条々
一、兵粮奉行長束大蔵大夫、并小奉行十七人被仰付事、
一、年内従代官方弐拾万石請取之、来春早ゝ船ニ而駿州江尻・清水江令運送、蔵を立入置、惣軍勢江可相渡事、
一、黄金壱万枚請取、勢州・尾州・三州・駿州ニ而八木買調、小田原近辺舟着江可届置事、
附、馬弐万疋之飼料調置、無滞可令下行事、
右、可相守此旨者也、仍如件、
天正拾七年十月十日
 秀吉

→小田原市史 中世I 728「豊臣秀吉条書写」(東京大学史料編纂所所蔵・碩田叢史十四)

 条々。一、兵糧奉行は長束大蔵大夫と小奉行17人が仰せ付けられること。一、年内に代官の方より20万石を受け取り、来春早々に船にて駿河国江尻・清水へ運送し、蔵を建てて入れ置き、全軍に渡すであろうこと。一、黄金1万枚を受け取り、伊勢国・尾張国・三河国・駿河国にて米を購入し、小田原近辺の船着場へ届けておくこと。付則、馬2万疋の飼料を調達しておき、滞りなく『下行』させること。右は、この旨を守るように。

条々
一、来春関東陣軍役之事、
一、五畿内半役、中国四人役之事、
一、北国六人半役之事、
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃七人役之事、
右、任軍役書付之者、来三月令出陣、小田原北条滅亡、可有忠勤者也、仍如件、
天正十七年丑十月十日
 秀吉

→小田原市史 中世I 727「豊臣秀吉条書写」(東京大学史料編纂所所蔵・碩田叢史十四)「天正十七年、相州小田原陣触、山中吉内聞書写之」と注記あり。碩田叢史、後藤碩田が、主に豊後国に関係する史料を書写・編集した文書集。本巻では、以下の二点及び七八四号史料を採録したが、何れも文言等に検討の余地がある。

 条々。一、来春の関東陣、軍役のこと。一、五畿内は半役、中国は4人役のこと。一、北国は6人半役のこと。三河・遠江・駿河・甲斐・信濃は7人役のこと。右は、軍役書付の通りに、来る3月に出陣します。小田原北条の滅亡、忠勤するように。

一、山上へ義弼取退候子細、何事候哉、各被越候て、被相尋処ニ、以条数四郎存分共申、第一番仁京都之儀、其次濃州、長々当国拘置、入国不馳走事、不可然之由、今度之働以外相違事、

一、土岐殿、当家縁篇之儀、慈光院(六角高頼室)始而、代々重縁儀、京・ゐ中無其隠ニ、諸事不遁間事、

一、彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落にて西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、又父左近大夫代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斎藤同名ニ成あかり、剰次郎殿を聟仁取、彼早世之後、舎弟八郎殿へ申合、井口へ引寄、事ニ左右をよせ、生害させ申、其外兄弟衆、或ハ毒害、或ハ隠害にて、悉相果候、其因果歴然之事、

一、斎治父子及義絶、弟生害させ、父与及鉾楯、親之頸取候、如此代々悪逆之躰、恣ニ身上成あかり、可有長久候哉、美濃守殿、当国ニ拘置なから、大名なとに昇進候事、当家失面目義、不可過之候、日月地ニ不落ハ、天道其罪不可遁之処、縁篇之儀、可申合儀者、名利二なから可相果候、江雲寺(六角定頼)殿天下無其隠孫にて、右覚語対先祖不忠と云、佐々木家之末代かきん、可有分別候、公私共辱同前事、

一、義弼帰城之時、諸事承禎御意次第由、起請文在之事、

一、於佐和山、井口与縁篇可申合誓紙遣之由、申候歟、既対父承禎引弓放矢時者、いか様之儀も可申合候、定而人々跡職なとも配当可仕候へ共、令和談、起請文相果、帰城之上者、佐和山間之儀者、一切ニ不可入候、其時々起請文そたつへきか、承禎ニ誓紙正ニ可成候歟、各可有分別事、

