去廿四日寺部へ相動之刻、廣瀬人数為寺部合力馳合之処、岡崎并上野人数及一戦砌、弟甚尉最前ニ入鑓、粉骨無比類之処、当鉄炮令討死、因茲各重合鑓、遂粉骨之間、即敵令敗北之条、甚以忠節之至也、彼者事者、去辰年上野属味方刻、勝正同前ニ従岡崎上野城へ相退砌も、既尽粉骨之上、彼城赦免之儀相調之間、彼此以忠功令感悦者也、仍如件、

永禄元年

四月廿六日

義元(花押)

足立右馬助殿

→戦国史研究 52号「今川義元感状」

 去る24日の寺部に出撃した際、寺部の援軍として出動した広瀬の部隊に馳せ向かったところ、岡崎と上野の部隊が一戦に及び、弟の甚尉は真っ先に槍を入れた。粉骨は比類がなかったが鉄砲に当たって討ち死にした。これにより各部隊が槍を合わせ粉骨を遂げたおかげで敵を敗北させた。はなはだもって忠節の至りである。彼は去る辰年(1556(弘治2)年)に上野が味方に属した際、勝正(右馬助?)と同じく岡崎より上野城に退いた折も、既に粉骨を尽くした上、あの城が赦免になるように調整した。かれこれの忠功は感悦するものである。

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