JR横浜線の小机駅から、歩いて10分。横浜線と第3京浜が交差するという現代でも要衝の地に小机の城跡がある。途中の住宅街が若干入り組んでいるものの、城はずっと見えているので迷うことはないだろう。

小机駅ホームより城跡を望む

小机駅ホームより城跡を望む

私が初めて小机を訪問したのは15年近く前だったが、その際は城下の根小屋集落は古い民家が多く、小机城に関係のある人々がまだ住んでいる雰囲気があった。現在では城のすぐそばまで新興住宅地が押し寄せている状態で、往時の面影はない。

根小屋と称される集落より登る

根小屋と称される集落より登る

城の縄張りは、第3京浜・横浜線による破壊された部分が多く未解明だという。それでも、東西の主郭は残されており、中心部は明確に遺されている。

かなり年季の入った想定図看板

かなり年季の入った想定図看板

城跡内はほぼ全域を竹林が覆っており、藪をかき分けるような場所はない。下草も刈られて起伏をしっかり見られる。竹薮になってしまうと竹の根が遺構を破壊することもあるようだが、現状は問題ないように見受けられた。

東西郭を区切る堀底は遊歩道になっている

東西郭を区切る堀底は遊歩道になっている

また初見の頃の話に戻るが、当時は丸太の展望台のような井楼が模擬で東郭に建っていた。とはいえ、登ったとしても木々に遮られて余り眺めが良くなかった印象がある。鶴見川が一望できるかもと期待していたので少々落胆した記憶がある。その展望台も撤去されている。

西郭矢倉台は、以前丸太組みの井楼が建てられていた

西郭矢倉台は、以前丸太組みの井楼が建てられていた

最後に、小机城の最大のセールスポイント、比高二重土塁をご紹介しよう。これは縦深で土塁を2重化したもので、後北条系の城跡に多く見られるという。

城の中心部を高い土塁で囲い、その向こうに低い土塁を配置する。そして、土塁と土塁の間を空堀とするものだ。攻撃側が手前の低い土塁を越えると、空堀がある。防御側はその向こう高い土塁から狙い撃ちという仕掛けだ。

東郭南の空堀とその対岸は比高二重土塁になっている

東郭南の空堀とその対岸は比高二重土塁になっている

比高二重土塁の外縁から空堀を覗く

比高二重土塁の外縁から空堀を覗く

茅ヶ崎城では西に向かって僅かに見られた比高二重土塁が、小机でははっきりと遺されている。河川と集落と位置関係、郭と矢倉台の配置などで茅ヶ崎城・小机城はよく似た構造を持っている。

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2 comments untill now

  1. マリコ・ポーロ @ 2010-09-08 23:25

    小机城の竹は、はびこり過ぎてますよねえ。観光の目玉にしているようなので、あまり伐採(最近、気になるワードです)しないんでしょうかね。
    確かに美しいとも思います。竹林のような空堀を歩いていると、京都か鎌倉のお寺にいるかのように錯覚しそうですよね。
    小机城も、はたして幻庵殿の城か、後を継いだ人達も、氏堯殿?氏光殿?景虎さん?それぞれの人物もいろいろ説があるし(今は、ハッキリしているのですかね?)、小机城のポジショニング自体にしてもそうですが、調べ出したらまた限がなくなり楽しそうですね。

  2.  コメントありがとうございます。手入れしているので竹の根は問題ないとは思うのですが、あまり張り過ぎてもよくないですよね。空堀が崩れても観光資源にはならないと思うので、自治体も留意していることを祈りたいです。
     小机城主は『北条早雲とその一族』(黒田基樹著)によると、為昌(氏康次弟)→宗哲(幻庵)→氏尭(氏康末弟)→三郎(宗哲長男)→氏信(宗哲次男)→氏光(宗哲女婿)のようです。氏信と氏光の間に三郎景虎が介在したようですが、3ヶ月程度で越後に送られているので小机城に着任はしなかった模様です。ちなみに黒田氏は、氏光が氏尭次男ではないかと考察していました。それにしても、小机城主は宗哲の逆縁ぶりがそのまま反映された顔ぶれになっていますね 😥