一、歳寄衆起請文相違之儀在之在者、達而可申之、又義弼不可然儀者、達而異見可申旨被申定、今度対父子是非之異見、不被申届儀者、併天罰・神罰をハ不被存候哉事、

一、無縁之人、立入頼儀さへ拘置者、諸侍義理、田夫・野人迄も、其覚語有物にて候、美濃守殿重縁と云、数年拘置、此時つきはなし、彼敵と縁篇可申合儀、天下之嘲、前代未聞口惜無念之事、

一、斎治言上儀、不可被成御許容旨、 公方様江再三申上、又伊勢守与斎治所縁之時、京都江荷物以下当国押とらせ、対勢州数年不返候、并近衛殿江彼娘可被召置由、内々此方江御届之時、以外御比興、沙汰之限之由、申入■■被打置儀候、然処ニ、今度此縁之風聞ニ付而、政所殿より以興禅寺、被仰越儀、失面目次第共、京都之嘲、無申事儀共候、さてゝゝ右之御届者、承禎不存旨可申哉、四郎悪名末代不覚候、義弼ハ若年候之間、宿老衆覚語と申候へハ、自然礼物ニふけり候て、仕合もとならてハ世上ニ不可申候、誠当家ハ宇治川已来、及度々名字之名誉共、于今相残候処ニ、此代ニ至而比興之題目、物語・草子なとにも可書留儀、主従共恥ニあらす哉、無念至極之事、

一、越前と縁篇申合儀、去年宿老衆長光寺参会之時、以興禅寺相尋候処ニ、尤可然旨、一同ニ返事被申間、堅申合、此度違変儀、可申遣様躰、如何可在之候哉、殊井口儀者、古敵と存候所へ、申合儀、定無念ニ可被存候、又先年御料人儀、内々雖所望候、能州江義理違候間、難成由、再往相断、只今又此縁相違候者、旁以遺恨有へく候間、北辺深重入魂と覚候、其時各覚語いかゝ有へく候事、

一、内々聞及候、斎治申合北辺へ存分在之由候、さてもゝゝ愚なる儀候、井口より北之縁篇をハすて、当方へ令同心、可及義絶候哉、其ハ自滅間、とても不可成候処ニ、義弼ニ縁之儀申合度まゝ、彼仲人共落着、国之破、其身後代恥をもかへり不見儀、時刻到来事、
一、越前とハ不通ニなり、斎治申合対様成へからす、殊揖斐五郎拘置、入国内談之由候、尾州ニ急与可有馳走由、美濃守殿江申談由候、然者、彼両国より濃州へ出張之時、当方働可有如何候哉、美濃守すてゝさへ有へきニ、当国出勢何と被存候哉、越州・尾州其覚語手宛有へく候、其上此方働一切不可成事候、旁以天下之ほうへん此時候事、

一、先年北郡出陣之時、自濃州井口、斎山自身矢倉山迄相働候、一向手ニもためす、かけ散候、其後足軽一人不出候、義弼自然之時、為合力、従井口可有出勢と、各被存候哉、頸ニ綱を付而も不可出候、その故ハ越州・尾州を左右ニ置、遠山初而東美濃を跡ニ置、人数出儀不可成候、さ候へハ、此国用ニ何として可立候哉、当方辺依様躰、志賀郡なとへ、京都雑説ありけニ候、左様之遠慮も有へき処、越前・北郡辺不通ニ成候者、弥不思儀可出来候、其時各覚語専一候事、

一、慈寿院殿・承禎目前ニ置なから、四郎祝言可仕事、不孝之いたり、外聞実儀いかゝ被存候哉、此縁上下儀ハ第二、美濃守殿数年拘置、手前おも指当、迷惑も無之縁篇も、更ニをそからさる所ニ、彼国取候被官人と縁篇申合、他国より入国させ申、越州・尾州当国へ遺恨必定候、然者、名利共相かけ候、此度承禎・義弼并年寄衆、悪名不可有其隠候、国之為、家之為、余口惜候間、如此候、江雲寺殿、都鄙之名誉共在之処、承禎無器用、依而此仕立成候、其子四郎若年無分別を、歳寄衆奉而、異見不仕候て、目くらへ候て、永代名をも、徳をも、家をもはたし候とて、下々之人口いかゝ被存候哉、一旦及折檻ニ候共、各可被申儀候、右如申、誓紙之上者、相違にてハ不可然候、後悔さきに立へからす候、急度被申届、返事可被申事、

