貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦可果之由、項羽自雖被打向候、高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝事、漢之代七百年を被保候、縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、但駿遠若武者被聞及候者、朝蔵・庵原為始、可為其望候哉、此段之事候へ者、去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、武新二前被申様ニより、重而談合可申候、恐惶謹言、
三月廿八日
鵜殿長持
安心
参 御報
→静岡県史「鵜殿長持書状写」
お手紙の詳細を拝見しました。よって信秀から『飯豊』(飯尾豊前守連竜?)への書簡も内々に見たところ、この戯言がありました。現在講和の交渉が過半まで来ているというのに。とりあえず飯豊には届けず我々が預かっています。総じてあのおっしゃりようは、昔にも例が多いものです。項羽・高祖(劉邦)の戦争もそうです。支那400州の人民の煩いとなったこの戦争は、二人の遺恨が原因で戦となったと言います。項羽より攻撃を仕掛けたのですが、高祖は敵の調略に乗らない深慮によって結局勝利し、漢帝国700年を築きました。たとえこの書簡を飯豊が読んだとしても、この策謀に同意することはないのではありませんか。但し駿河・遠江の若い武士がこの事を聞いたなら、『朝蔵』(朝比奈氏?)・庵原を初めとしてその望み(強攻策?)を行なうのではありませんか。このような事では、去年以来の私の努力は叶わないので、兎にも角にも無事が一番です。『武新二』(武井・武田・武衛?)が前に申されたように重ねて打ち合わせして下さい。
草書体での記述で考えると、『武衛』を『武新』と誤写した可能性もある。現状では『武新』該当人物が見当たらないため、一先ず武衛であると仮定する。