今川義元、天野孫七郎の『佐久間九郎左衛門切』を褒める
於去年高橋衆任兼約之旨、佐久間九郎左衛門切候、依其忠節、竹千代大浜之内藤井隼人名田之内五千疋、扶助之云々、抽粉骨之上者、永不可有相違者也、仍如件、 天文十九 十一月十三日 治部大輔 在判 天野孫七郎殿 →静岡県史「今川義 …
於去年高橋衆任兼約之旨、佐久間九郎左衛門切候、依其忠節、竹千代大浜之内藤井隼人名田之内五千疋、扶助之云々、抽粉骨之上者、永不可有相違者也、仍如件、 天文十九 十一月十三日 治部大輔 在判 天野孫七郎殿 →静岡県史「今川義 …
今度佐久間切候事、無比類候、然者兼約之事ニ候得者、藤井隼人名田之内を以為五拾貫文出置候、於末代不可有相違候、仍如件、 天文十八 十月廿七日 安部大蔵 在判 石河右近将監 在判 天野孫七郎殿 →静岡県史「石河右近将監・安部 …
北丹進退之事、越相一味申上者、有御赦免、可被懸御意候、此儀其方頼入存候、委細源三申入候、恐々謹言、 卯月廿七日 氏康 山吉孫次郎殿 →戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状写」 北丹(北条丹後守)の進退ですが、越後と相模が …
去廿四日寺部へ相動之刻、廣瀬人数為寺部合力馳合之処、岡崎并上野人数及一戦砌、弟甚尉最前ニ入鑓、粉骨無比類之処、当鉄炮令討死、因茲各重合鑓、遂粉骨之間、即敵令敗北之条、甚以忠節之至也、彼者事者、去辰年上野属味方刻、勝正同前 …
如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷 …
貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故不申入候、背本意存候、抑駿州此方間之義、預御尋候、先年雖遂一和候、自彼国疑心無止候、委細者、御使可申入候条、令省略候、可得御意候、恐々謹言、 天文十七 三月十一日 氏康 在判 織田弾正 …
参河国奥郡野田郷一円代官職之事、散田共ニ、 一就長沢在城、惣員数之内弐百五十貫文、為給恩可引取之事 付、此内五十貫文与五右衛門尉ニ宛行之、 一為不入申付上者、諸課役并吉田之原普請人足等停止之、長沢之城中普請無油断可申付 …
今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したの …
貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦 …
去々年参河今橋外構乗取之刻、於城際頸一討捕伊藤、蒙鑓疵鑓三本突折、高名所無比類也、殊最前弥右衛門同時寄陣於了念寺之条、誠軍功之至也、然去年未田原取出城、至于当年二ヶ年詰陣、昼夜用心敵城不虞之働、是又粉骨之至感悦也、弥可抽 …