於牛久保今度令取替来五百俵被返弁之儀、以来穀雖可申付、為遠路之条、代物爾相定、去四月之売買計、別積百五拾貫文可弁債、遠州吉美以年員銭所申付也、若代物就不足者、以同郷之米時之売買積百五十貫文之首尾可相渡之、殊利足之儀者、一円令奉公段忠節也、以此印判可請取之、雖然彼地為境目之間、若有引所於首尾相違者、於自余可申付者也、仍如件、

 永禄四年辛酉 七月廿日

岩瀬雅楽介殿

→戦国遺文 今川氏編1727「今川氏真朱印状写」(国立公文書館所蔵牛窪記)

 牛久保においてこの度取り替えていただいた500俵をご返済する件、以降に現物でと指示していましたが、遠いので代替物でと決めまして、去る4月の売買で別にした150貫文を弁済するよう、遠江国吉美の年貢をもって伝えたところである。もし代替物が不足しているならば、同郷の米を売った内から150貫文の首尾を渡すようにしています。特に利息のことは、一円で奉公したのが忠節であります。この印判で受け取るように。あの土地が境目にあるからとはいえ、もし首尾から差し引かれて相違がある場合は、他から申し付けるでしょう。

今度阿形岩江相働、敵金田妙嘉之介討取、働無非類之由、嘉悦之至候、依之、廿壱貫三百五拾文、野上用土分・新井共ニ為合力之間、慥ニ請取、向後弥可抽忠信者也、仍如件、

 午

八月廿一日

山崎弥三郎殿

→戦国遺文 後北条氏編2398「北条氏邦朱印状写」(新編武蔵国風土記稿秩父郡六

天正10年に比定。

 この度阿形岩へ出撃し、敵の金田妙嘉之介を討ち取り、戦果が比類なかったこと、嘉悦の至りです。これにより、21貫350文・野上用土分を、新井と共に力を合わせたので受け取るように。今後はますます忠信にぬきんでるよう。

一、此度滝川左近将監与於上州前橋合戦之刻、父子前登進敵ト戦大勢ヲ追崩、殊ニ首取候事、又無比類働一人当千也、此度勧賞、相州愛甲郡於奈良沢郷弐百貫文之所宛行者也、仍如件、

天正十年[壬午]

 発仙 奉之

七月廿三日

山口郷左衛門殿

同 弥太郎殿

→戦国遺文 後北条氏編2380「松田憲秀朱印状写」(新編武蔵国風土記稿高麗郡十)

 この度滝川左近将監と上野国前橋で合戦した際に、父子で前に登り進み敵と戦い大勢を追い崩し、とくに首級を取りましたこと。また、比類なき活躍は一騎当千でこの度表彰し相模国愛甲郡奈良沢郷において200貫文を宛て行なうものである。

如顕先書、京勢催行由、注進連続之間、先軍勢を集候、其表之義任置候条、善悪共安房守被相談、無二可被及防戦候、

一、郷村之兵粮、正月晦日迄限而、悉く要害へ被入置事、惣並候、厳可有下知候、少之切所をかたとり、城中へ兵粮被入義、諸人難渋毎度候、畢境其方可被楯籠居城江皆可被集候、自元郷村ニ有之者、小旗先迄も然与被指置義、勿論候、

一、長井坂当番小幡衆ニ候、当表へ参陣ニ定候間、来正月七日ニ、必ゝ彼番所被請取人衆可被返事、

  已上

右、定所如件、

十二月廿七日

 「氏直朱印」

長尾左衛門尉殿

同 孫七郎殿

→1998「北条家朱印状写」(暁庵景治年譜)

天正17年に比定。

先の書状で示したように、京の軍勢が動員されたとのこと。報告が続いていますから、まずは軍勢を集めています。そちら方面の件はお任せしますから、事の善し悪しともに安房守に相談され、とにかく防戦して下さい。
一、郷村の兵糧は、1月末日を期限にして、全て要害へ入れて置くこと。例外はありませんので厳重に命令して下さい。少しでも厳重な場所ということで城中へ兵糧を入れられることは、毎回諸人が困ることです。最終的にはあなたが籠城する城に全て集めるべく、郷村の者は元より『小旗先』まで確実に指示なさる事は言うまでもありません。
一、長井坂の当番である小幡衆は、こちら方面に参陣が決まりましたので、来たる1月7日に必ずあの番所を受け持って(小幡の)部隊を撤収なさるように。

大手諸軍在陣之内、万一古河・栗橋之間へ敵動有之付而者、何時も栗橋川向迄、町人衆悉払而馳参、布施美作守相談、相応之儀可走廻候、若致無沙汰者有之者、後日聞出次第、可行重科候、如何ニも入精可走回候、仍如件、

[虎朱印]三月十三日

[宛所欠損]

→戦国遺文 後北条氏編 2150「北条家朱印状写」(下総旧事三)

天正8年に比定。

 大手の諸軍が在陣する状況で、万一古河・栗橋の中間点に敵が攻撃してきたなら、何時でも栗橋の川向こうまで町人が全員馳せ集まり、布施美作守に相談し、的確な対応を行なって下さい。もし欠席する者があれば、後日聞き出し次第に重罰に処すでしょう。どうやってでも精を入れて活躍して下さい。