 以上、

永禄三年七月廿一日

 承禎

平井兵衛尉殿

蒲生下野入道殿

後藤但馬殿

布施淡路入道殿

狛修理亮殿

→戦国遺文 佐々木六角氏編801「六角承禎条書案」(春日匠氏所蔵文書)

一、山の上へ義弼が取り退いた事情、何事でしょうか。おのおのが行ってお尋ねになったところに、条書をもって四郎が存分などを申しました。第一番に京都のことですが、その次に美濃守(土岐頼芸)のことがあります。長々と当国へ抱え置いたので、(頼芸の美濃国への)入国援助をしないことは、しかるべきではありません。今度の行動はもってのほかの考え違いであること。

一、土岐殿が当家の縁辺で慈光院(六角高頼室)に始まって代々縁を重ねていることは、京・田舎でその隠れもないことで、諸事逃れられないこと。

一、あの斎藤治部大輔の身の上のこと。祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の法華坊主出身で西村といった。長井弥二郎のところへ入って、美濃国が混乱した際に、気働きによって次第に贔屓となって、長井の苗字を名乗り、また、父の左近大夫が代々の惣領を殺して諸職を奪い取って斎藤の苗字に成り上がり、あまつさえ次郎殿を婿に取って彼が早世した後は、舎弟の八郎殿と申し合わせて(美濃国)井口へ引き寄せ、事を左右に寄せて死なせ、そのほかの兄弟たちも、あるいは毒殺、あるいは暗殺で全て果てさせてしまいました。その因果は歴然としていること。

一、斎藤治部大輔の父子が義絶に及び、弟を死なせ、父と戦闘に及び、親の首を取りました。このような代々悪逆のていでほしいままに成り上がっては、長久となるでしょうか。美濃守殿を当国に抱え置きながら、(治部大輔を)大名などに昇進させてしまえば、当家の面目を失うことこれに過ぎません。日と月と地がなくならない限り、天道にその罪は逃げられないところ、縁辺を申し合わせたいとは、名利にながら果てることでしょう。江雲寺殿(六角定頼)の、天下にその隠れなき孫が右の覚悟では、先祖に対して不忠ですし、佐々木家末代までの瑕瑾です。分別がありますように。公私ともに辱め同然となることです。

一、義弼が城に帰るとき、諸事はこの承禎の御意次第であることは、起請文があること。

一、(近江国)佐和山において、井口と縁辺を申し合わせたいと誓紙を送ったと、申すのでしょうか。父であるこの承禎に対してすでに弓を引き矢を放つと決めたならば、どのようにも申し合わせればよく、恐らく人々への知行保障なども配当するのでしょう。ですが、和談となって起請文を果たし、城に帰った上は、佐和山でのことは一切入れてはなりません。その時々でどの起請文をば立てるべきか、この承禎への誓紙が正本となるべきでしょうか。それぞれ分別するようにということ。

一、年寄り衆の起請文に相違のことがあれば、きちんと言うように。また義弼が間違っているならば、きちんと意見を言うように決めおくべきで、父子に対して是々非々の意見を今度申し届けなかったら、それは天罰・神罰をも鑑みないことではないでしょうか、ということ。

一、無縁な人が立ち入って頼ってきても抱え置くのは諸侍の義理。粗野な庶民でもその覚悟があるものです。美濃守殿は重ねての縁といい、数年抱え置いています。この時に突き放し、あの敵と縁辺を申し合わせることは、天下の嘲り。前代未聞で口惜しく無念であること。

