西三河最大の国人で、安心軒とともに三河国宗主権を保持していたと思われる「松平蔵人佐」について、記載文書を抽出してみた。

A:1523(大永3)年~1526(大永6)年9月
松平一門・家臣奉加帳写
「弐千疋 松平蔵人佐 信忠」

 松平一族の中で最大の人物が「蔵人佐」を名乗っていることが判る。この時点での名乗りは「信忠」で、後に織田氏・水野氏が名乗る通字に近しい。

B:1542(天文11)年6月
松平信孝寄進状
「松平蔵人佐 信孝(花押)」

 名乗りが「信孝」と変わっている。Aから少なくとも16年経過しており、代替わりした可能性もある。通字は変わらず「信~」となっている。同時期に大給松平氏の当主だったと見られる松平和泉守の諱は「親乗」であるが、これは今川氏親からの偏諱と思われることから、松平一族内でも今川、織田の両派があったようだ。

C:1546(天文15)年9月28日
牧野康成条目写
「此五ヶ条之内一ヶ条を除四ヶ条之事者、先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候、猶只今承候間、我等加印申候者也、仍如件」

 Bの4年後。三河国人牧野康成は、今川氏と知行獲得交渉の只中にあった。その際に、康成の上位者として「松平蔵人佐」が登場する。今川氏は三河国人個々との交渉も行ないつつ、三河国全体の代表者として松平蔵人佐・安心軒を認めていた。織田氏に近しい立場を維持しつつ、今川氏と交渉に臨んだのだろう。この人物が信孝かどうかは定かではない。

D:1548(天文17)年3月以前
今川氏真判物写(文書自体は1560(永禄3)年12月2日)
「松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、」

 Cの2年後になると、織田方と今川方が交戦状態に陥る。天文17年の小豆坂合戦では、松平蔵人佐は織田方について戦っていることが判る。前項Cと同じく信孝かは不明。但し、Eの元康である可能性は、元康の年齢(5歳)から限りなく低いと考えられる。

E:1559(永禄2)年11月28日
松平元康判物
「蔵人佐 元康(花押)」

 Dの11年後、松平蔵人佐の名乗りは、元康に移る。「信~」の通字は消えて、義元からの偏諱である「元~」となり、今川氏側近としての色彩が強くなっている。

 上記から、1524(大永4)年~1548(天文17)年の24年間を通じて松平蔵人佐は「信」の通字を経て尾張国織田氏と関わりを持ち、1559(永禄2)年に至ってようやく今川氏の偏諱を名乗っていたことが判った。

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