去月十九日書札、今日令披閲候、如来意、武田四郎至三・信堺目動候条、即時令出馬、去月廿一日遂一戦、切頽属平均候、其趣自陣所以使者申遣候、定可為参着候、信長畿内其外北国・南方之儀付而取紛候刻、武田信玄遠・三堺目へ動罷出候ツ、何時候共、於手合者、可打果候由、相拵候間、信玄断絶候条、残多候キ、四郎慣其例出張候、誠天与之儀候間、不残思惟、取懸悉討果候、四郎赤裸之体ニて一身北入候と申候、大将分者共さへ■に死候、此外之儀は不知数候、於様子は、不可有其隠候、散数年之鬱憤候、次信・濃堺目岩村と申要害、従甲州相抱候条、取巻候、種々雖令懇望、可攻殺覚悟ニ候所赦候、五三日中可為落居候間、然者至信州可出勢候、連々自其方承候儀も候条、此節至信・甲可被及行之儀、幸時分候歟、家康者駿州へ相動、伊豆堺迄放火候、今川氏真可■居候、兵粮未出来候間、為士卒先納馬候、来秋重而可動候、猶以其口事無御油断御過専一候、恐々謹言、

六月三十日

 信長花押

不識庵 進覧之候

→戦国遺文 今川氏編2571「織田信長書状写」(上杉家編年文書)

天正3年に比定。

去る月19日の書状を今日拝見しました。お書きいただいたとおり、武田四郎が三河・信濃の国境に出撃したので、すぐに出馬いたしました。去る月21日に一戦を遂げ、切り崩して平定しました。その概要は陣中から使者を出して報告しました。きっと着いたことでしょう。信長が畿内のほか北国・南方のことで立て込んでいるときに、信玄は遠江・三河の国境へ出てきたことがありました。いつであっても手合わせして討ち果たしてやろうと考えて準備していたところ、信玄が断絶したのでとても心残りでした。四郎はその例に慣れて出張ってきました。本当に天が与えた好機ですので、考えることなく攻撃して、ことごとく討ち果たしました。四郎は丸裸の状況で身を北に入れたそうです。大将身分の者たちでさえ死にました。その他の者は数知れずで、その様子は隠せないでしょう。数年の鬱憤を晴らしました。次に信濃・美濃の国境に岩村という要害があり、武田方が保持していましたので包囲しました。色々と懇願してきても攻め殺す覚悟でしたが、許します。数日中には開城するでしょうから、そうなると信濃国へ出撃するでしょう。何度かあなたから承ったこと、この際信濃・甲斐を攻撃なさる好機ではないでしょうか。家康は駿河国へ出動し、伊豆の境まで放火しました。今川氏真がおります。兵糧が準備できていなかったので、兵のためまず馬を納めました。来る秋に重ねて作戦するでしょう。さらにそちら方面でご油断なく過ごされるのが大切です。

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