貫余、可有御座候、以上使被成御糾明、可被仰付候事
此小書うら書と同筆にて
此一ヶ条之事ハ、長沢被付御敵之上、只今之被仰事、入間敷存候間、可被除之候、
一御馬出候歟、又御人数西郷へ御行候ハゝ、質物渡可申事
右之条々、有御分別御披露可畏入候、然者御聴も被合御判形を可被下候、
以上
天文十五年丙午 九月廿八日
牧野田三郎
保成判
右之裏書ニ
此五ヶ条之内一ヶ条を除四ヶ条之事者、先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候、猶只今承候間、我等加印申候者也、仍如件、
十一月廿五日
泰能判
親徳判
崇孚判
→愛知県史 資料編10「牧野保成条目写」(松平奥平家古文書写)
一、今橋・田原の敵を屈服なさるに当たり、今橋の跡目、我々の苗字の土地ですから、城とともにお任せいただけますでしょうか。訴訟となっておりますが、両所が敵となっており、今橋・田原の知行は川より西を境界として飛び地はないだろうとの仰せだと聞きました。こうなれば更にとやかく申し上げにくいので、そのようになりましょう。伊奈の件は、本領のことですから申し上げるまでもありません。ということで西三河を更に編成した上で、もし両所をご成敗される時も、このようにご指示下さいますように。
一、同じく主の田原・今橋が申し上げる内容によっては、お味方なってもよいとのこと。私はかたじけなく思っています。右の申し分は敵となった場合の文言です。
一、長沢の敵になった者のご成敗をされるなら、あの一円の跡目はお任せいただけますように。今の城は仰せつかっていませんので、このことは未だに面目が立っていません。ですからこのように申し上げています。
一、長沢が味方となれば、下条郷・和田郷・千両郷(上下)・大崎郷・佐脇郷(上下)・六角郷で、合わせて800貫文余りあるでしょう。使者を出して精査していただき、ご指示をお願いします。
※裏書と同筆で補記 この1箇条は、長沢が現在敵になったため適用されず除外となる。
一、ご出馬されるのでしょうか。また、部隊が西郷へ出動するようでしたら、人質をお渡ししましょう。
※裏書 右の項目5箇条のうち、1箇条を除く4箇条のことは、先日松平蔵人佐と安心軒が在国した時に、屋形(今川義元)が決裁した書面を出しているので異議がないように。更に只今承知したということで、我々が押印を加えるものである。