天文年間に三河国で散見される『安心』という人物について、その出自を考慮していた。到底判らないものと諦めていたが、ついに知見を得たのでここに記しておく。

■安心軒の俗名

 2次史料ではあるものの、そのものずばりの名前が出てくる文献がある。

1517(永正14)年6月 今川家譜
今川氏親、遠江国で斯波義達方を撃破する
「大将ノ武衛殿色々降参ノ望有ケレハ命計リ助被申、城ヲ追出普済寺ト申寺ニ入出家アリ、法名安心ト名付主従五人尾張ノ地へ送リ申」

 ここでは、斯波義達が今川氏親に出家させられた後の名前が『安心』であると書かれている。永正14年以降、義達は尾張で活躍することはない。義淳と名前を変えたか、義統に家督を譲ったと考えられているようだが、三河に留まって独自政権の構築を模索したという可能性もあるのではないか。それが『安心』かも知れない。その論拠を挙げてみる。

■安心の立場

 1次史料上の『安心』を、事実上の三河国主として読み直してみる。

1)1544(天文13)年と比定される書状で登場

9月25日 水野十郎左衛門宛て 長井久兵衛書状

「尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉」

9月23日 安心軒・瓦礫軒宛て 斎藤利政判物
「松次三被仰談御家中被固尤候」

 何れも厚礼であり、安心が斯波義達であれば、家格としては相応しい。水野氏・松平氏との中継を担っているのは、衣領(高橋荘)にいたからかも知れない。『安心』が水野氏・松平氏を緩やかに統合している状況があると思われる。

2)1546(天文15)年9月28日の、牧野氏書状に登場

牧野康成条目写
「先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候」

 この書状では、松平蔵人佐と同時に登場している。牧野氏がこの書状で出した条件というのは、田原・吉田・長沢をどのように扱うかという三河国の利権配分である。この書状のお墨付きとして、松平蔵人佐と安心軒が登場するということは、三河国利権は、今川義元を頂点として、松平蔵人佐・安心軒の下に牧野氏を始めとする三河国人、という階層を形作っていると推測可能である。但し、今川・織田両氏服属という選択も行なえたのではないかと考えられる。いうなれば、規模が極大化した半手の村である。
 のちの北条氏康書状で、織田信秀が「今川氏に相談せず三河の国に攻め込んだ」と書かれているのは、元々は安心軒(後年は松平蔵人佐も)が統治する三河国の集団があり、これに干渉したのが織田氏・今川氏だったと考えると筋目が成り立つ。そして、織田方と今川方が和睦する際に諸権益を分配して確定事項を作っていたのだと考えられる。織田方の権益を保障するために信秀が出陣するのだとしても、和睦要件として今川氏への相談が前提にあったのだろう。

3)年次不明3月28日の鵜殿氏書状の宛先として登場

年次不明 鵜殿長持書状写
鵜殿長持、『安心』に織田信秀の裏工作を譴責する

 鵜殿長持から「信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条」と指摘されていることから、信秀密書は安心軒の書状に紛れていたものと考えられる。このため、長持は安心軒を譴責したのだろう。この文書は刈谷赦免に関係すると考えられるので、天文18年頃ではないか(参照:検証A14:織備懇望の内容)。

4)織田達成の偏諱として登場し、そして退場

1554(天文23)年12月 織田達成判物

 「達」は「斯波義達」からの偏諱と考えられる。同じ花押を持つ人物は1557(弘治3)年11月には「信成」と名乗りを変えている。ということは、1554年から57年までの3年間に、この人物が『達』の偏諱を変える要因があったと思われる。直線的に考えるならば、斯波義達(安心軒)の死が想定される。

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