神君伊賀越えず 1
歴史に「もし」が禁句なのは承知しているが、1つだけ興味を持っている「もしも」がある。1582(天正10)年6月、本能寺の変に巻き込まれた徳川家康は大坂から三河国まで脱出行を演じているが、この際に家康が殺されていたら……と …
歴史に「もし」が禁句なのは承知しているが、1つだけ興味を持っている「もしも」がある。1582(天正10)年6月、本能寺の変に巻き込まれた徳川家康は大坂から三河国まで脱出行を演じているが、この際に家康が殺されていたら……と …
屋敷へ敵取懸候処、堅固遂防戦、敵十五人打取験、津久井迄指越由、忠節無比類候、此度之間、弥尽粉骨、可走廻候、本意之上、随望可致褒美者也、仍如件、 三月十二日 (北条氏康花押) 小田野とのへ →「北条氏康判物写」(佐野家蔵文 …
天文年間に三河国で散見される『安心』という人物について、その出自を考慮していた。到底判らないものと諦めていたが、ついに知見を得たのでここに記しておく。 ■安心軒の俗名 2次史料ではあるものの、そのものずばりの名前が出て …
創元推理文庫の『漂流巌流島』(高井忍著)を読んだ。主人公が脚本家の4話もので、それぞれ、巌流島の決闘・赤穂浪士の討ち入り・池田屋事件・鍵屋の辻の仇討ちがモチーフとなっている。 ひょんなことから素人歴史研究家が矛盾に気づき …
今度軽身命、度ゝ走廻候、忠節候、仍太刀一腰遣之候、自今以後、弥就走廻者、随望可加扶助者也、仍状如件、 閏三月十日 氏康(花押) 小田野源太左衛門尉殿 →「北条氏康判物写」(佐野家蔵文書) 1561(永禄4)年に比定。 …
西三河最大の国人で、安心軒とともに三河国宗主権を保持していたと思われる「松平蔵人佐」について、記載文書を抽出してみた。 A:1523(大永3)年~1526(大永6)年9月 松平一門・家臣奉加帳写 「弐千疋 松平蔵人佐 …
JR横浜線の小机駅から、歩いて10分。横浜線と第3京浜が交差するという現代でも要衝の地に小机の城跡がある。途中の住宅街が若干入り組んでいるものの、城はずっと見えているので迷うことはないだろう。 私が初めて小机を訪問したの …
定 一小田原請取之役所ニ可置者三人、此内壱人竹木以下可出入、手代之者二本鑓持之内、以上三人、諸色之武具如定可指置、此外十人参陣、一乍毎度之儀、参陣之者、弓一人無不足、兼日如定置厳密ニ相嗜、可致参陣事、一留主ニ置者之交名悉 …
戦場を指す言葉として、「地名+口・表」がある。時代別国語辞典によると、以下のように定義されている。 口 2-5 地名につけて、そこへの出入り口に当たることを示す。 表 2-2 戦場で、直接敵と戦う前線。陣や隊列の先頭。 …
2007年8月27日にWikiからBlogへ変更されてから、早いもので3年が経過した。Pukiwikiで記事をアップしていた頃から勘定すると、5年超である。紆余曲折ありつつ今川義元敗死の原因を追究し続けてきた。 45 …