尚以、各々無沙汰無之様ニ可被申付候、以上、
其谷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、井主私被仕候而、祝田郷中并都田上下給人衆之中、于今徳政沙汰無之間、本百性只今許詔申候条、任 御判形之旨ニ可被申付候、寅年被仰付候処、銭主方令難渋、于今無沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候、為其一筆申候、恐々謹言、
八月四日
 関越 氏経
伊井谷
親類衆
披官衆中

→戦国遺文 今川氏編2184「関口氏経書状写」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

永禄11年に比定。

 その谷の徳政のこと。去る寅年にご判形をもってご命令になったとはいえ、井伊主水佑が私的譲歩をして、祝田郷中ならびに都田上下の給人衆中が今も徳政を行なっていないと、本百姓が現在訴訟してきたので、ご判形の通りにせよと申し付けられました。寅年に仰せ付けられましたところに、銭主が難渋して、今もその処置がないこと、本当に遺憾です。この上は、銭主がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはならない。そのために一筆を申し入れます。

追記:さらにもって、各々が無沙汰にならぬようにご指示下さい。以上。

近国江可令出馬之条、各先手之働於有之者、祝着可存候、遠江国天野宮内右衛門ニ雖内通遣候、不承引之間、天野領分国中輩廻文を手ニ入候様、手立肝要候、控岩嶋梶兵衛ニ申含候、かしく、
八月三日
 家康 御書判
小笠原信濃守殿
同 左衛門佐殿
同 喜三郎殿

→戦国遺文 今川氏編2182「徳川家康書状写」(唐津小笠原家文書)

永禄11年に比定。

 近くの国へ出馬するので、各々が先鋒としてお働きいただければ幸いです。遠江国の天野宮内右衛門に内通を打診しましたが承知しませんでしたので、天野の領地内の人々が回覧の書状を見られるように手回しするのが重要です。さらに岩嶋梶兵衛に申し含ませました。

如兼日家康江申入、長々雖対陳候、敵高山ニ陣取候間、不及一戦、無所詮労兵之間、種々東口廻籌策、大形首尾入眼之条、去廿四日被納馬候、内々向当城一行候之歟、不然者当府迄可有一動之由、狭量候之処、五日何もの陳場ニ令在陳、足軽をも不下、昨日未刻退散候、定五三日も蒲原之仕置可有之旨存候之処、直被引入候、如推量者、東口之調儀成就候哉、従日暮被越大河敗北之躰、不審不少候、弥其表御備肝要候、懸川之模様委承届度候、当表之儀本意不可有程候、畢竟 家康御覚悟当口可任信玄存分候、此旨可然様可有御披露候、猶期後信之時候、恐々謹言、

五日朔日

 信君

酒井左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編2739「武田[穴山]信君書状写」(山形県鶴岡市致道博物館所蔵一智公御世紀巻一所収文書)

永禄12年に比定。

先日家康へ申し入れたとおり、長々対陣しましたが敵が高山へ陣取ったので、一戦には及びませんでした。目的も果たせず兵を疲れさせましたので、色々と東方面に謀を廻らしました。大体の首尾は成就しましたので、去る24日に馬をお納めになりました。内々に……あの城へ向け作戦するのでしょうか。でなければ当府を攻撃するだろうとのこと……心が狭いのでしょうか……5日間も陣場に在陣し、足軽すら下さず、昨日未刻に退散。きっと数日で蒲原の処置があるだろうと思っていたところ、直接引き入れられました。推量するとおりだとすると、東方面の調儀が成功したのでしょうか。日暮れより大河を越えられて敗北したていとのことで、不審な点が少なからずあります……。いよいよその方面のご守備が重要です。掛川の状況を詳しく承りたく存じます。こちらの方面は、本意までさほどかからないでしょう。最終的に、家康のご覚悟でこちら方面は信玄の存分にお任せ下さい。このことは然るべくご披露いただけますでしょうか。さらに後の連絡の時を期します。

御帰陣之上早々可申之処、少取乱候而、遅々意外之至候、仍去年以随波斎申候之処、以一書承之候、得其意■■可申候、就御在陣■引非疎意候、只今存分以定林院■申候、於氏真聊無別儀候、将亦初秋至三州可出馬候、如兼約御合力候者、可為祝着候、此時御入魂偏憑存候、於様躰者付彼口上候、猶三浦備後守可申候、恐々謹言、

六月廿日

 氏真(花押影)