一、斎藤治部大輔が言上したことを、ご許容なさらないようにという旨、公方様(義輝)へ再三申し上げました。また、伊勢伊勢守(貞孝)と斎藤治部大輔が縁故を結んだとき、京都への荷物以下を当国で押収し、伊勢守に対して数年返しませんでした。そして近衛殿(前久)へあの者の娘が召し置かれるだろうと内々にこちらへお届けになったとき、もってのほかの卑しいことで考えられないと、申し入れを放置なさるようと、進言しました。そのようなところに、今度のこの縁辺の風聞があったと政所殿(貞孝?)から興禅寺経由で仰せられたこと。面目を失った次第で、京都の嘲りは言うまでもありません。さてさて、右のお届けは、この承禎存じませんと申すべきでしょうか。四郎の悪名は末代の不覚です。義弼は若年で、(実態となる)宿老たちの覚悟と言えば、自ずから贈答品に目がくらみ、『仕合もと』でなければ世間に言えないでしょうと。本当に当家は、宇治川以来度々の名誉で今に残っていたところ、この代に至って卑しい事が起こり、物語・草子などにも書き残されること、主従ともに恥ではありませんか。無念至極であること。

一、越前(朝倉義景)と縁辺を申し合わせたこと、去年宿老衆が長光寺で会合したとき、興禅寺経由で尋ねたところ、もっともで然るべきだと一同に返事をしましたので、堅く申し合わせました。この度の異変のこと、状況を申し遣わすべきでしょう。どのようになっていますか。ことに井口のことは、(義景は)古敵と考えているところで、申し合わせのことは、きっと無念に思われるでしょう。また先年の御料人のこと、内々で所望したとはいえ、能登国への義理を違えることから、なし難いとのこと、再び行って通告しました。今またこの縁で相違するなら、色々と遺恨があるでしょう。北辺へは深く重ねて入魂だと思います。そのときのそれぞれの覚悟はどのようにお持ちでしょうか、ということ。

一、内々に聞き及んでいます。斎藤治部大輔の申し合わせ、北辺へ考えがあるとのこと。さてもさても、愚かなことです。井口自らが北の縁辺を捨てて、当方へ同心され、義絶に及ぶのでしょうか。それでは自滅ですから、とても成らぬところに、義弼に縁談を申し合わせたいのと思いのまま、あの仲人どもを落着させています。国が破綻し、その身は後代の恥すら省みないこと。時刻が到来したということ。

一、越前とは断交となり、斎藤治部大輔の申し合わせは『対揚』(釣り合い)とならないでしょう。(義景は)ことに揖斐五郎を抱え置き、入国の内談をし、尾張国(織田信長)に取り急ぎ奔走するようにと美濃守殿へ申し談じているとのことです。ということで、あの両国より美濃国へ侵攻するとき、当方の働きはどのようになるでしょうか。美濃守を捨ててさえいないのに、当国からの出勢とはどのように思われるでしょうか。越前・尾張にはその覚悟と対応があるでしょう。その上こちらの働き一切は事はならないでしょう。あれこれと天下の褒貶が決まるのはこの時です。

一、先年(近江)北郡に出陣したとき、美濃国井口より斎藤山城守が矢倉山まで働きましたが、一向に手を溜めずに駆け散りました。その後は足軽1人も出てきていません。義弼に万一のときは、援軍として井口より出撃があるだろうと、それぞれお考えでしょうか。首に縄をつけたとしても出てこないでしょう。なぜなら、越前・尾張を左右に置き、遠山を初めとする東美濃を後に置き、兵力を出すことはできないだろうからです。であるなら、この国は何の役に立つのでしょうか。当方との境界の状況により、志賀郡などへ、京都の騒ぎが影響しそうです。その配慮をしなければならないところ、越前・北郡辺りが不通になりましたら、ますます思いも寄らぬことが出てくるでしょう。そのときはそれぞれの覚悟が専ら重要です。

