去々年参河今橋外構乗取之刻、於城際頸一討捕伊藤、蒙鑓疵鑓三本突折、高名所無比類也、殊最前弥右衛門同時寄陣於了念寺之条、誠軍功之至也、然去年未田原取出城、至于当年二ヶ年詰陣、昼夜用心敵城不虞之働、是又粉骨之至感悦也、弥可抽忠節之状如件、
天文十七
十二月廿日
義元
大村弥三郎殿
→静岡県史「今川義元感状写」
一昨年三河今橋の外郭に攻撃した際、前線で伊藤という者の首級を上げた。槍で負傷しながら槍3本を折ったのは名誉であり比類がない。特に其の直前に弥右衛門と同時攻撃した了念寺の件も軍功の至りだ。去年未歳から田原城に対する砦に駐屯して2年になる。昼夜用心して敵城を恐れぬ働きをした。これも活躍の至りであり感悦している。いよいよ忠節に励むように。
[…] 表題の通り、これまで集めた史料を元に大幅に加筆を行なった。1543(天文12)年から1567(永禄10)年までの史料を集め、三河を巡る織田・今川氏とその関係者の動向を中心に列記してある。 その史料の大半は今川氏の関係者によるものだが、これは恣意的に選別したのではなく、織田氏関係の史料が手元になかったことによる。典拠は歴史記事の出典にあるが、この他にご存知の向きがあれば是非情報をお寄せいただきたい。 なお、時系列の見直しで、検証a21:小豆坂合戦の趨勢内の記事を改変した。大村弥三郎が田原を攻撃していたのは1547(天文16)年までであり、義元感状で「至于当年二ヶ年詰陣、昼夜用心敵城不虞之働」としているのは別の拠点であり、恐らく医王山砦だと考えられるためである。 […]