徳栄軒

→戦国遺文 今川氏編2726「今川氏真書状写」(国文学研究資料館所蔵徴古雑抄第二十五冊尾張三河遠江駿河伊豆甲斐相模武蔵下所収)

永禄5年に比定。

ご帰陣の上早々に申すべきところ、少し取り込んでしまい、遅くなったのは思いも寄らぬことでした。さて去る年に随波斎をもって申したところ、書状で承りました。その意を得て■■■申しましょう。ご在陣が(長引いた)のは疎かな気持ちからではありません。現在の考えを定林院から申しましょう。氏真においては少しも底意はありません。そしてまた初秋に三河へ出馬するでしょう。兼ねてお約束したようにご協力いただければ、祝着です。この時のご入魂をひたすらお願いします。状況についてはあの者の口上として付けます。さらに三浦備後守が申すでしょう。

猶以近年ハたかいに等閑之様ニ候、此上者引かいられ可仰蒙候、我ゝも兼而貴所江於細事之儀もいこん無之、いかさま以■可申、以上、
蒔田所迄先日内意委細承届候キ、然処ニ向後我ゝふさた有間敷之段、せいし以仰候、誠以祝着よし様もなく候、もちろんなから於我等も向後ハ弥ゝ可申承候、心底不相替候様ニ尤存候、以上、
四日
 直定(花押)
「かけ山長門尉殿 参
 左馬助」
「蔭山■■殿 左馬助」

→戦国遺文 後北条氏編4227「松田直秀書状写」(諸家古文書写)

 蒔田の所まで先日は内意・詳細をお受けして届けました。というところに、今後は私たちの間で行き違いがあってはならないと、誓紙をもって言っていただきました。本当に祝着でこれ以上のことはありません。もちろん私も今後はますますお話をお聞きしましょう。心底は変わらぬようにするのがもっともです。

 さらに、近年はお互いに等閑している状態でした。こうなった上は『引きかいられ』て仰せをお受けしましょう。私たちも兼ねてよりあなたへ細事であっても遺恨はありませんでした。どのようにでもお申し付けくださいますよう。

別て炎天時分御辛労無申計候、次黒田官兵様へ心得て可有、於小田原之万ゝ御取籠付て委細不申遂候、此返御心得所仰候、

内ゝ御床敷存幸便之間一筆令申候、其已来者遠路故給音問所存外候、小田原御立之時分者御暇乞不申候、奥へ御供之由、扨ゝ御苦労察入申候、拙者者箕輪へ可罷移由御上意候間、先ゝ当地ニ移申事候、爰元御用等候者、可被仰越候、少も疎略有間敷候、何様御帰之時分、以而申入候者可承候、如在存間敷候、猶重而可申達候、恐々謹言、

八月四日

 井伊兵部少輔 直政(花押)

小幡右兵衛尉■

→戦国遺文 後北条氏編4549「井伊直政書状写」(加賀小幡文書)

天正18年に比定。

 内々にお懐かしく思い、便があったので一筆申し上げます。あれ以来は遠路によってご連絡いただけるとは考えておりませんでした。小田原をお発ちの時にはご挨拶を申し上げませんでした。陸奥国へお供されたとのこと。さてさて、ご苦労お察しします。私は箕輪へ移るように上意がありましたので、とにかくこの地へ移りました。こちらでご用向きの際は、仰せになって下さい。少しの粗略もありません。色々とお帰りになった際にお申し入れいただければ、承りましょう。手抜かりはありません。さらに重ねてご伝達しましょう。

 別途。炎天の時分のご辛労は申し上げるばかりもありません。次に、黒田官兵衛様へ心得を言い付かりました。小田原においては色々と取り込んで詳細を申し遂げられませんでした。この返信はお心得を仰ぐところです。

今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候、

天正八年八月十六日

 御判

笠原新六郎殿

→戦国遺文 後北条氏編4490「徳川家康書状写」(紀州藩家中系譜)

 この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎらうため、刀1腰、岩切丸をお贈りします。さらにご連絡を期します。

芳翰并御使者口上之趣、即殿下へ令披露処、尤忠節之段、悦思召候、然ハ伊豆相摸、永代可被扶助旨候、弥被極御分別、重而誓紙等之儀、委御沙汰候て、頓而可被仰越候、恐惶謹言、

六月八日

[「北条家老松田尾張守政賢反逆ニテ秀吉へ内通ノ答、態タガヒノ名字ナカリシト云ゝ」

→小田原市史 史料編 原始・古代・中世I 865「其書状写」(古今消息集六)