一、慈寿院殿・承禎を目前に置きながら、四郎の祝言を行なうことは不孝の至りで、外聞も内実もどのように思われるでしょうか。この縁で家格の上下は第2としても、美濃守殿を数年抱え置き、手前をも当たらせて、婚期が特別遅れている訳ではないのに、混乱してあの国盗の被官人と縁辺を申し合わせ、他国から入国させようとしています。越前・尾張の当国への遺恨は必定です。ですから、名誉と利益を比べれば、この度承禎・義弼と年寄り衆は悪名にその隠れもないでしょう。国のため家のため、余りに悔しいこと、このようです。江雲寺殿は都と分国で共に名誉をお持ちでしたが、承禎は器になく、よってこの仕上がりになってしまいました。その子である四郎は若年で無分別なのを、年寄り衆が奉って意見をせず、睨み合う。名をも、徳をも、家をも末永くなくしたと、下々の風聞はどのようになると思っていますか。一旦は折檻に及んだとしても、それぞれ具申されるように。右のように申して、誓紙を出した上は、相違があってはなりません。後悔先に立たずです。取り急ぎ申し届けられ、返事をいただきますよう。

一、壱本 松曲輪

一、すきつ ――

一、馬場 ――

一、御方 ――

一、同はしろ ――

一、はらまへ向長 ――

一、中島

一、御かたへおもての分

一、八幡 ――

一、新 ――

一、ふしいろ

曲輪此分とり入分、一、御かまえうちのはしくし、同新 ――、向はしくし 一、四郎殿曲より北殿御座改迄、以上、

右分うちたて候、書付さし上へく候、曲輪之内ニ而、西向何間、北向何間上、其向ゝを念比に可書付候、

  岡本

→小田原市史 別編城郭編29「岡本氏書立写」(安得虎子)

 <計数部分略>右の分を建設します。覚書を差し上げます。曲輪の内て、西向に何間、北向に何間の上、その方角それぞれを念入りに記録します。

条目

老父上洛遅延由、御立腹ニテ、到沼津下向、一昨六日之御紙面、案外候、抑去夏妙音院・一鴎軒下向之刻、截流斎於罷上儀ハ勿論候、併当年者難成候、来春度之間可発足之由、条ゝ雖御理候、不可相叶旨、頻承候、公義ノ事、不及了簡、極月卒尓半途迄モ罷出、正月中ニ可京着由ニテ候キ、就中先年家康上洛之砌者、被結骨肉、猶大政所ヲ三州迄御移ノ由、承届候、然而名胡桃仕合ニ付御腹立、或永可被留置、或国替、カ様之惑説従方ゝ申来候条、一度帰国存切之由、截流斎申候、[父子之国(間)] 可過御察候、依之妙音院・一鴎軒招申、縦此侭在京候トモ、晴心中、心易上洛為可申候、更非別条候事、

一 此度為祝儀為指上候石巻御取成之模様、於都鄙失面目候、更以氏直相違之扱、毛頭在間敷由ニ候、御両所へ恨入候、去四日、妙音院此方へ招申義者、石巻御取成不審候間、内ゝ可尋申存分故ニ候、然ニ半途ニ相押之由、無是非存候条、以書付申述候事、

一 此上モ無疑心至御取成者、無猶予截流斎可上洛旨申候間、御両所有御分別、可然様ニ所希ニ候事、

一 名胡桃之事、一切不存候、被城主中山書付、進之候、既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候、越後衆半途打出、信州川中嶋ト知行替之由候間、御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候、越後之事ハ不成一代古敵、彼表へ相移候ヘハ、一日も沼田安泰可在候哉、乍去彼申所実否不知候、従家康モ、先段ニ承候間、尋キワメ為可申、即進候キ、二三日中ニ、定而可申来候、努ゝ非表裏候、ナクルミノ至時、百姓屋敷淵底、以前御下向之砌、可有御見分歟事、

一 以前渡給候吾妻領、真田以取成、百姓等押払、一人モ不置候、剰号中条地、其侭人前旨台詰不相渡、箇様少事可申達無之候間、打捨置候、猶名胡桃之事ハ、対決上、何分ニモ可任承意候事、以上、

十二月七日

氏直

冨田左近将監殿

津田隼人正殿

→小田原市史 史料編1982「北条氏直条書写」(武家事紀三十三)