舟橋三王山南之構之小ほり半分ツゝ、両宿より可致之候、模様者、近藤治部左衛門・太田美作守如作意可致之者也、仍如件、

天正五[丁丑]年

[朱印]壬七月朔日

関宿 綱代宿・臺宿町人衆中

→戦国遺文 後北条氏編 1925「北条家朱印状写」(下総旧事三)

 舟橋三王山南の構えの小堀を半分ずつ、両宿で作業して下さい。段取りは近藤治部左衛門、太田美作守の意図のように行なうこと。

五月十五日、於才原敵討捕候、神妙ニ被思召候、仍俵子被下候、向後弥軽身命走廻者、御恩賞任望可被与旨、被仰出者也、仍如件、

庚辰[印文未詳]六月八日

坂本四郎左衛門

→戦国遺文 後北条氏編 2177「北条氏照朱印状写」(新編武蔵国風土記稿百十一多摩郡)

天正8年に比定。

 5月15日、才原において敵を討ち取りました。神妙に思し召されました。俵子を下されました。今後ますます身命を軽んじて活躍するなら、ご恩賞は望みのまま与えられるだろうとの仰せである。

爰元在城七月迄申付候処、無相違御請申、於自今可引立候、鉢形知行親出置候、知行役等、当月廿五日より可申付候間、早ゝ在所へ人被越可申付者也、仍如件、

卯[「翕邦把福」朱印]四月五日

→戦国遺文 後北条氏編 2063「北条氏邦朱印状写」(武州文書所収秩父郡源八所蔵文書)

天正7年に比定。宛所欠損。

 こちらに在城を7月まで申し付けましたところ、相違なく承知したと言ってくれました。これより以後は引き立てましょう。鉢形の知行は親に拠出しました。知行役などは今月25日より申し付けますので、早々に在所へ人を派遣して申し付けるように。

一宮正木藤太郎逼迫候間、合力候、今廿三日より四・五・六、四日之間ニ、兵粮支度出来次第、百四十俵一宮へ遣、正木代自旗本之検使両人之請取状を、可被取候、仍如件、

追而彼兵粮、用ニ立様ニ可被申付候、

八月廿三日[虎印]

左衛門大夫殿

→戦国遺文 後北条氏編 1800「北条家朱印状写」(伊藤賢之丞氏所蔵文書)

天正3年に比定。

 一宮の正木藤太郎が逼迫していますので、助力します。今23日より24・25・26の4日の間に、兵糧の準備が出来次第、140俵を一宮へ送り、正木の代理と旗本よりの検使、両人の受取状を取って下さい。
 追記:あの兵糧は役に立てるようにと、申し付けられました。

四百六拾六俵  借米本利之辻 但丑年迄

  此返弁

 弐百十八俵 丑九月より十一月を切而返弁、五十四貫五百文之分、

 弐百十八俵 寅年同断、

 卅俵 卯年九月

  已上四百六十六俵

一、諸人之借米、丑年迄本利合四百余俵也、諸人之借銭・借米、自御大途是非之綺、更雖有間敷子細候、与大郎父善右衛門先年駿州乱之刻、大聖院殿為御使、火急之砌、抛身命駿州へ罷越、剰遠州迄、御前之致御供候、其忠功更ニ不浅候、然ニ今与大郎借銭ニ進退打捨所不敏之間、如此返弁被仰出事、

一、知行之内五拾余貫、丑・寅両年着到赦免畢、是を以借米可済払事、

一、残五拾余貫を以、此員数ニ相当之軍役勤之、自卯年秋如前ゝ軍役本役ニ可走廻事、

 右定処、蔵本へも一ゝ為見御印判可申断候、定而各可聞届候、仍如件、

[丁丑]三月十九日[虎朱印]

山角上野守 奉之

西原与大郎殿

→戦国遺文 後北条氏編 1896「北条家朱印状写」(大竹文書)

天正5年に比定。

 466俵 借米の元本・利息合計(但し丑年まで)。この返済。218俵 丑年9月より11月を目処に返済、54貫500文の分である。218俵 寅年も同様である。30俵 卯年9月。以上466俵。一、諸人の借米は、丑年までの元利合計400余俵である。諸人の借銭・借米は、御大途より超法規措置をするのはあるまじき事だが、与大郎父の善右衛門は先年駿河国で乱があった際、大聖院殿(氏康)の使者を勤め、緊急時ということで身命を投げ打って駿河国に赴いた。更には遠江国まで御前のお供をしました。その忠功は浅くありません。ということで現在与大郎が借銭で進退を失い不憫なので、このように返済するよう仰せになりました事。一、知行のうち50余貫文、丑・寅両年の着到は免除する。これを使って借米を返済する事。一、残る50余貫文をもって、この員数に相当する軍役を勤め、卯年の秋より以前のように軍役・本役に活躍する事。

 右に定めるところ、蔵本へも逐一御印判を見せて証明して下さい。きっと聞き届けるでしょう。