天正18年に比定。

 ご書状とご使者の口上の内容、すぐに殿下へ披露いたしましたところ、もっともな忠節であるとお喜びになりました。ということで伊豆・相模は末永く扶助されるとのことです。ますますご分別を極められ、重ねて誓紙などのことを詳しくご処理いただき、すぐに仰せになるでしょう。

去月十九日書札、今日令披閲候、如来意、武田四郎至三・信堺目動候条、即時令出馬、去月廿一日遂一戦、切頽属平均候、其趣自陣所以使者申遣候、定可為参着候、信長畿内其外北国・南方之儀付而取紛候刻、武田信玄遠・三堺目へ動罷出候ツ、何時候共、於手合者、可打果候由、相拵候間、信玄断絶候条、残多候キ、四郎慣其例出張候、誠天与之儀候間、不残思惟、取懸悉討果候、四郎赤裸之体ニて一身北入候と申候、大将分者共さへ■に死候、此外之儀は不知数候、於様子は、不可有其隠候、散数年之鬱憤候、次信・濃堺目岩村と申要害、従甲州相抱候条、取巻候、種々雖令懇望、可攻殺覚悟ニ候所赦候、五三日中可為落居候間、然者至信州可出勢候、連々自其方承候儀も候条、此節至信・甲可被及行之儀、幸時分候歟、家康者駿州へ相動、伊豆堺迄放火候、今川氏真可■居候、兵粮未出来候間、為士卒先納馬候、来秋重而可動候、猶以其口事無御油断御過専一候、恐々謹言、

六月三十日

 信長花押

不識庵 進覧之候

→戦国遺文 今川氏編2571「織田信長書状写」(上杉家編年文書)

天正3年に比定。

去る月19日の書状を今日拝見しました。お書きいただいたとおり、武田四郎が三河・信濃の国境に出撃したので、すぐに出馬いたしました。去る月21日に一戦を遂げ、切り崩して平定しました。その概要は陣中から使者を出して報告しました。きっと着いたことでしょう。信長が畿内のほか北国・南方のことで立て込んでいるときに、信玄は遠江・三河の国境へ出てきたことがありました。いつであっても手合わせして討ち果たしてやろうと考えて準備していたところ、信玄が断絶したのでとても心残りでした。四郎はその例に慣れて出張ってきました。本当に天が与えた好機ですので、考えることなく攻撃して、ことごとく討ち果たしました。四郎は丸裸の状況で身を北に入れたそうです。大将身分の者たちでさえ死にました。その他の者は数知れずで、その様子は隠せないでしょう。数年の鬱憤を晴らしました。次に信濃・美濃の国境に岩村という要害があり、武田方が保持していましたので包囲しました。色々と懇願してきても攻め殺す覚悟でしたが、許します。数日中には開城するでしょうから、そうなると信濃国へ出撃するでしょう。何度かあなたから承ったこと、この際信濃・甲斐を攻撃なさる好機ではないでしょうか。家康は駿河国へ出動し、伊豆の境まで放火しました。今川氏真がおります。兵糧が準備できていなかったので、兵のためまず馬を納めました。来る秋に重ねて作戦するでしょう。さらにそちら方面でご油断なく過ごされるのが大切です。

急度染一筆候、仍今度至駿州雖敵動候、其谷無事満足候、光明之番申付候間、定可被移候歟、弥谷中堅固備任入候、就中子息小四郎此度長篠於法元、最前越川則合鑓、別而粉骨誠感悦ニ候、其上無何事被退之儀、勝頼大慶不過之候、猶玄蕃頭江尻在番候之間、用所等可被相談候、恐々謹言、

六月七日

 勝頼 判

天野宮内右衛門殿

→戦国遺文 今川氏編2569「武田勝頼書状写」(浜松市天竜区春野町・天野家文書)

天正3年に比定。

取り急ぎお伝えします。この度駿河国に敵が侵入したのですが、その谷が無事で満足です。光明の守備を申し付けましたので、きっと移られたのでしょうか。谷を堅固に備えるよう、ますますお願いします。とりわけ息子の小四郎は、この度長篠の法元において、前線で川を越えて槍を合わせ、格別の粉骨をし本当に感じ入りました。その上で何事もなく退かれましたこと、勝頼の喜びはこれに過ぎるものはありません。なお、玄蕃頭が江尻に当番でおりますので、用向きがあれば相談して下さい。