1589(天正17)年に比定。

 老父の上洛を遅延したことでご立腹され、沼津に下向との由、一昨日6日の書面は思ってもいなかったことです。そもそも去る夏に妙音院・一鴎軒が下向された際に、氏政が上洛することは決しており、併せて今年は難しいので来たる春か夏の間に出立するとのこと、色々とご説明したものの、叶わないだろうとの旨、しきりにお聞きしました。公儀のことですから最優先で、12月に急遽途中まで出て、1月中に京へ到着することとなりました。ただ、先年家康が上洛する際には、血縁を結び、さらには大政所を三河国にお移しになられたこと、聞いております。そして名胡桃の出来事にご立腹とのことで、あるいは長期抑留、あるいは国替などと、不穏な噂が方々より届けられています。帰国はできないものと氏政が申しております。父と息子のこと、お察し下さい。これによって妙音院・一鴎軒を招いて、たとえこのまま在京するとしても心中は晴れやかで心安く上洛するだろうと告げました。さらに別状はありませんでした。
 一、この度祝儀のため上洛させようとした石巻の取り扱いの模様、都鄙(京・関東)の間で面目を失いました。さらにここで氏直に間違った扱いをすることは、毛頭あるまじきことです。御両所を恨みます。去る4日、妙音院をこちらへ招待したのは、石巻の取り扱いが不審なので、内々に考えを尋ねるためでした。そこへ途中で拘留したとのこと。どうしようもないことと思い、書付にて申し述べました。
 一、この状況でも疑心なくおとりなしいただけるなら、猶予なく氏政が上洛すると申しておりますので、御両所はよくお考えになり、しかるべきようになさることを希望します。
 一、名胡桃のことは、一切知りません。城主中山の書付を進呈します。既に真田がこちらへ渡していると申していますので紛争ではありませんが、越後衆が途中まで出撃しており、信濃国川中島と知行を替えると申しています。ご糾明の上でですが、それ以来加勢が入ると沼田から連絡があります。越後のことは一代ではない古敵です。あの方面に移動したならば、沼田が一日でも安泰でいられましょうか。とはいえその報告は実否を知りません。家康よりも先段承りましたので、徹底究明するべきだとのことで、すぐに進めていますから、ニ三日中にきっと報告があるでしょう。間違っても裏表はありません。名胡桃の時に至っては、百姓屋敷の明細は以前下向なさった際に、お見分けあったでしょうか。ということ。
 一、以前にお渡し下さった吾妻領は、真田の介入によって百姓達がいなくなり、一人も残っていません。さらに中条という土地でそのまま人前で『台詰』(台帳不在?)であるとして渡していません。このような小事、申すまでもないことだと打ち捨てております。さらに名胡桃のことは、対決の上、何分にも意を承ってお任せするでしょうこと。

一本知新知万不入ニ可被仰付事、

一拙者知行之内并家中之者共、御国之衆へ致被官之義、無御許容之事、

一度々如申上候、河より東之領中内に候共、川より西候者、一書のことく相違有間敷事、

以上

天文十五年十月十六日 牧野田三郎 保成 判

朝三兵

雪斎

参人々御中

右之裏ニ 泰能 判

親徳 判

崇字 判

→静岡県史 資料編7「牧野保成条目写」(松平奥平家古文書写)

一、本知行・新知行何れも不入として保障されること。
一、私の知行のうちと家中の者たちがそちらの直参に被官として仕えることを、許容しないこと。
一、度々申し上げたように、河より東の領内は我々のものだが、川より西は書面のように相違があってはならないこと。

条目

一今橋・田原御敵ふせらるゝにおゐてハ、今橋跡職、名字之知にて御座候間、城共に可被仰付、御訴訟申候処、両所御敵を仕候間、今はし・田原之知行、河より西をさかい入くミなしに可被仰付候由候、此上兎角申たてかたく候間、如此候、伊奈之儀、本知之事候間、不及申候、然者西三河猶一篇之上、若又両所御成敗之時も此分ニ可被仰付事候、

一同主田原・今橋申様御座候者、御味方に可被成事、於我等忝存候、右之申分ハ御敵等参候者の申事候、

一長沢敵ニ参御成敗候ハゝ、彼跡職一円ニ被仰付て可被下候、今之城、不被仰付候間、此儀今以播面目候ために如此申上候、

一長沢御味方ニ参候者、下条之郷・和田之郷・千両上下・大崎郷・佐脇郷上下・六角郷・此都合八百貫余、可有御座候、以上使被成御糾明、可被仰付候事

此小書うら書と同筆にて

此一ヶ条之事ハ、長沢被付御敵之上、只今之被仰事、入間敷存候間、可被除之候、

一御馬出候歟、又御人数西郷へ御行候ハゝ、質物渡可申事

右之条々、有御分別御披露可畏入候、然者御聴も被合御判形を可被下候、

以上

天文十五年丙午 九月廿八日

牧野田三郎

保成判

右之裏書ニ

此五ヶ条之内一ヶ条を除四ヶ条之事者、先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候、猶只今承候間、我等加印申候者也、仍如件、

十一月廿五日

泰能判

親徳判

崇孚判

→愛知県史 資料編10「牧野保成条目写」(松平奥平家古文書写)

一、今橋・田原の敵を屈服なさるに当たり、今橋の跡目、我々の苗字の土地ですから、城とともにお任せいただけますでしょうか。訴訟となっておりますが、両所が敵となっており、今橋・田原の知行は川より西を境界として飛び地はないだろうとの仰せだと聞きました。こうなれば更にとやかく申し上げにくいので、そのようになりましょう。伊奈の件は、本領のことですから申し上げるまでもありません。ということで西三河を更に編成した上で、もし両所をご成敗される時も、このようにご指示下さいますように。
一、同じく主の田原・今橋が申し上げる内容によっては、お味方なってもよいとのこと。私はかたじけなく思っています。右の申し分は敵となった場合の文言です。
一、長沢の敵になった者のご成敗をされるなら、あの一円の跡目はお任せいただけますように。今の城は仰せつかっていませんので、このことは未だに面目が立っていません。ですからこのように申し上げています。
一、長沢が味方となれば、下条郷・和田郷・千両郷(上下)・大崎郷・佐脇郷(上下)・六角郷で、合わせて800貫文余りあるでしょう。使者を出して精査していただき、ご指示をお願いします。
※裏書と同筆で補記 この1箇条は、長沢が現在敵になったため適用されず除外となる。
一、ご出馬されるのでしょうか。また、部隊が西郷へ出動するようでしたら、人質をお渡ししましょう。
※裏書 右の項目5箇条のうち、1箇条を除く4箇条のことは、先日松平蔵人佐と安心軒が在国した時に、屋形(今川義元)が決裁した書面を出しているので異議がないように。更に只今承知したということで、我々が押印を加えるものである。

一、岡崎退治之籌略をめくらすへく候也、この所下条弾正半途へ越、岡崎より使之者を招密談尤ニ候、若不審候ハゝ氏真よりの書状披見として、半途江差越へき旨、急度可被申越之事、

一、久々利江之俵子、先五百俵相移候哉、重而五百俵必可移候、人足者高遠より下飯田より上人夫にて、信濃境迄遣へく候、其より久々利へは苗左兄弟之領中より、人夫相催運送あるへき旨、兼而理へき事、

(後筆)「是ハ永禄六年、今川氏真と家康公御手切之時、氏真より信玄を頼調略之時、信玄自筆候ニ而、本書に宛所不見」

→戦国遺文 武田氏編「武田信玄判物写[軍役条目]」(東洋文庫所蔵「水月古鑑」五)

一、岡崎退治の策略を巡らしましょう。最近下条弾正を途中まで遣わし、岡崎からの使者を招いて密談するのがもっともです。もし不審な点があれば氏真からの書状を見るとして、途中へ届けさせるべき旨、取り急ぎ指示されるでしょう。
一、久々利への俵ですが、まず500俵が移送できましたか。さらに500俵を必ず移して下さい。人足は高遠から南、飯田より北の領地から徴発して、信濃国境まで派遣して下さい。久々利へは苗左(遠山氏)兄弟の領地内から人足を徴発して運送を行なうこと。こちらも覚えておいて下さい。